薬学雑誌とは
薬学昔々 1~108話
タイトル | 西暦(明治) | 内容 | ファルマシア | |
1 | 日露戦争の毒セリ | 1905(38) | 満州で兵がセリを食べて中毒死。その成分について薬学者渡辺又治郎による考察。コニインとチクトキシン | 2006年01 |
2 | 丹波敬三博士の欧米出張 | 1905(38) | 平安時代から続く丹波家。丹波哲郎の祖父。日露戦争時の欧米の様子、医薬事情を薬学会に書き送った。 | 2006年02 |
3 | コリン誘導体の化学構造と生理作用 | 1905(38) | 分析と生薬成分の化学ばかりであった薬学だが、構造活性相関が注目され始めた。ムスカリンは今と構造が違う。 | 2006年03 |
4 | ジアスターゼ製品の比較分析 | 1905(38) | 高峰譲吉のジアスターゼは、PD社の特許が日本まで及ばなかったので、様々な商品が登場、品質はバラバラだった。 | 2006年04 |
5 | 写真撮影の神様、上野彦馬翁逝く | 1904(37) | 坂本竜馬の有名な写真を撮影した人。長崎で教科書を書くほどの化学の第一人者。薬学会の会員でもあった。 | 2006年05 |
6 | 生きた血吸い蛭の医療への応用 | 1906 (39) | 19世紀まで瀉血療法としてヒルは盛んに使われていた。生きた医薬品としてその飼育管理は薬剤師が行った。 | 2006年06 |
7 | 三高医学部と秦佐八郎 | 1898 (31) | 三高医学部は京都でなく岡山にあった。秦が勝山虎三郎とチモールの代謝について投稿。サルバルサン発見者の片りん。 | 2006年07 |
8 | 黄色血磠塩製造に蚕のサナギ | 1898 (31) | 重要な化成品原料であるフェロシアン化カリウムの製造に廃物の蛹を使うことを考案、在松山、村田康太郎 | 2006年08 |
9 | 明治32年の薬剤師国家試験 | 1899 (32) | 年2回、大阪東京で実施。東京は133名出願、5科目を2日間で。合格すると実地試験が4日間、16名合格。 | 2006年09 |
10 | pH指示薬としての赤キャベツ | 1906 (39) | pHの概念が出てきた頃、試薬はまだ手作りだった。紫キャベツから指示薬を作るノウハウ。 | 2006年10 |
11 | 大日本製薬新工場、鷺洲村海老江に完成 | 1899 (32) | 道修町の薬業家が共同で作った大阪製薬。経営不振に陥った官立の大日本製薬を、名前ごと買収。工場開きに著名人 | 2006年11 |
12 | 明治のチョコレート | 1906 (39) | 庶民がチョコレートを知らない頃、偽物が氾濫。各種チョコの製法と偽物鑑別法を解説。着色には鉛丹、朱砂が使われた。 | 2006年12 |
13 | 一高医学部薬学科のウサギ狩り | 1898 (31) | 一高医学部は千葉。大雪晴れた翌日、紀元節式典を無視して鎌取村、生実山にて遊ぶ。教官古屋織田松山も合流 | 2007年01 |
14 | 長井邸での大運動会 | 1900 (33) | 薬学会会頭長井長義、現在、渋谷の薬学会館になっている広大な屋敷で例年ビヤ樽を取り寄せ大運動会を行った。 | 2007年02 |
15 | マーガリンとバターの区別 | 1898 (31) | 普仏戦争でバターが欠乏し、1872年代用品として登場したマーガリン。当時欧米でも素人は区別が難しかった。 | 2007年03 |
16 | 各種イオンを舐めてみたら | 1899 (32) | 機器の無かった時代、最も鋭敏な分析は舐めることだった。15人で各種塩類をなめてみた結果(味)一覧。 | 2007年05 |
17 | 旧制高校薬学科の修学旅行 | 1889 (22) | 東大薬学科に次ぐものとして官立薬学校が5校、旧制高校付属として設立された。遠足は研修、見学、もちろん徒歩。 | 2007年06 |
18 | 東大病院ペスト騒ぎ | 1901 (34) | 鼠死骸からペスト菌が発見され、大騒動。薬学科が中心となって帝大全学でネズミ捕り。古い建物は鼠ごと燃やした。 | 2007年07 |
