12月3日、三重県に来て、あちこち見ながら北上してきた。
そして桑名見物のあと、桑名駅を予定より早く14:55に出た。
すぐに揖斐・長良川の鉄橋を渡った。
1両目に乗っていたので運転席のすぐ後ろに行って、川を見た。
14:59 JR長島駅着。
伊勢長島ではなく、長島が駅名。
15:01
JR長島駅
外観は寂しい駅であるが、
一日乗車人数は500人くらいだから数十人の飯山線の駅よりずっと多い。
島の中に学校や職場がなく、川を渡る橋が少ないから利用客が多いのだろうか。
滋賀県でよく見かけた飛び出し坊や?飛田君?がいた。
間に岐阜県があるが、鈴鹿峠のほうから広がってきたのだろうか。
15:02
近鉄長島駅
長島とつく駅は、長島、近鉄長島、紀伊長島、と3つしかないのは意外だった。
近鉄は何でこんなに近いところに駅を作ったのか、これでは客を取り合うではないか、と思ったが、鉄橋を単独で作るわけにはいかず、一つの鉄橋を渡り、細長い長島に駅を作るとすれば、同じところになる。
よく考えたら西隣の桑名も、木曽川を渡った東隣の弥冨もJRと近鉄は同じところに駅を作っている。
信長が手を焼いた長島一向一揆の本拠地である。
地図を見たら、途中、すぐ近くに六辻があった。ひとつは微妙に中心からずれているから5プラス1であり、ますます複雑である。この信号機はどう作動するのだろう?15:05
と思って現場に来て見たら、信号がなかった。
難しすぎて敢えてつけないのかもしれない。
15:08
このあたり、家は石垣の上に建っている。
15:09
どの家も石垣の上である。
この3つの川は、JR岐阜駅の南あたりから墨俣、大垣なども含む広い範囲で、合流、分流を繰り返し、いくつもの中州のような地形を作った。そこにできた集落は、周囲を堤防で囲んだ。
輪中(wikiから)。
美濃、伊勢、尾張を色分けしている。
ふつう堤防というのは川の上流から下流まで両側を堤で挟むようにする。しかし、ここは流路が網目のように複雑だったことに加え、古い時代、すなわち村落連合共同体が小さいうちから治水をしたから、自分たちの集落だけを囲むような堤を作った。
それでも水害は頻繁に起こり、そのたびに川は流路を変えていく。
では美濃、伊勢、尾張の国境はどうだったのだろうと思うが、実際、8世紀ころから尾張と美濃は洪水の多い地域を互いに押し付けあうようなこともあったらしい。
おおよそ現在の河道に落ち着いたのは1586年の大洪水の後で、秀吉が1592年から3年間で堤防を築き(文禄の治水)国境を明確にした。江戸時代には幕府が手伝い普請として、薩摩、二本松、徳島などの各藩に命じて治水工事を行ったが、3川の網目状態は変わらず、水害はなくならなかった。
明治になって、外国人技師によって本格的な治水事業が1887年から始まる。まず長良、揖斐川の川床、水面を低くするため、木曽川の分流工事が、続いて長良、揖斐の分流が行われ、1900年に三川分離が完了した。その後も揖斐川の改修や堤防構築などの工事が続き、終了したのは1911年だった。
今この3つの川をみれば、ところどころ(というよりかなりの部分が)細い堤防(背割り堤)だけで分かれている。洪水時の合流による乱流をふせぐためという。川(水域)としては一体(一帯)だが、水だけが分かれている。そこまでして分流が必要だということを初めて知った。
さて、輪中は学校の社会科で習ったから、何か見られればいいと思っていた。
しかし河川工事で流路が単純化されるとともに、囲い堤防が消失、また集落と川の距離が離れ、都市化が進み、昔の輪中構造は分からなくなっていることだろう。
ここ長島は、文字通り今でもはっきり川に囲まれている。
昔とは違うだろうが、堤防にも囲まれている。
何かわかることはないか?
