ダンスの練習がないと休日がそっくり空く。
きょうは自転車で板橋宿へ行く。
白山上あたりから行こうかと思ったが、前回、本郷追分から中山道を日本橋まで行ったので、
自転車で旧街道3・円通寺、小塚原から北千住
自転車で旧街道2・日本橋から吉原へ
自転車で旧街道1・中山道を日本橋へ
空白区間が生じないように、本郷追分から下る(上るというべきか?)ことにする。
家を出発 12:44
動坂通りから岩槻街道(本郷通り)に出て南下。
本郷追分 12:53
中山道と岩槻街道の分岐点。本郷通りを行く都道455号はここが起点。
高崎屋酒店は有名。
日本橋から最初の一里塚があったというから4㎞か。
家~本郷追分~巣鴨
(クリックすれば拡大される)
さあ、ようやく出発、本郷追分から中山道を北上する。
12:56 本郷税務署
ここは毎年2月、確定申告に来た。
翻訳本印税などの収入ではなく、埼玉の家の売却損を申告するためだった。
16年住んだ家は4割以下に下落、莫大な譲渡損失のおかげで千駄木に引っ越して4年間は所得税を払わずに済んだ。
このあたり、左が西片、右が向ヶ丘である。
かつては左は福山藩阿部家の屋敷と、道路側に武家の家が並び、町がなかった。右側だけ町人が住んでいたから駒込片町といった。
それが明治になって両側が町となったため、左の新しい町が駒込西片町、右には東がついて駒込東片町となった。
しかし1964年の住所変更で東片町は向ヶ丘と一緒になり、町名消失。西片だけ残るという、歴史を無視した奇妙な現象が起きた。
12:59 ようやく白山上
年に数回、都営地下鉄に乗るときはここまで歩いてくる。
本当は、ここか巣鴨駅あたりから中山道に入ろうと思っていたが遠回りした。
ここから少し下り坂。街道は基本的に尾根道なんだから、中山道をつくるとき、今の本郷通りの六義園あたりから北上する道を開けばいいのに、ここを通ったというのは、白山神社があったからだろうか?
東洋大学13:01
ずいぶん立派になった気がする。
少子化、生徒集めで苦労しているから、どこも見栄えはよい。
向かい(写真右側)は浜寿司。
息子が就職したとき、「家賃も食費もかからないんだから、たまには親に食事をおごれ」と言うと、初回は奮発して湯島の江知勝をごちそうしてくれたが、二回目はここの回転ずしだった。でも家からの往復、夜道を歩いて楽しかった。
その息子も一人暮らしをしたいと、白山下の谷を越え、植物園の向こうへ引っ越してしまった。もうおごってもらえない。
13:02同じく東洋大学
まだ千駄木に引っ越してくる前、写真中央に小さく見える井上円了像をみたことがある。
それが目的ではなかった。では、なんでここに来たのだろう・・・
写真にもあるが、秋祭りを告げる紫ののぼりが並んでいた。
そうかここは簸川神社が氏神か。植物園の隣にある。ちなみに私のところは駒込天祖神社。二軒隣からは根津神社になる。その境界は今の住所区分と少しずつ違って面白い。
緩やかな坂を上りきると水道橋からくる白山通りと合流、広くなる。
13:11巣鴨駅
13:12 山手線、湘南新宿ライン
ダンスのパートナーの実家が巣鴨駅から近く、よくここで遊んだという。
皆で下に降りて線路わき側溝のザリガニを捕っていたというのだ。
昭和32年生まれ、東京ものどかな時代だったようだ。
13:15 巣鴨駅すぎて旧道と新道(右)の分岐点
家から4.8㎞走ったが、本郷追分からの中山道分は2.9㎞
写真左に切れてしまったが、真正寺がある。
13:16 とげぬき地蔵の高岩寺
ここは明治24年に移転してきたから、古い地図にはない。
13:19 帽子のタムラ
先週「ウチくる?」で加藤ヒフミンが食レポのテストをやらされた。
甘味をパクパク食べたはいいが、店(写真左側)から出てきて帽子が目に入り、自分の買い物を始めてしまい、怒られていた。
13:24都電・庚申塚駅
