2018年10月8日月曜日

動坂、狐坂、大給、団子

この地に転居した理由の一つは坂道が好きだったから。
景色もどんどん変わるので、このあたりでまとめておく。

1.まず、すぐ近くの動坂から。
動坂そのものについては、以前目赤不動のところで書いた。

我が家から歩いて3分、動坂上交差点に出たところ。
保健所通りの北端。
ここは5つ角で、広い道を右から坂を上がってきて、左へいくと駒込病院前を過ぎて本郷通に出る。
左の向こうへ行くと天祖神社、富士神社、を通ってやはり本郷通に出る。
右の向こうへ行くと、学生のころいたアパートや本駒込図書館にいく。
坂下の不忍通り、動坂下交差点をみる。
もう両側マンションばかり。

信号わたって向こう側から。

1977年、毎朝、自転車で右側のほうから出て来て、渡って右の交番前、駒込病院前を通って、養源寺の角から南下、日本医大の上に出た。写真左上にみえる保健所通りをまっすぐ南下しなかったのは、団子坂上を通ると坂道が多かったから。

動坂下から。
幹線道路だから勾配が緩やかで写真映えしない。

2、むじな坂

2018-10-08
狢坂
動坂の一つ南側、案内板はないが、地図には載っている。
車もほとんど通らないのに広いのは、戦時中建物疎開をしたかららしい。
肉のハナマサに行くときは、ここを降りて上がってくる。比較的緩やかだが、自転車では最後まで登れない。

狢坂といえば、写真の左側あたり、駒込動坂町327番地に加藤謙一氏が住まわれた。団子坂下にあった講談社の「少年倶楽部」編集長である。息子4人を近くの開成に通わせ、PTA会長も務めた。その一人、加藤丈夫氏は富士電機会長を務め、2001年から開成学園の理事長。

3.きつね坂
狐坂
不忍通りの信号機の名前は、千駄木小学校入り口という。
左側のサミットは昔、製氷工場だったそうだ。

キツネ坂は、駒込動坂町と駒込千駄木町を分ける境で、天祖神社と根津神社の氏子を分ける道でもある。9月には、両神社の祭礼の紫の幟が、2週続けて並ぶが、当然、それぞれ道の片側だけ。つまり千駄木3丁目(写真左)と4丁目(右)を分けるのは道灌山通りや不忍通りでなく、この坂道なのである。

このように古い道なのに、この坂は案内板もなければ地図にも載っていない。
タヌキ坂、ムジナ坂の間だから名付けられたのか、実際に狐の巣があったからか、不明。坂の上は、畑ではなく、寛永寺塔頭所有の森だったから、キツネなども生息していただろう。

2018-10-08
先週、キツネ坂を覆っていた木が切られた。
台風24号が来る日(日曜)だったか、過ぎた日(月曜)だったか、はっきりしないが、月曜夕方に気が付いた。ちょっと残念。

以前はこんな感じ。
2016-01-17
2018-01-23

2018年10月8日、キツネ坂を下から上がる。
明治43年に団子坂下から動坂下まで伸びてきた不忍通りの一本裏には、あぜ道だった昔以来のこうした通りが今も残る。西側の崖と大通りのマンションの裏壁にはさまれ、谷底のようになっている。

2013年に引っ越して来たころ、このキツネ坂途中から入る路地の右側に桜の大木のある古い立派な家があった。池之端、守田宝丹のご隠居がこのあたりに住んでいたそうだ。

しかし、今日聞いた話によれば、大きな門のあるその家の主は、日医大の耳鼻科教授、吉野先生の屋敷で、銀行員だったお孫さんの代になり、ついに相続、維持できなくなり、数年前、5、6軒に分割されてしまったという。写真を撮っておけばよかった。

泉名(いずみな)邸
住んでいらっしゃるのかどうかわからない。

これだけ2016-11-17撮影
この坂は、V字型でタヌキ坂に向かうが名前がない。
坂上の角が泉名宅なので泉名坂としてもよいが、向かい合わせの片側だけしか表さないので不十分。狐坂上と狸坂上の間の谷を渡るので、狐狸谷坂(こりだにざか)はどうだろう。

ちょうどよく、泉名邸西南の隅に屋敷稲荷もある。

狐狸谷坂の途中一番低いところが千駄木歯科の秋山邸

なお、この隣の駒込保育園はかつての森川医院、車寄せがある洋館だったとか。

千駄木歯科の前から不忍通り、サミットの南に降りる坂の途中に瓦ぶきの家がある。

2018-10-08 佐藤守彦邸

犬を連れた奥様が外にいらしたのでご挨拶した。
中は11部屋もあるそうで、光熱費や修繕費が大変なようである。息子さんは神奈川のほうにいらっしゃるが、相続するときはこの家を維持できるかどうか、多分難しいとおっしゃった。
何とか税制を変えて、相続のたびに文化財的建造物が消えるのを防ぐことはできないだろうか。