19 | 缶詰の検査 | 1900 (33) | 缶詰は重要な輸出品で、マツタケ、鮒など珍しいものもある。加熱、密閉が不十分なため腐敗するもの多かった。 | 2007年08 |
20 | 越後、日本石油会社の出油 | 1901 (34) | 新潟は江戸時代からガス、油が自然に湧出していた。石炭から石油の時代に入る頃、内外資本が採掘に参入した。 | 2007年09 |
21 | 人体を材料とした医薬品 | 1902 (35) | 墓が暴かれ頭骨が盗まれる事件が頻発。天霊蓋という薬の製造のため。人胆を作る業者もいた。 | 2007年10 |
22 | 二宮忠八、医薬品クレオソートと飛行機製造 | 1903 (36) | 吉村昭の小説やテレビでも有名な飛行機製造のパイオニア。彼は大日本製薬の支配人、薬誌地区通信員でもあった | 2007年11 |
23 | 岸田吟香と薬学会評議員選挙のようす | 1902 (35) | 麗子像で有名な岸田劉生の父はジャーナリストで、目薬の会社を興した薬学者でもあった。薬誌編集委員、評議員歴任 | 2007年12 |
24 | 最初の薬学博士 | 1899 (32) | 薬学3教授は薬学科独立のため医学博士号を拒否、数年後田原を加えようやく薬学博士を授与されたときの祝賀会。 | 2008年01 |
25 | 明治薬学人の宴会のようす | 1903 (36) | 上野・伊予紋、根岸・岡野で茶番劇、福引、羅漢踊り、投票戯、詩歌、落語、都々逸、大津絵節、長唄踊り、など | 2008年02 |
26 | キニーネによる医療事故死と医薬分業問題 | 1901 (34) | 漢方と違い切れ味鋭い西洋医薬が導入され、ストリキニーネをキニーネと誤って処方。地方医師の多くはもと漢方医 | 2008年03 |
27 | 卵の長期保存法19種類 | 1898 (31) | 冷蔵庫のなかった時代、軍の要請か。ワセリン塗って石灰水に沈めると室温で8か月持つ。濃塩水はもつが辛くて廃棄。 | 2008年04 |
28 | 明治の医師は無試験の資格者が最多 | 1904(37) | 兵庫を例に、当時の医師、薬剤師、看護師の学歴別人数。医師1184人のうち大学卒は62人。最多は従来開業の398人。 | 2008年05 |
29 | 木材を鍍金(めっき)する法 | 1899 (32) | プラスチックのなかった時代、木材を徹底的に利用するためにメッキする方法、あるいは磨いてピカピカにする方法。 | 2008年06 |
30 | 台湾での自殺事情 | 1900 (33) | 日清戦争で日本領となり、澎湖諸島含め多くの薬学者が渡海。当地はアヘンによる中毒、自殺が多いことを報告。 | 2008年09 |
31 | 永楽病院移転、東大分院に | 1907 (40) | ここは医術開業試験の実地試験用につくられ治療費は無料。東京駅建設のため小石川に移転する事情。 | 2008年10 |
32 | 大正天皇・皇太子時代の東北行啓1 | 1908 (41) | 皇太子行啓に先立ち、自治体関係者は大騒ぎ。薬学者を呼んで、飲み水、食料の徹底検査。乳牛は1000頭から選抜。 | 2008年11 |
33 | 大正天皇・皇太子時代の東北行啓2 | 1908 (41) | 行啓の沿道、宿泊所などの消毒、清掃。住民、関係者の健康診断。地域の商品もとばっちりで衛生検査を受ける。 | 2008年12 |
34 | 明治の抗体医薬・血清1 | 1908 (41) | エールリヒは動物細胞が毒素と結合する側鎖を持ち、これが遊離すると抗毒素になるとした(側鎖説) | 2009年01 |
35 | 日本海軍の衛生酒 | 1903 (36) | 各国海軍と違い、日本は平日の食卓酒はなかったが、式祝日、演習や氷点下の勤務時はラム、泡盛などが供された。 | 2009年02 |
36 | 三重県の巡回衛生講話、展示に数万人 | 1909 (42) | ピペットや乾熱滅菌器に混じって,義眼,産婆器,便器,痰つぼ,鼻茸,コンジローム,胎児,水晶体,酒飲みの心臓腎臓, | 2009年03 |
