この寺は家からすぐ近くで、かつ大きい。
だから北西方向の本郷通りに出ようとするとぶつかって近道できない。駒込病院との間の長い塀に挟まれた猫道のような通路とか、周囲は何回も通っているのだが、入ったのは初めて。
山門はぐるっと回って反対側。
旃檀林という額が掲げられている。
学寮の名前で、江戸時代、ここは昌平黌と並ぶ漢学の中心地であった。明治になって、ここ吉祥寺の旃檀林を中心に青松寺学寮(獅子窟)と泉岳寺学寮を統合し、明治15年(1882年)曹洞宗大学林専門学本校となったのが、駒澤大学の前身である。
さて、神社と違ってお寺は入りづらいので初詣の時期を狙ったのだが、9日ともなるとほとんど人がいなかった。それでも黙って入っても気兼ねしないくらい広かった。
吉祥寺は、もと本郷元町(水道橋の都立工芸高校あたり)にあった。
正保年中江戸絵図(1644ころ) 国立公文書館蔵
しかし明暦の大火で寺はこの地に移り、門前の住民は五日市街道の郊外に移った。かの地は駅名にもなっている。
入ってすぐ八百屋お七と吉三郎の比翼塚があった。
恥ずかしながら八百屋お七と振袖火事(明暦の大火)を混同していて、( こういう人いません?) なんで振袖火事で焼かれ、この地に移ってきた吉祥寺に、火付け人の墓があるのかと思ってしまった。
八百屋お七は、実在かどうかも含め、いろいろ説がある。
本郷(駒込東片町)の八百屋市左衛門の娘で、天和の大火(1683)で一家が焼け出され吉祥寺(正仙院?とも。本郷森川町にあった正泉院?)に避難したとき、そこで寺小姓の吉三郎(吉三、佐兵衛、庄之助との説も)に恋した。店が立て直され戻った後も思いが募り、火事になればまた会えるかもしれないと放火。これはボヤで済んだが火あぶりの刑に処さる。
一方、振袖火事は、明暦3年(1657年)本郷丸山から(続いて小石川、麹町からも)出火、江戸の大半を消失、これで多くの屋敷や寺社が移転した。出火原因は、結核?で死んだ娘の振袖を棺にかけて本郷丸山の本妙寺に運びこまれたことに始まる。当時の習慣として寺男がもらっていいことになっていて、彼らはそれを売った。ところが、それが渡った先の娘がまた死んで振袖をかけられ本妙寺に運び込まれる。再び売ると、また娘が死んで振袖は描けれられて戻ってきた。寺ではさすがに因縁を感じ、供養して燃やしたところ、振袖が火の粉を散らしながら天高く舞い上がり、大火となったという。
比翼塚の左側(写真手前)はかつて大正時代から吉祥寺山門前にあり、1993年に板橋に移った駒込生花市場が建立した「花供養塔」である。
進むと広い参道の左側に二宮尊徳の像や、鹿島建設中興の祖といわれる鹿島守之助の墓がある。なおも進むと奥の方に空き地があって石材店の人が作業していた。
向こうに見えるのは駒込病院。都心とは思えない風景。
2017-1-9
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