2018年10月11日木曜日

林町2 高風荘、中條、高村、市嶋

10月8日、安田邸から保健所通りの北上を続ける。
安田邸の北隣、天野邸も大きい。

中央の板壁の家をはさみ、右端に小さく見えるのは高風荘。
この三文字以外、一切書かれておらず、出入りする人も見たことないが、国家公務員用宴会所のようである。

なぜここに国有地があるか?
「谷根千」29号(1991)には、南隣の(ということは敷地はもっと広かった?)天野さんの話があって、明治天皇に仕えた女官、千種孝(ちぐさこう)尚侍の隠居所であったそうな。天野さんのいらした昭和の初めは婆やとふたりでひっそり暮らしていらしたか。昭和19年に亡くなり、葬儀の様子が宮本百合子の文章にあるらしい。
Wikiによれば明治天皇の女官に、花松権典侍・千種任子という人がいて子を二人生んだとあるが、同一人物だろうか。

高風荘の北となりに、あずき色の塀の残骸がある。
宮本百合子の実家、建築家の中條(ちゅうじょう)精一郎邸あと。
400坪の敷地は、分譲されて何件も家が建っている。
ここは千駄木林町21番地だが、旧喜連川藩主の家督を相続した子爵・足利於菟丸(1869-1943)も同じ21番地。何か間違いだろうか。

昔の写真を見ると両側の塀の上に梁が渡され、くぐるようになっていた。

中條邸跡の向かいは「千駄木宿舎」とあるが、警視庁関係の公務員宿舎のようだ。

ここは明治のころ津山藩松平家の当主、子爵、松平康民(1861-1921)の屋敷だった。
4000坪あったが、大正時代には空き地になり、市嶋家の地所になったようである。
ちなみに観潮楼鴎外邸は300坪。
松平康民の息女隆子は、市嶋宗家当主市嶋徳厚に嫁いだ。

千駄木宿舎の南側の道(ここに林町交番があった)は東へ入ると大給坂上に出る。
保健所通りとの東南の角、警察宿舎の向かいは林町34番地。帝大工科大学長を務めた冶金の渡辺渡の屋敷だった。息子は帝大建築を出た渡辺仁。そのあと丸善インク工場となった。

大給坂に向かって進む。
坂を下りる前に左(北)へ入ると右側に久米マンション。
このあたり林町で一番の金持ちといわれた明治、大正の実業家、久米良作(鉄道関係や東京ガス)の邸宅があり、すぐ北の半床庵も別荘として持っていた。
この写真を含め続く5枚は、10/10の朝に撮影。

その向かいに早稲田大学市嶋記念学生寮。
2000年2月末竣工、コンクリート造11室の、女子専用の学生寮である。

久米氏とこの道を挟んで西側一帯は、越後新発田の大地主、市嶋家の地所だった。
市嶋家は「早稲田の四尊」市島謙吉(春城)の本家筋にあたる。
1997 年 宗家・市嶋信氏が早大に対して、所有する千駄木の邸宅の将来的な寄付を約束、敷地内には学生寮が建設されることとなる。
2000 年 学生寮竣工。
2008 年 市嶋信氏死去、宗家の千駄木邸が遺族から正式に早稲田大学に寄付された。
市嶋家の千駄木邸正門
市嶋家は米相場でも富を築き、土地は幕末で約1800町歩(1町歩は1ヘクタール、100メートルⅹ100メートル)、明治21年の所有地価は地主王国・新潟でもトップ、全国でも有数の大富豪であった。千駄木には屋敷のほか、越後の学生のための寄宿舎(市嶋塾)もあった。

さてその場で東に目を転ずると、
狸坂上の手前の角は半床庵。
以前は久米家が持っていた。
京都にある武者小路千家官休庵、東京稽古場の茶室という。
近くにいた大平総理夫人や川端康成夫人も稽古したとか(谷根千66号)

なお、利休に始まる千家は、
官休庵(かんきゅうあん)、不審菴(ふしんあん)、今日庵(こんにちあん)
に分かれた。それぞれ場所で区別し武者小路千家、表千家、裏千家
と通称され、今に至る。

狸坂を見下ろしてから、保健所通りに戻るため西に曲がる。
途中私道があるので入ると、

裏に回ると市嶋邸の建物が見える。
住んでいらっしゃらないようだ。
なお宗家は嶋の文字を使う。
早大の春城氏の出身、筆頭分家、角市市島家は島である。

保健所通りに戻ると、つまり狸坂通りと保健所通りの角は、つい最近まで屋根付き駐車場の林町ガレージだったが、有料老人ホームになった。

林町ガレージの向かい、保健所通りの西側に高村光太郎、智恵子の住居兼アトリエがあった。(中央の家あたり)
地主の蔵石家から三十数坪借り、三角屋根、板壁のおしゃれな家だった。

光太郎の屋敷跡を見たついでに父・光雲、その跡を継いだ弟・豊周邸を見に行く。
光太郎邸跡の北、千駄木小学校の南の路地を西に入り、文林中学(藤堂子爵邸跡)を左(南)に曲がる。

しかし
アッと驚く。
ない。

家から遠回りしても400メートル、5分だが通勤途上にないと気が付かない。

たまたま出てこられた近所の方に伺うと、豊周の子つまり光雲の孫、当主の高村規(ただし)氏が亡くなられ、しばらくはそのままであったが、更地にされたという。
写真家だった規氏は、我が家の隣のご主人と千駄木小学校の同級生で、今調べたら亡くなったのは2014年。

敷地はすでに整地され、ご家族の宅地用に一部を残し、他を売却されたようだ。分譲地のほうには水道の蛇口が5本立ち上がっていた。

「竹藪だけでも残れば素敵だったんですけどね。また生えてくるかしら」
と上品なその方は残念がっていたが、
いやいや、根っこは残っていても生える場所がありません。

何とか残せなかったものだろうか。
区立の子供彫刻教室とか、レンタルアトリエとか。

辛うじて1枚だけ写真を撮ってあった。
竹林のある高村邸 2017-02-05

高村邸の奥にあったご親戚の家(一部アパート)はそのまま残っていた。
しかし、お屋敷がなくなり殺風景に。
なお、上の写真の瓦ぶき屋根は、安田邸の裏側。

がっくりきて保健所通りに戻る。
千駄木小学校の前、かつての文房具屋。
三菱鉛筆が一番の商品だったのだろうか。
廃業されてどのくらい経つのだろう。

キツネ坂上
駐車料金がもう少し安ければいいんだけど。
ここが動坂町と林町、つまり4丁目と3丁目の境になっている。
右角は彫刻家山崎朝雲邸だったらしい。

狐坂上から目を左に転じて、出発点に戻る。
左に細井医院とファーブル昆虫館、
右に元某財務大臣の家

10月8日、北の動坂から南の団子坂まで、近所の坂めぐり、邸宅巡りは1周して終了。
ブログは3本に分けた。


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