37 | 全国7測候所の初雪統計 | 1898 (31) | 現在東北全体をカバーする仙台気象台は、関東大震災後に新設された石巻測候所仙台出張所が前身 | 2009年04 |
38 | 上海での阿片会議とアヘン窟(田原良純) | 1909 (42) | 各国はアヘン撲滅を目指すが、イギリスはインド経営の財源だから清への輸出をやめない。 | 2009年05 |
39 | 東大薬学部が廃止されそうだった頃 | 1898 (31) | 帝大の医学科は1講座に教授が2人もいるのに、学生が来ない薬学は教授1人がいくつもの教科を担当した。 | 2009年06 |
40 | 明治の抗体医薬・血清2 | 1908 (41) | ワクチンは原働性免疫、血清は被働性免疫といった。先天性免疫とは、現代用語の自然免疫ではない。 | 2009年07 |
41 | 看護師と薬剤師の給与 | 1898 (31) | 当時看護婦は患家に出張した。普通患者は1日50銭、腸チフス80銭、コレラは1円25銭、黒死病は2円50銭。 | 2009年08 |
42 | 東沙諸島(西澤島)とリン鉱石 | 1909 (42) | リン鉱石の分析と衛生指導でフィリピン西方の島に渡った薬剤師が、島の非人道的労働条件を告発する。 | 2009年09 |
43 | リンから砒素が出来た!? | 1900 (33) | 元素は化学変化では変わらないという常識は当時まだなく、珍説が発表された。 | 2009年10 |
44 | ジャガイモを茹でて作った象牙材 | 1883 (16) | プラスチックのなかった時代の試行錯誤。象牙に代わる素材は今も求められている。 | 2009年11 |
45 | 明治19年下半期、中毒の統計 | 1887 (20) | 貧しく自給自足であった時代、河豚23人(治7,死16)、キノコ96人(治71,死25)、樒(治2,死3)、蘇鉄(治5,死1)など | 2009年12 |
46 | 最初の「薬学部」はどこか | 1887 (20) | 130年を誇る東大でも1956まで薬学科であり、薬学部ではなかった。薬剤師試験コースを開講した済生学舎が最初。 | 2010年01 |
47 | 大国主命ゆかりの霊泉の化学分析 | 1889 (22) | 霊泉舎という会社が頓原村琴引山の湧き水を東京大阪に出荷。無機イオンの含有量でも民衆はありがたがる。 | 2010年02 |
48 | 遥かなるウラジオストク | 1907 (40) | 日露戦争が終わり日本海時代がきた。総人口8万のうち日本人が4千人。ロシア人医師10、獣医6、歯科4、薬剤師5人 | 2010年03 |
49 | 陸軍/習志野衛戍病院の風呂水検査 | 1902 (35) | サルファ剤もペニシリンもない頃、清潔に保つことは、極めて重要。患者1~30人入った後、アンモニア、大腸菌を検査 | 2010年04 |
50 | 富山売薬の沿革:前田正甫と反魂丹 | 1911 (44) | 前田正甫疾ありて癒へず。侍臣日比野、丸薬を呈すと、公たちまち癒ゆ。備前医師萬代常閑秘伝の反魂丹という。 | 2010年05 |
51 | in とineの区別は如何 | 1891 (24) | 今でも化学名で迷う。Vitamin、amineは間違えないが・・・・明治人もよく間違えた。 | 2010年06 |
52 | 東大生薬教室、下山順一郎先生急死 | 1912 (45) | 朝6時ごろ昏睡に陥れり。池口夫妻、丹羽、高橋(順)、三浦、橋本3医学士らが下根岸の邸に駆け付けるが | 2010年07 |
53 | 下山教授の葬列、葬儀 | 1912 (45) | 会葬者1700余名、葬列十余町、数120余りに及ぶ造花、生花、花輪、放鳥の列、弔詞70、弔電300数十通 | 2010年08 |
54 | 平成の口蹄疫と明治の牛結核 | 1904(37) | 畜牛結核予防法が施行され、はじめて神戸市で結核牛の検査。1005頭中,健牛595,病牛376,疑似66,猶予59. | 2010年09 |
