日本薬史学会年会で岐阜、エーザイ川島工場に来た。
学会会場は内藤記念くすり博物館。
館内の様子は別ブログで書いた。
ここは外も見るものがある。
2019-10-26
博物館の隣に温室。バナナやバニラ、聖書にも出てくる乳香樹など。
カカオが大きな実をつけていた。
玄関前から薬用植物園が広がる。
驚いたのは通路がふかふかの芝生だということ。
よく手入れされ雑草もない。子供のようにごろごろ転がりたくなった。
睡眠、胃腸、眼、など、用途、薬効別に植物を集めたコーナーもある。
これはプレートを見なくても分かる。
咳止めエフェドリンが取れるマオウ。
トリカブトなど危ない植物は柵の中
柵が写っていないが毒草。田舎でよく見た気がする。
水やりはスプリンクラー
薬木園もある。キハダ、ニッケイ、アケビなど。
ニュートンのリンゴ
小石川植物園から枝をもらい接ぎ木した
ここから先はエーザイ川島工場
植物園、博物館も立派だが、エーザイはもっとすごい。
創業した内藤家というのはどういう人々か。
館内には先代、先々代の社長に関する展示もあった。
私は漢方の標本や江戸時代の道具より、こちらの方が面白い。
創業者の内藤豊次(1889- 1978)が田辺元三郎商店(のち東京田辺製薬)に務めていたことは知っていた。
しかしエーザイの前身、合資会社桜ケ丘研究所(1936)、日本衛材株式会社(1941)を創業したのは、まだ東京田辺にいたときとは知らなかった。
なぜ一従業員が会社を興すことができたのか。
彼は福井に生まれた。
旧制武生中学を中退したのは、授業のスピードが遅くて退屈だったからとか。
早く就職したほうが得だと思ったらしい。
大阪海老江のボタン屋で奉公、
英語が読めたため商館係となり、翌年神戸の貿易商ウインクレル商館に勤める。
陸軍衛生兵を経てタムソン商会という薬局に就職した。ここは海外メーカーの日本代理店を引き受けていたので、道修町の田辺と塩野義に相談、田辺につながりができた。
就職4年目に第一次世界大戦勃発、輸入が止まり、タムソン商会は閉鎖。
困って田辺に相談に行くと、ちょうど東京支店の元三郎店主が脳卒中で倒れ、手伝ってくれないかと頼まれた。
田辺元三郎商店は少し前に独立会計になったものの、大阪田辺の東京支店扱いで、従業員は10人前後。通いは大番頭田辺金次郎氏一人、あとは豊次と同年輩の独身二人、他は小僧上がり数人、店員は全員住込み、三食とも店で食べ、角帯前垂れ、毎晩夜なべ、休みは盆正月の藪入りだけだった。
ここに洋服、靴の内藤豊次が入って、金次郎氏の片腕として活躍することになる。
英語が読めることで輸入販売を広げるだけでなく、大戦中に薬が入らなくなったロシアやアジアへの輸出も手掛けるようになった。
関東大震災では店が焼けた。
芝愛宕の自宅も焼け、小石川久堅町の叔父の三畳間に転がり込んだ。これが小石川との縁で、後に指が谷町に敷地70坪の借地権付き中古住宅、さらに竹早町に300坪の土地を買って自宅を新築した。
ちなみにエーザイ川島工場、くすり博物館の住所は、各務原市川島町ではない。「各務原市川島竹早町1番」である。
工場周囲は川島松倉町、川島河田町、川島小網町であることから竹早町はエーザイ専用。豊次氏が命名したに違いない。
豊次のメモ帳
震災後の仕事がないとき、図書館に通い、英語雑誌を読みながら新薬を考えた。飲みにくいひまし油に苺の色を付け甘くした「カスタロール」、サチリル酸メチルを軟膏にした「サロメチール」が大ヒットした。
豊次は大阪東京を通じて田辺としては最高の給料をもらっており、専務の金次郎氏、大阪本店の田辺五兵衛氏がすっかり任せてくれていた。
肝臓薬「ハリバ」の特許料ももらえることになり、その資金で作ったのが桜ケ丘研究所である。場所は荒川区三河島であったが、社名は豊治の自宅のあった小石川指ケ谷の別名桜ケ丘からとった。
つまり、特別な社員だったから、在職中に会社を作れたのである。
ちなみに日本衛材(埼玉本庄)という別会社を作ったのは、女性用生理用品を作る会社で、薬専門の桜ケ丘と名前を分けたかったから。
一緒になったのは戦時統制経済で当局の指示による。
さて、後を継いだのは豊次の長男、内藤祐次(1920-2005)
女子師範付属小(学芸大竹早小)、府立五中(小石川高)だから、父と違い東京山の手の御坊ちゃまである。
8歳の時の絵。
絵葉書などを見本に書いたのだろうが、墜落する飛行機やら飛行船は自分で書き足したのか。8歳にしては上手である。
大人になってからの絵を評価する力は私にない。
小学校の通知表や水戸高校の落第通知
1942年東大経済学部入学、成績票
1943年、文系だったから学徒出陣。
横須賀海兵団から土浦で飛行機乗りの訓練を受け、特攻隊要員に。
「オヤジヨ、・・・サヨナラ、サヨナラ 祐次」
親に宛てた遺書
祐次氏 エーザイ時代の名刺と給料明細
40年前、私の友人たちも何人か研究所に入った。遅くまで実験していると晴夫氏がカツサンドを差し入れてくれたという話が好きだ。
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ひとり薬史学会の会場から抜け出し、係の人に色々(ややこしい)質問していたら、「エーザイ50年・写真史」(1991)、「第三人生のあゆみ 内藤豊治」(1964)という貴重な非売品書籍2冊を頂いた。
自伝は、何十年もくすり博物館に保管してあったせいか、かすかに漢方薬のような匂いがした。
別ブログ
20191028 エーザイくすり博物館でアデュカヌマブの真相が