13:26 東京種苗株式会社
というガラス戸の文字は消えかかっている。
真正寺脇にあった案内版によれば、この道筋、種屋が多かったという。
江戸の珍しい野菜の種を土産にしたらしい。
何軒もあったというが、今そんな商売は成立しないから、早々に建物は壊されたと思われ、この家は貴重である。
13:27 大正大学
すがも鴨台観音堂(通称さざえ堂)
なかに千住博の滝がある。
緩やかな階段は二重らせんなので、上りと下りが交わらない。
今日は通過。
13:28 千川上水の古地図
明治通りとの交差点、淑徳巣鴨高校手前の千川上水公園
写真撮るためだけに寄る
13:32 亀の子束子西尾商店
タワシでできた大きな蝉が木にとまっている。
13:37谷端小学校上
通ってきた道の南に平行する道がある。
こちらのほうが少し高く蛇行しているので旧道のように見えるが、商店がなく、古い家の裏口のようなところもあるので、千川上水のあとかもしれない。
13:39近藤勇の墓
街道から南に降りて、板橋駅東口の前。
ここに初めてきたのは、三十代のころ。
あのころは都内あちこちの古本屋めぐりが趣味だった。
巣鴨駅からぶらぶら、今日と同じ道を、今と違って何軒もあった古本屋を覗きながら歩いてきた。古書店巡りは足腰が疲れるもので、やっと板橋駅に着いたと思ったら、墓が目に入り、休んだ覚えがある。
13:40
板橋宿の手前、平尾一里塚付近で斬首されたらしい。そこは常設の刑場でなく、馬捨て場だったという話もある。
埼京線の踏切をこえて街道をいくと、巣鴨で別れた新道(17号)と合流する。
上を首都高が通っている。旧道は新道と斜めに交差し、なおも続く。
ここは平尾追分といって、川越街道との分岐点だった。
川越街道は左の高速道路の下をとおって、東武線大山駅前の商店街につながる。
13:47 平尾追分
アーチというか、鴨居というか、板橋宿の看板
ここも商店街が元気である。
コンビニとスーパー少ししかない千駄木あたりより暮らしやすそう。
(谷中銀座、よみせ通りは観光客相手で住民は使えない)
13:50観明寺
板橋宿というのは細長く3つに分かれていて、この寺あたりまでが平尾宿(下宿とも云う)、ここから石神井川の橋までが仲宿、その先(今の板橋本町あたり)が(京都に近い方だから)上宿といった。
観明寺の裏は、加賀前田家の下屋敷である。中を石神井川が流れていた。
13:52 王子新道との交差点
仲宿の文字が見える。
王子新道と言っても、いつできたのだろうか、一方通行一車線である。
交差点わたって右に石柱あり。
中山道板橋宿
蕨宿二里十町
ここを越えると緩やかな下り坂。
橋が近いことを思わせるが、坂が長いと帰りが不安。
13:55
13:57 板橋到着
さすがに木製ではない。
グーグル地図では、本郷追分―巣鴨地蔵通り商店街入り口(2.9㎞)ー埼京線踏切(2.0km)-板橋(1.7㎞)で、合計6.6km 。 日本橋~本郷追分は4.0㎞
13:58
日本橋から2里25町23間
1里=3.9㎞=36町
1町=109m=60間
1間=1.8m
間は間口の単位、それが集まると町(街)、その集まりが里、なんとなく言葉と大きさが丁度いい。里は町の集まりというより、1時間で歩ける距離から決めたというが。
標柱の数字を計算すると日本橋から板橋まで10.6㎞。
グーグル地図の距離と一致した。
と、写真をよく見たら十粁六百四十二米と書いてあった・・・・
朝出発すれば江戸まで2時間で行くな。
橋は昭和7年にコンクリート製になったという。
思ったより最近まで板だったんだ、とも思ったが、幹線道路だったため付け替えは早いほうだったらしい。
14:00 石神井川はきれい
正面に見えるビルは帝京大学病院
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