55 | 松脂(まつやに)からテレピン油を作る | 1889 (22) | 得られたワニスは、焼酎製造用の容器にいれ、水蒸気蒸留。27%とれた。石油もない頃、有機溶剤として重宝された。 | 2010年10 |
56 | 各国のコレラ解説記事 | 1892 (25) | この年はロシアで16万、欧州では4万人が死亡。1832の世界流行時は、肛門にコルク栓したり、シーソーさせたりした。 | 2010年11 |
57 | 明治25年の薬学会会員名簿 | 1892 (25) | 464人となった全員の住所がある。長与専齋、中浜東一郎、三宅秀、大沢謙二、緒方正規、濱尾新も会員。 | 2010年12 |
58 | 住友・別子銅山の発展 | 1903 (36) | 明治に入ると採掘の機械化が進み,鉄道,電信電話,水力発電、小学校、病院など,文明開化の最先端をいった. | 2011年01 |
59 | 薬学会会頭長井に異議を唱えた男 | 1890 (23) | 第10回総会、村上栄太郎が代議員選挙について質す。役員候補者10人の選定法について執行部を批判。 | 2011年02 |
60 | 健康食品と「ヘルス」なる海ガメの肉 | 1893 (26) | 海ガメの肉から作った粉末に、医学界240余名が賛同.榊俶,田口和美,三宅秀,高木兼寛の名もある。 | 2011年03 |
61 | 助っ人のいらぬ鼠撑器 | 1891 (24) | 南京鼠(マウス)に注射するのに,二人掛りで行っていたが、東京衛試がベルリンの器械商ラウテンシユレゾルに注文 | 2011年04 |
62 | 幻の結核特効薬(1) | 1891 (24) | コッホが肺労新療法を発表、世界中が沸く。コレラ菌の培養液から菌を除いたもの。猛烈な反応の後治癒したと。 | 2011年05 |
63 | 幻の結核特効薬(2) | 1891 (24) | 帝大は在民賢の坪井次郎に調査を命ぜり。濱野昇議員は学士ドイツ派遣を帝国議会に提出。 | 2011年06 |
64 | 幻の結核特効薬(3) | 1891 (24) | 3/27コッホ氏液,日本上陸.4/14帝大の宇野,佐々木両教授,山極(勝三郎)助教授がドイツ出張を命ぜられる。 | 2011年07 |
65 | 幻の結核特効薬(4) | 1891 (24) | 帝大教師ベルツの試験では無効、2か月のインド洋航路で変質を疑う。ドイツでの無効という成績も2か月遅れで届く | 2011年08 |
66 | 幻の結核特効薬(5) | 1891 (24) | なぜ騒動は起きたか。プロシア国威発揚のためヴィルヘルム2世が拙速でも発表を強要したらしい。 | 2011年09 |
67 | 炊飯釜のふたの改良 | 1907 (40) | 五高薬学科(長崎)の森川釖三郎が、吹きこぼれしないふたを作り、ついでにご飯のタンパク、デンプン含量まで計算した。 | 2011年10 |
68 | 脚気菌(1) | 1885 (18) | 東大緒方正規が脚気患者から脚気菌を発見。東大(神田)で講演、石黒忠悳はじめ皆賛同、高木兼寛のみ反論。 | 2011年11 |
69 | 脚気菌(2) | 1910 (43) | 帝大農科大の古在らが米ぬかに予防物質ありとするも、東大医学部,陸軍は無視、伝染病説にこだわる。 | 2011年12 |
70 | 脚気菌(3) | 1914 | 鈴木梅太郎らは1911年オリザニンに到達、それでも内科の青山胤通,三浦謹之助,薬物学の林春雄は細菌説を主張。 | 2012年01 |
71 | 木炭から砂糖を合成? | 1908 (41) | 水蒸気に電流を通すと3000度でH2とO2とに分解し、これを高圧化で同温の木炭に作用させる。米国化学者の論文。 | 2012年02 |
72 | 香港のペスト(1) | 1894 (27) | 国威発揚のため、北里柴三郎,青山胤通を派遣。ライバル2人の背後には内務省と文部省、伝研と東大、もあった。 | 2012年03 |
