1985年、私は28歳。
学会は、まだ城内にあった金沢大学の教室で行われた。
プログラムで小田切健自という名前を確認、発表を聞きに行った。
彼は、私の母方の祖母の実家の親戚で、以前、私の妹の結婚相手にどうだ、という話があった。双方にまだその気がなかったのか、結局見合いまで行かなかったが、名前だけ聞いていた。
私より少し年上で、北大薬学部を出て、製薬会社に就職したのだが、中野にある北信総合病院の薬剤部に転職したという。当時、北大と言えば旧帝国大学というより国立一期校として、われわれ受験高校生のあこがれの的だった。奥信濃の田舎からそこに入れる人はめったにいない。
どんな人なのか、顔を見たくて発表会場に行った。
彼は、エノキダケの抗がん作用という自分の発表が終わると部屋を出ていった。話をしたかったので私も慌てて廊下に出ると、隣の空いている教室に他の人と入っていく。どうも食品ががんに効くという一般受けする話題なのでメディアの取材だったようだ。私は少し離れたところでずっと聞いていた。
当時は、今はやりの抗体医薬やキナーゼ阻害の分子標的薬も、概念すらなかった。
第一、はじめての発がん遺伝子rasが1984年に見つかったばかり。医薬への応用などまだ誰も考えなかった。
抗がん剤というのはアルキル化剤のような細胞毒しか考えられなかった時代である。
がん細胞は死ぬが個体も死んでしまうという代物だった。
彼は副作用のない抗がん剤をめざし、革命を起こそうとしていた。
それはがんの予防薬である。
予防薬といっても普通の医薬品では、病気になってもいない健康な時に飲むわけにいかない。しかしありふれた食品ならどうか? エノキダケなら安いし毎日食べらえる。
インタビューが終わったので近づいて自己紹介した。遠く離れた金沢の地で、同じ信州中野出身、しかも互いに柳沢の家の親戚ということで、喜んでくださった。妹のことは話題に出さなかった。
ぜひ、中野に帰省した時は来てくれ、と言われ別れた。
2週間後の4月13日、ちょうど祖母の一周忌で帰省したので約束通り北信病院に行った。
彼は午前中は病院内の薬局で皆と同じように働き、午後と夜を研究にあてていた。この病院は560床(H24厚労省)の拠点病院で、JA長野県厚生連つまり農協が運営している。エノキダケの消費につながるということで、彼の研究を特別に許していたのかもしれない。それにしても上層部を説得したのは大したものだ。
しかし創薬研究というのは金がかかる。とくに抗がん剤の研究はマウスを大量に使うから、半端でない。個人でやるのは不可能である。
彼の実験室はプレハブ小屋の一室だった。
エバポレーターがあり、ここでエノキダケの抽出、濃縮液を作っていた。
驚いたのは、私を病院の裏に連れて行ったときだ。
得意顔で見せたのは、木の下にあった汚いレントゲン車だった。長年農村部を回って廃車となった検診車だ。入ると内壁に断熱目的で発泡スチロールが吹きつけてある。棚を設け、マウスのケージがびっしり並んでいた。
本来は安定した薬剤師だから、わざわざ苦労して研究する必要はない。
人間的な摩擦もあるだろう。
しかも施設も資金もなく、指導してくれる人も仲間もいない。ひとたび始めたら休日もなく、人並みの遊びもできない。それなのに、こんな田舎で動物舎と実験室を自らの工夫で用意し、一人で研究し、データを出している。
こんな人が日本にいるだろうか?
研究というものは、大学や大企業の研究所で行うーーー常識である。
尋常でない彼の志の高さとエネルギーにただただ驚き、感心した。
私は4月末から中国の自由旅行に行く予定だった。団体旅行しか許されない時代だったが、香港で華僑用のビザをとれば北京、上海など20都市だけ個人で動けるようになったばかりだった。とはいえ、かなり危ない旅行で、キノコの抗がん作用の講演で何回か中国に招待されていた小田切さんは、緊急時のために要人の連絡先を書いてくれた。
夏には中国旅行の報告をかねて中野で一番の中華料理屋、三好屋で食事した。妻も入れて3人分の食事代を彼は全て払ってくださった。
エノキダケの医薬品化は簡単でない。
その後、もう北信病院で研究することに限界を感じたのか、須坂の長野県農村工業研究所にうつられた。1987年8月、さっそく妻と1歳になる長女を抱いて訪ねると、彼は結婚されていた。彼女は妻と同じ大学の出身で、新婚夫婦仲良く実験していらした。
ここも農協が出資する社団法人で、作ったばかりというエノキダケ煎餅の試作品をいただいた。
いつの間にか音信途絶えて30年。
金沢の薬学会にいったことで何十年ぶりかで思い出した。
彼は、今何しているだろう、とグーグル検索した。すると、
第15回歴史浪漫文学賞 創作部門優秀賞
『高梨大乱ー上杉家を狂わせた親子の物語』小田切健自
というのがヒットした。
健自という名前も珍しいし、タイトルに高梨とあるから間違いない。
高梨氏というのは平安末期から続く北信濃の名族で、最盛期の本拠地は、われわれの故郷、中野だった。戦国時代、武田の侵攻を受け、越後上杉についた。その後は中野を去り、会津、米沢へ転封した上杉氏に従った。土塁に囲まれた館跡は今も中野にある。ただし、それ以上高梨氏のことは、私を含め中野市民でさえ知らない。
郁朋社という小出版社だが、応募104作品から選ばれたのだから大したものだ。
もう60代半ば。
しかし、やはり普通の人ではなかった。
もう一度会いたいものだ。
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返信削除肥やしがなくて
枯れちゃった
野に咲く一本の花
心の目に入れてくれてありがとう(^人^)
少年老い易く学成り難し
返信削除妻に見せたら懐かしいと笑っていました。