航空写真で一つ気が付いたのは、家が中洲の真ん中、つまり川から離れたところでなく、むしろ水際、すなわち木曽川、長良川の堤防に沿って建っていることだ。明治以降の堤防は決壊しないよう傾斜を緩くして幅広くしているからスペースはあり、中洲で一番標高が高い水際が住宅最適地なのだろう。
長島の中心部は古くからの家々である。堤防側に引っ越すわけにもいかず、昔からの石垣土台のうえに新築するしかやりようがない。
15世紀に北勢四十八家の一つ、伊藤氏によって築かれた。
1570年、一向宗・願証寺の住職、証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。
信長に鎮圧された後は、滝川一益、織田信雄の支配となり、江戸時代は1万石から2万石の菅沼氏、久松松平氏、増山氏の長島藩がおかれ明治維新を迎えた。
15:13
長島城址
さて、有名な長島一向一揆のことである。
信長は桶狭間(1560)の翌年尾張を統一した後、美濃に向かった。1567年稲葉山城を落とし美濃を平定、1569年、伊勢もほぼ掌握した。
ところが1570年、石山本願寺が反信長で立ち上がると、長島でも願証寺の住職、証意に導かれ門徒が一斉に蜂起した。そこに北伊勢の小豪族の一部も加わり、桑名の滝川一益を敗走させた。
このころ信長は近江で浅井・朝倉と退陣していて援軍を出せなかったが、1571年5月、自ら5万の兵を率いて北伊勢、長島に出陣、村々を焼いたが、桑名方面から海路を使って雑賀衆らが兵や兵糧・鉄砲などの物資を運び、信長は制圧には至らず引き揚げた(第1次)。
水に囲まれた島というのは、守りやすく攻めにくい。
1573年9月、浅井朝倉を滅ぼした信長は再び長島攻めを敢行した。8万の兵を率い、長島の周囲の城を落としていく。しかし長島への侵攻に至らず(第2次)。
1574年7月、信長は織田領の全域から12万の兵を集めた(第3次)。
九鬼水軍も動員し、海陸、東西南北、四方からの織田軍の猛攻を受けた砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。門徒たちは兵糧攻めで耐えられなくなり降伏を申し込んだが信長は許さず殲滅を命じた。
最後に残った屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火をつけた。城中の2万の男女(農民、漁民)は焼け死に、同日、信長は岐阜に向け帰陣したという。こうして、門徒による長島輪中の自治は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。
江戸時代になって長島城は長島藩の藩庁になった。
一時廃城になったが、増山氏が入ると拡充、改修され、しかしもちろん天守は上げられなかった。現在、長島城跡には、桑名市立長島中部小学校と長島中学校がある。
15:14
長島中部小学校
都会の小学校と違って自由に入れる。
15:15
大きな黒松があった。
幹回り3.15メートル、
長島城本丸の南西隅にあったというが、樹齢3百数十年というから、一向一揆の血は吸っていない。
15:18
城の東は長島川。濠の役も果たした。
15:20
桑名市立長島中学校
城址に建つ学校らしく、正門は屋根がついていて、校舎も昔を配慮した姿にしている。
15:20
長島中学
中学校の道路側の塀際に「伊勢湾台風の水位」と書かれたプレートが立っていた。
島で一番高いここで水があそこまで来たなら、長島の家はすべて水没したはずである。
昭和34年9月、死者行方不明者5000人以上。
超大型だった。
最も外側の閉じた等圧線の直径は、たいてい600~1500kmのところ、室戸台風(1934年、昭和三大台風のひとつ)が最盛期で約2,000kmであったのに対し、伊勢湾台風は約2,500kmにも及び、暴風域も非常に広かった。(ちなみに日本列島4島の外接円は直径2070km、北海道を除くと1350kmである)
超大型ということは超強力ということでもある。潮岬に上陸したときも929hPaという超低気圧を維持した。
伊勢湾では風速40メートル以上という強い風と低気圧による吸い上げ効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず、名古屋港では海水位が3.89メートルあがったという。
・・・
長島城址を出て夕日と風が寒くなった道を長島駅に向かった。
ほとんど人と会わなかった。
JR長島から名古屋駅まで5駅、26分、340円。
地下街をぶらぶらしてJR高速バスに乗った。17:00名古屋発。
これは東名高速に設けられた各停留所に止まり客を乗せ、また路線バスのようにボタンを押せば止まって降ろしてくれる。時間がかかるから、安いのに(2400円)数人しか乗っておらず、ガラガラだった。
23:17東京着の予定だったが、名古屋市内で混んでいたのか、バスは遅れた。遅れても休憩時間は予定通りしっかりとり、運転手に挽回しようという動きはなかった。
うかつにも、ここで初めて東京についた後のことを考えた。終電に間に合わなかったらどうしよう。数年前は大手町から千駄木まで歩いたが、もうその元気はない。値段につられて大失敗したかと思ったが、無事電車で帰宅できた。
いままで知らなかった三重県がこの1日でだいぶ身近になった。
20251224 伊勢7 七里の渡し、桑名城と松平定信
20251220 伊勢6 桑名の柿安本店、本多忠勝、長良河口堰

















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