73 | 香港のペスト(2) | 1894 (27) | すぐに北里は青山の解剖で出てきた臓器からペスト菌を発見、しかし調査研究が一段落したら青山発症 | 2012年04 |
74 | 香港のペスト(3) | 1894 (27) | 青山救援に派遣された高田耕安は、東大解剖の小金井良精に手紙3通送り、それが掲載される。 | 2012年05 |
75 | 香港のペスト(4) | 1894 (27) | 青山も帰国、箱根で休養後、、自宅(駿河台)に戻る。東大図書館で近衛篤麿を中心とする国家的歓迎会。 | 2012年06 |
76 | 香港のペスト(5) | 1894 (27) | ペスト菌はYersinia pestisという.世界的偉業と日本中で沸いたのに,北里の名前でないのはなぜか? | 2012年07 |
77 | 長井長義、静岡での講演録 | 1897 (30) | 日清戦争おえて、殖産興業の重要さ、即ち軍艦、大砲買うには生糸、茶の輸出だけではだめで、製品を輸出せよと説く。 | 2012年08 |
78 | 文部大臣濱尾新と薬学会 | 1897 (30) | 維新の元勲ではなく、初めての学士会会員の大臣。彼は薬学会員であったから、小石川植物園での祝宴を載せている。 | 2012年09 |
79 | 胃液の強弱を調べる方法 | 1906 (39) | メチレンブラウを薄きクッタペルカ紙に包み,腸線で結紮し,食後の患者に服用せしむ。健康ならば尿が青くなるというが. | 2012年10 |
80 | 薬学会の始まり(1) | 1910 (43) | 明13、神田明神境内・開花楼での新年会で、定期的な集会を発議。翌2月に神田仲町福田屋で親睦会を第一回とする。 | 2012年11 |
81 | 薬学会の始まり(2) | 1910 (43) | 晩秋には例会出席者がたった3人。翌14年2月福田屋で組織、規約を制定、名称は薬学会、暮れには薬学雑誌創刊。 | 2012年12 |
82 | もう一つの薬学会と東京薬学新誌 | 1910 (43) | 明治11年東大薬学科の第1回卒業生が中心となり在学生、教員を含めた51人で勉強会を開き、雑誌を創刊。 | 2013年01 |
83 | フグ毒テトロドトキシンの命名者 | 1909 (42) | 河豚には三種の属あり。曰くTetrodon, Tridon, Diodon是なり。歯の数により之を類別す。田原良純 | 2013年02 |
84 | 薬学会年会の時期と名称 | 1910 (43) | 名称は、新年会、大会、総会、年会と変わる。当初は1月。春になったのは明治23年から。 | 2013年03 |
85 | 薬学会年会の会場と会員数 | 1903 (36) | 明24、東京薬学会から日本薬学会に名称変更。32年間で30人から2911人に増えた。総会会場と会員数の一覧表 | 2013年04 |
86 | 中の島、大阪ホテルでの薬学会総会 | 1903 (36) | 道修町薬業家ら27人を中心に、委員長辻岡精輔、常務委員二宮忠八。長井テレーゼ夫人は高野山に。 | 2013年05 |
87 | 薬学会総会、懇親会の会場 | 1910 (43) | 神田明神開花楼、上野弁天島の長蛇亭、神田三河屋、神田淡路町の万代軒、麹町富士見軒。25年以降は精養軒 | 2013年06 |
88 | 洪庵先生第四子、故緒方惟孝君略伝 | 1905(38) | 溝口恒輔氏の追悼文。江戸下谷の西洋医学所教授、開成学校英学教授心得、ロシア留学。新潟病院兼洋学校取締など | 2013年07 |
89 | 米沢のはっか栽培史 | 1897 (30) | 上杉鷹山公、薬草に経験ある士を江戸表より招聘し吾妻山中を調査せしめ、次に会津より人参の種を取り寄せ、 | 2013年08 |
90 | 緒方一族と緒方ビル | 1905(38) | 緒方正清が開いた産院の後身、くりにっくおがたの他に、医院が9つ、薬局が一つ入っている。3階に除痘館記念資料室 | 2013年09 |
91 | ジェンナー像の謎(1) | 1899 (32) | 私立衛生会が種痘医祖善那君之像を芝公園に建立するとの記事。しかし現在は国立博物館にあり、形が違う。 | 2013年10 |