キツネ坂に戻る。正面に佐々木邸の大楠がみえる。

2,3年前まで、このあたりで夜、黒っぽい衣装で立っている女性がいらした。
かつて右側の路地に高級和食店の一二三庵があり、予約の時間に合わせて出迎えに出ていらしたのだ。帰るときにタクシーを見送るようすにも出くわした。
一二三庵は、1日二組しか客を取らず、何か月先まで予約がつまっていたそうな。結局一度も行かなかった。

佐々木邸
キツネ坂の一番上から二軒目、大きなクスノキがある豪邸。

きつね坂上。
千駄木小学校の前である。
家に来た人が止める駐車場、もう少し安ければいいんだけど。

きつね坂を少し戻るように下りる。
佐々木邸のすぐ下の細い道を南に入っていく。
豪邸もいいが、こういう古いアパートも好きだ。
このあたり、ちょうど千駄木歯科と駒込保育園の上に当たる。
道なりに行くとタヌキ坂うえの林町公園に出る。
途中、車が入れない細い道がいっぱいある。
こういうところ大好き。

4.狸坂
狸坂は、途中、不自然に広くなる。
明治の地図を見ると今と違っている。坂上は市島家の地所だったようだ。
区画整理したときに広がったのだろうか。


狸坂から狐狸谷を経て北の狐坂方面を見る
一番下がったところの左が千駄木歯科、そこを右に曲がって下がると佐藤邸。

狸坂上から高台の道を南に向かう。
すぐ左が半床庵。
右は越後の豪農、市島邸

5.大給坂
狸坂上の尾根の道を歩けばすぐに大給坂の上に出る。
いったん坂を下りる。
坂の一番下、不忍通りブックオフの向かいから入るとすぐ右にお堂がある。

大給坂は車があまり通らないから、急で、自転車は乗れない。
以前途中に案内板があったのだが、なくなっていた。
大給氏の説明に間違いがあったことから回収したのだろうか。

坂の上に小さな公園がある。
このあたりに三河西尾の大名の末裔、子爵・大給家の屋敷があり、後に鈴木三樹之助に売却されたあと、娘婿の当時大蔵省にいた大平正芳の邸になった。

彼は大給家のころの屋敷に住んでいたが、道が狭かったので、送迎の車が入りにくく、総理のころは引っ越していたらしい。
写真の大イチョウは大給屋敷にあったもの。

大給坂上から南の狭い路地をはいっていくと、芳林閣という千駄木東林町の町内会事務所がある。大給近孝が地元青年団のために寄付して建てられた文武道場である。

なお、林町の西町、東町は、保健所通りを境とするのでなく(つまり5丁目と3丁目を境とするのでなく)、江戸時代の「御林」を寛永寺塔頭の東漸院、寒松院で二分したときの境になっている。

6.アトリエ坂
アトリエ坂
芳林閣からお屋敷の間を通って、須藤公園の上から、西側の坂を降りる。
長い間、公園は工事中であったが、だいぶ木が切られ、南(写真左)の建物もなくなって明るく殺風景になった。以前は鬱蒼としていたのに、残念。

この坂の近くに山口晃氏が住んでいて、その後、谷中に引っ越された。


須藤公園はすっかり明るくなった。
しかし私は昔のほうがいい。
たいてい自治体は公園整備として予算を取り、土を舗装し、柵を作り、木を切って遊歩道を広げる。

1977年、大学3年になるとキャンパスが変わるので皆、引っ越した。
私は駒込神明町だったが、同じ駒場寮にいた國枝氏は団子坂上の賄付きの下宿に入った。さっそく彼のところに見物に行った後、「結構いい公園をみつけた」と連れてこられた。

7.団子坂


須藤公園から千駄木坂下町の、講談社の社宅の前を通って団子坂下に出る。
途中、翠鴎館という建物に、今日はじめて気が付く。
浅井宗一氏とあるのは、団子坂菊人形を主催した植木屋の一つ、浅井家のご子孫だろうか。

団子坂も車社会になって、だいぶ緩やかになったらしい。
このくらいなら、人が団子のように転がることもない。

坂の途中、サツマイモスイーツ専門店あめんどろやの下の路地に、昔國枝氏といった定食屋があったような気がする。


立派な石垣の上は岡本銀行の創立者、頭取の屋敷で、その後、宮城県宿舎・萩風荘となり、今は東洋大学国際会館。北隣の本郷図書館も同じ敷地だったのだろうか。

以上、千駄木4丁目と3丁目の坂、
すなわち動坂、狢坂、狐坂、狸坂、大給坂、アトリエ坂、団子坂。

本郷台地の東縁だから、道があれば必ず坂になるはずだが、思ったより少ない。
橋などと同じく、簡単には作れないのだろう。急な崖に道を作るには、切通しで斜面を緩やかにしなくちゃならないし。

その結果、崖上と崖下では通行が制限され、千駄木林町、千駄木坂下町と町が分かれた。しかし新住所では崖は無視して一緒にし、林町と坂下町を3丁目、動坂町を4丁目とした。つまり、不忍通りも道灌山通りも無視し、キツネ坂という小さな道で分けた。


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