我が家は昭和40年まで本郷区駒込動坂町365番地だった。
しかし二軒隣の千駄木小学校までは千駄木林町。
間に狭い私道しかないから、林町の方が身近に感じる。
江戸時代、上野寛永寺創建の後、向かいの山の一部が寺領となり、護摩木あるいは徳川家霊廟用の薪材が獲られた。千駄木山と名付けたのは千駄の薪をとったからとか(一駄は一頭の馬に背負わせられる量の単位、135kg)、千万の駄木があったからとか、いろいろ説あり。
以来、一帯を「千駄木御林」といった。
1869(明2)、分かれて1ヶ町として、駒込千駄木林町が成立。
1878(明11)、東京府本郷区に所属。
1891(明24)、団子坂、上笹原を併合。
(このとき駒込動坂町も本郷区に編入)
1911(明44)、駒込林町となり、千駄木の文字が消える。
1964(昭40)保健所通りで分け、西が千駄木5丁目、東は千駄木坂下町と合わせて3丁目とする。
林町は全て高台にあり、保健所通り沿い、須藤公園周辺は大きな家が多い。
宮本百合子、高村光雲、高村光太郎のほか、
大給、松平、藤堂の華族、久米、市嶋、須藤、安田、岡田など実業家、
島薗、児玉など学者、文化人が邸をかまえ、それについてはブログ(→ )に書いた。
しかし基本的に、車社会になる前に畑が乱雑に宅地化されたから、小さな家も多い。
今回は保健所通りの西、奥のほうに行ってみる。
懐かしい昭和のアパート
左が衣笠荘、右が砥川荘。
一人暮らしらしい老人の姿が見えた。
この辺りは権利が複雑なのか、住人が老人ばかりなのか、建て替えは進まない。
シイタケや果物が干してあった。
中にはこんな素敵な家もある。
この向うは養源寺
この辺り西側は北から南まで養源寺と駒込学園に隣接し、通りに出る道がないため、西に行く道はすべて行き止まりとなる。行きつ戻りつするうちに、以前養源寺から見えた町内会事務所が見えた。
千駄木西林町会の事務所
復元・江戸情報地図(吉原ら、1994)
その境界線が、今もあり、大観音通りブリリアウェルス文京千駄木(もとNTT駒込)の西から北へまっすぐ、文林中学の西側をとおり千駄木幼稚園にぶつかる細道になっている。
それがそのまま林町の2つの町内会の境となった。
かつてはほぼ等面積だったが、御林から林町になるとき、保健所通りの東側、武家屋敷、御鷹方役人の宅地も組み込まれたから、東林町会の方が大きい。大給家、須藤家を擁するあちらの方が事務所も立派(→芳林閣なんて名前までついている)。
西林町の南端にくると
御林稲荷。天祖神社の飛び地境内社という。
この辺り(御林稲荷のうら)に医学書出版の杏林舎があった。林町172番地というから、撮影に立った場所の背中あたりである。尼子四郎の医学中央雑誌が印刷された。
また柳田国男の遠野物語は最初自家本としてここで刷られたという。
(谷根千77号)
西林町と東林町の境の道
この左、大観音通りに面した所に江戸川乱歩が開いた古本屋「三人書房」があった。
その東(物集邸の西)では石井柏亭らの「方寸」が創刊された。
平塚ライチョウ「青鞜」発祥の地(物集邸)
物集邸 → 駒込駒込電報電話局→ブリリアウェルス文京千駄木
1978年、本駒込から谷中に引っ越し、念願の個人電話を引くとき、ここに手続きに来た。
このとき、もらった番号は03-828-1398
山本芳邦先輩は、しばしば合コンをしていた私をみて「やっぱり、ふられた、やなかで、いちばん、みじめな、」と語呂合わせを考えた。ダイヤル式電話にぴったりのリズムで、國枝など「すばらしい」と喜んだ。
ところで、当時は債権も買わされ、8~9万円も取られたが、いま回線を返しても戻ってこない。これは国家による詐欺ではないか?
そんなことを思いながら裏道をいくと
満足稲荷
いつも通る大観音通り(団子坂通り)や保健所通りからニ、三十メートルしか離れていないが、入り口が住宅街のほうなので、人目につかず、来るのは初めて。追記(2020-06-14)
上の写真、参道の左側に下宿屋・豊秀館があった。
日医、東大の学生が多く、中曽根康弘も下宿していたらしい。
社殿には町内にいた高村光雲作の神輿もあるという。
満足稲荷の由来は、ネットをみても皆、京都から満足稲荷を勧進したという、案内文をコピーしたものばかりでだけで、なぜ勧進したかなど不明。
ここで西林町会の御林稲荷を思い出した。
あちらも案内板には何も書いていない。
江戸切絵図を見てふと思った。
二つの塔頭の管理地の境界線は道になっていて、南の端には門がある。
二つの神社は、この道で対称になり、南向き。
何やら朱雀大路、羅城門と東寺、西寺のようではないか。
二つの塔頭が話し合って、御林の安泰を願って建てたのではなかろうか。
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