92 | ジェンナー像の謎(2) | 1899 (32) | 高村光雲、米原雲海、藤田文蔵らにより3種、6体作られたが、結局薬学雑誌の像はどこに行ったか不明。 | 2013年11 |
93 | ジャワのキニーネ | 1890 (23) | キナの種・苗は南米各国が輸出を禁じたがHasskarlが密輸、ジャワに植えた。その27年後の記事。第2次大戦の戦略物質 | 2013年12 |
94 | 医薬分業をめぐる闘い・1 | 1890 (23) | 薬律は明23から施行。同時に医薬分業が否定される。このとき日本薬剤師会はなく、彼らは懇親会という名目で集まった。 | 2014年01 |
95 | 医薬分業をめぐる闘い・2 | 1890 (23) | 雨宮綾太郎は各々手を分かちて業権握取する手段を講ずべしと論じ、下山順一郎は学識をもって地位を高めよと説く | 2014年02 |
96 | 医薬分業をめぐる闘い・3 | 1891 (24) | 島田三郎ら6議員は分業をうたう改正案を議会に提出。東京各区の医師たちも分業反対の請願書を衆議院に提出 | 2014年03 |
97 | 「私立薬学校」下谷から上野桜木に移転 | 1898 (31) | のちの東京薬科大。引っ越しの式典は、石黒軍医総監,帝大総長外山文博,三宅医博らが演説し、国家行事のよう。 | 2014年04 |
98 | 自らコレラ菌を飲んだペッテンコーファー | 1893 (26) | 緒方正規や,鴎外森林太郎も留学,師事した世界的権威。菌だけでは発症しないとした。胃酸を中和してから飲んでいる。 | 2014年05 |
99 | 水滴1mLの体積 | 1899 (32) | Harnackが100種類の溶液を調べた文献の紹介。蒸留水は13滴。アルコールが42滴、一半塩化鉄液が11滴というが? | 2014年06 |
100 | 多少毒性を有する新薬の極量(表) | 1890 (23) | 大人に対する一日または一回に投与できる最大限の量のこと。当時は容量が決まっておらず、さじ加減が重要だった。 | 2014年07 |
101 | 明治の宴会はどこで | 1910 (43) | 伊豫紋楼は下谷同朋町、横山大観らも好んだ。明43年,東京薬学校同窓会は上野鶯坂下の伊香保. | 2014年08 |
102 | 明治の千駄木にいた薬学会会員 | 1902 (35) | 在京会員477名のうち98人が本郷区に居住、6人が千駄木。曲淵景章、丸山長四郎、石川静逸、前島知徳など | 2014年09 |
103 | 駒込神明町と慶松勝左衛門 | 1902 (35) | 10代足利将軍、義材の子、慶松丸に始まる名家。31歳で満州中央試験所に所長として招かれ、のち東大教授 | 2014年10 |
104 | 本郷区の薬学会会員 | 1902 (35) | 弓町に丹波、飯盛挺造、田口和美、辻新次。東片町に緒方正規、大澤謙二、真島利行。西片に齋藤寛猛、喜多尾元英。 | 2014年11 |
105 | 丹波博士、駒込妙義坂の新邸での園遊会 | 1905 (38) | 敷地3000坪。ビヤホールは三か所、ラムネ店、団子屋、寿司屋などは庭の入口に、てんぷら屋などは崖下に出店。 | 2014年12 |
106 | 同志社ハリス理科学校に薬学科開校 | 1892 (25) | 教官は下村孝太郎、児玉信嘉、須田勝三郎、小野瓢郎ら。第一回卒業生を出すも廃校、在校生は京都薬学校へ。 | 2015年01 |
107 | 上野の山と明治薬学会 | 1901 (34) | 送迎会など、精養軒、梅川楼(浅草八百善、桜雲台、常盤花壇)、韻松亭で行われた。 | 2015年02 |
108 | エックス線と大正天皇 | 1898 (31) | X線発見の2年後、19歳の殿下は理科大学へ行啓。頭蓋骨に弾丸を入れた箱、鯛、小童2人の胸部の透視像を見学。 | |
109 |
千駄木菜園 総目次
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