12月3日、伊勢市、田丸、松阪、津、四日市と三重県の主要部を北上してきて、桑名についた。
13:30
桑名駅。
JR、近鉄、養老鉄道の合同駅舎である。
新しく機能的だが旅行者向きの風情はない。
もらった地図で真っ先に見るのは桑名城だが、そこに行く途中に「柿安本店」があった。
そうだ。柿安は確か桑名に本社があった。
前を通っていこう。
八間通りをいく。
一間=6尺は1.82メートルだから八間は14.6メートル。
今の通りの車道分くらいだろうか。
津の国道23号の50メートル、四日市の中央通りの70メートルと比べると大分狭く、ごく普通の道路だが、こう名付けられたということは当時、規格外の広さだったのだろう。
調べたら明治27年(1894)関西鉄道(のちJR関西本線)の仮駅が開業。翌年現在地に移転、大正時代に町の中心、お城と駅をまっすぐ結ぶ幹線道路が完成した。これが八間通りである。
大正8年に養老鉄道、昭和4年に伊勢電鉄(現近鉄名古屋線)が乗り入れ、駅前通りとして桑名の中心通りになった。1キロだったが(日本一短い)市電も走った。
しかし1975年、駅前再開発で新しい駅舎は少し南に移動、駅前正面通りではなくなってしまった。電柱を地下に埋めるなどしたが、すっきりした半面、賑やかさはない。
13:37
八間通り
すぐ先で交差するのは国道1号線。
しかしこの写真は何を撮ったのか思い出せない。
とにかく八間通りをずんずん東に歩いていく。
13:43
これは何を撮ったかはっきり覚えている。
ケヤキを保護しようと周りに防護柵を置いたら、逆にそれが木を締め付けている。何年も前から見て見ぬふりをしないとこうならない。
向かいは海蔵寺。観光地図に「薩摩義士の墓」とあるが立ち寄らない。
13:45
寺町通り
お城の近くの濠端(外堀か?)に沿ってアーケード商店街があった。
てらまち広場の公衆便所は建物として何かの遺構かと思った。
13:49
観光地図にあった「柿安本店」に到着。
全国の駅ビル、デパ地下にある「柿安」の「本店」ということではない。会社名が「柿安本店」なのである。いまも桑名に本社を置く。私は何回か柿安の株式を買ったことがあるので少し人より詳しい。
この店の看板は「柿安・料亭本店」だった。
13:50
2つ目の堀の多聞橋から柿安を振り返る。
13:51
スパゲッティナポリタンが出るような喫茶店・はせ川。
すぐにまた濠がある。
13:52
3つ目の濠の舟入橋
渡ると城内。
この西を東海道が通っていた。
桑名城
正保城絵図(国会図書館蔵)
一番西(左)の濠端が寺町通り。
3つ目の濠を渡ると武将の座像がある。
13:52
本多忠勝像
桑名というと、この銅像の人物より、幕末、京都に派遣された不運な藩主のほうが思い浮かぶ。
実兄の会津・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代をむりやり押し付けられ、兄弟で攘夷志士の暗躍する京都の治安維持にあたった。
戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見では会津、桑名を主力とする幕府軍は圧倒的兵力をもっていたが、慶喜が突如、二人を引き連れ江戸に逃げ帰り、総軍崩れ、孝明天皇の信頼も篤かった会津、桑名は突如、朝敵となった。
さて桑名城のシンボル、座像の本多忠勝(1548₋1610)。
織豊時代、桑名は滝川一益、織田信雄のあと、秀吉の家臣が何人か治めた。
関ヶ原の後、1601年、徳川四天王の一人、本多忠勝が上総大多喜から10万石で入った。秀吉時代、家康家臣はすべて関東であったが、関ヶ原のあとは重臣を全国の要地に配していく。
彦根(井伊)などとともに桑名も軍事的、経済的に重要地点だった。
しかし大坂の陣の後、1617年、忠勝の嫡男忠政は西国の押さえとして、ここも要地・播磨姫路に15万石で加増移封された。
このとき嫡男すなわち忠勝の嫡孫・本多忠刻は、家康の孫娘で秀頼の正室となり冬の陣のとき助けだされた千姫と婚姻していたこともあり、別に化粧料10万石をつけられた。
猛将・本多忠勝は鹿の角の兜の肖像画で有名であるが、この坐像の兜もそれを反映していた。
城跡公園というのは誰かを銅像にしなくてはならない。わずか17年の本多家はその後の長い歴史を持つ桑名で影が薄いが、その初代忠勝は桑名城を築いたということで意味はあるか。
13:53
本多忠勝像のむこう、城内にまた柿安が。
今度は先ほどの料亭と違ってマンションのように大きい。
13:55
年末年始の予約肉を受け付けていた。
柿安は桑名だったから江戸時代あたりに名物ハマグリの佃煮などから出発し、同じ伊勢の松阪牛のしぐれ煮に広げ、全国展開してから様々な総菜を作り始めたと思っていた。
しかし今調べると明治4年(1871)の赤塚安次郎による桑名の牛鍋店が始まりだったという。
昭和43年(1968)、株式会社「柿安本店」を桑名に設立。
1972年「牛肉しぐれ煮」の販売を開始した。
1981年には精肉加工工場を新設した。
そして1989年、本社を桑名市江戸町から桑名市吉之丸に移転。
ん?この場所ではないか。
三の丸とはいえ、城内でこんな大きな私的ビルを建てていいものだろうか。
まあ、忠勝坐像の横は柿安コミニティーパークだったし(多分私有地で寄付?)、市内地図を見れば中心部に柿安シティホールというのもある。桑名市への貢献大ということで市のシンボルともいえる城内に本社ビルの建設が許されたのかもしれない。
一階は店舗になっていた。
13:55
ふつうのスーパーのようにリンゴやイチゴも売っていたが、基本的には精肉、惣菜、弁当、和菓子などの食品専門店のようであった。
堤防と感じさせないような芝生の緩い坂になっている。
上り切ると揖斐川。
13:58
伊勢湾の方向
このあたりの川は既に海のようだ。
13:58
揖斐川の上流方向は山が見える。
すぐ東(右)に薄皮のような土手を隔て長良川が接していて、そちらには水門が作られている。
昔、「清流・長良川を守れ」と環境保護団体が反対した長良川河口堰である。計画は1960年。1968年閣議決定、1988年着工、1995年完成。
かつて長良川は、大きな河川としては本州で唯一、本流に堰(ダム)がなかった。
堰の目的は工業用水の確保であったが、計画が30年以上紆余曲折するうちに中京地区で盛んな重工業がさして水を必要としなくなってしまった。目的がなくなったのだから本来はここでやめればいいものを、国、自治体というのは絶対やめない。税金を食い物にして大儲けする人がいるからだ。
結局、洪水防止に名目を変更して建設が進められたが、どこが洪水防止になるのだろう。そもそもこの堰はそんな目的で必要としたものではなかったから、答えられるはずがない。
大雨のときは閉じても意味がない。満潮のときの逆流を防ぐためか? でも東岸、輪中の長島にあふれてしまう。
調べたら「長良川の浚渫を可能にし洪水を安全に流下させる」といったらしい。これを詭弁という。堰で流れを止めれば上流の浚渫作業が容易になる、という言い分を受け入れても、下流、海側の川床が高ければ意味がない。
「公共事業というのは大いに無駄遣いしても、経済を回すから必要なのだ」といえばよい。治水とか利水というから突っ込まれる。
(つづく)
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