2019年10月30日水曜日

エーザイ植物園と内藤豊次、祐次


日本薬史学会年会で岐阜、エーザイ川島工場に来た。
学会会場は内藤記念くすり博物館。
館内の様子は別ブログで書いた。

ここは外も見るものがある。
2019-10-26
博物館の隣に温室。バナナやバニラ、聖書にも出てくる乳香樹など。
カカオが大きな実をつけていた。

玄関前から薬用植物園が広がる。

驚いたのは通路がふかふかの芝生だということ。
よく手入れされ雑草もない。子供のようにごろごろ転がりたくなった。

睡眠、胃腸、眼、など、用途、薬効別に植物を集めたコーナーもある。

これはプレートを見なくても分かる。
咳止めエフェドリンが取れるマオウ。

トリカブトなど危ない植物は柵の中

柵が写っていないが毒草。田舎でよく見た気がする。

水やりはスプリンクラー

薬木園もある。キハダ、ニッケイ、アケビなど。

ニュートンのリンゴ
小石川植物園から枝をもらい接ぎ木した

ここから先はエーザイ川島工場

植物園、博物館も立派だが、エーザイはもっとすごい。
創業した内藤家というのはどういう人々か。

館内には先代、先々代の社長に関する展示もあった。
私は漢方の標本や江戸時代の道具より、こちらの方が面白い。
創業者の内藤豊次(1889- 1978)が田辺元三郎商店(のち東京田辺製薬)に務めていたことは知っていた。

しかしエーザイの前身、合資会社桜ケ丘研究所(1936)、日本衛材株式会社(1941)を創業したのは、まだ東京田辺にいたときとは知らなかった。
なぜ一従業員が会社を興すことができたのか。
彼は福井に生まれた。
旧制武生中学を中退したのは、授業のスピードが遅くて退屈だったからとか。
早く就職したほうが得だと思ったらしい。
大阪海老江のボタン屋で奉公、
英語が読めたため商館係となり、翌年神戸の貿易商ウインクレル商館に勤める。
陸軍衛生兵を経てタムソン商会という薬局に就職した。ここは海外メーカーの日本代理店を引き受けていたので、道修町の田辺と塩野義に相談、田辺につながりができた。

就職4年目に第一次世界大戦勃発、輸入が止まり、タムソン商会は閉鎖。
困って田辺に相談に行くと、ちょうど東京支店の元三郎店主が脳卒中で倒れ、手伝ってくれないかと頼まれた。

田辺元三郎商店は少し前に独立会計になったものの、大阪田辺の東京支店扱いで、従業員は10人前後。通いは大番頭田辺金次郎氏一人、あとは豊次と同年輩の独身二人、他は小僧上がり数人、店員は全員住込み、三食とも店で食べ、角帯前垂れ、毎晩夜なべ、休みは盆正月の藪入りだけだった。

ここに洋服、靴の内藤豊次が入って、金次郎氏の片腕として活躍することになる。
英語が読めることで輸入販売を広げるだけでなく、大戦中に薬が入らなくなったロシアやアジアへの輸出も手掛けるようになった。

関東大震災では店が焼けた。
芝愛宕の自宅も焼け、小石川久堅町の叔父の三畳間に転がり込んだ。これが小石川との縁で、後に指が谷町に敷地70坪の借地権付き中古住宅、さらに竹早町に300坪の土地を買って自宅を新築した。
ちなみにエーザイ川島工場、くすり博物館の住所は、各務原市川島町ではない。
「各務原市川島竹早町1番」である。
工場周囲は川島松倉町、川島河田町、川島小網町であることから竹早町はエーザイ専用。豊次氏が命名したに違いない。
豊次のメモ帳
震災後の仕事がないとき、図書館に通い、英語雑誌を読みながら新薬を考えた。
飲みにくいひまし油に苺の色を付け甘くした「カスタロール」、サチリル酸メチルを軟膏にした「サロメチール」が大ヒットした。

豊次は大阪東京を通じて田辺としては最高の給料をもらっており、専務の金次郎氏、大阪本店の田辺五兵衛氏がすっかり任せてくれていた。
肝臓薬「ハリバ」の特許料ももらえることになり、その資金で作ったのが桜ケ丘研究所である。場所は荒川区三河島であったが、社名は豊治の自宅のあった小石川指ケ谷の別名桜ケ丘からとった。
つまり、特別な社員だったから、在職中に会社を作れたのである。
ちなみに日本衛材(埼玉本庄)という別会社を作ったのは、女性用生理用品を作る会社で、薬専門の桜ケ丘と名前を分けたかったから。
一緒になったのは戦時統制経済で当局の指示による。

さて、後を継いだのは豊次の長男、内藤祐次(1920-2005)
女子師範付属小(学芸大竹早小)、府立五中(小石川高)だから、父と違い東京山の手の御坊ちゃまである。
8歳の時の絵。
絵葉書などを見本に書いたのだろうが、墜落する飛行機やら飛行船は自分で書き足したのか。8歳にしては上手である。
大人になってからの絵を評価する力は私にない。

小学校の通知表や水戸高校の落第通知

1942年東大経済学部入学、成績票

1943年、文系だったから学徒出陣。
横須賀海兵団から土浦で飛行機乗りの訓練を受け、特攻隊要員に。

「オヤジヨ、・・・サヨナラ、サヨナラ 祐次」
親に宛てた遺書

祐次氏 エーザイ時代の名刺と給料明細

今の社長は3代目の内藤晴夫氏(1947~)。1975年エーザイ入社。
40年前、私の友人たちも何人か研究所に入った。遅くまで実験していると晴夫氏がカツサンドを差し入れてくれたという話が好きだ。

・・・・・・

ひとり薬史学会の会場から抜け出し、係の人に色々(ややこしい)質問していたら、「エーザイ50年・写真史」(1991)、「第三人生のあゆみ 内藤豊治」(1964)という貴重な非売品書籍2冊を頂いた。


初代豊次の自伝は面白かった。彼の考え方は2代目、3代目にも伝わっているように感じられ、私もエーザイに入社していたらどう成長できただろうかと考えた。

自伝は、何十年もくすり博物館に保管してあったせいか、かすかに漢方薬のような匂いがした。


別ブログ
20191028 エーザイくすり博物館でアデュカヌマブの真相が



2019年10月28日月曜日

エーザイくすり博物館でアデュカヌマブの真相が

昨年に続き、日本薬史学会に参加した。
会場は岐阜、エーザイ川島工場にある内藤記念くすり博物館。

ずっと川島は西の岐阜羽島の方という勝手なイメージがあったが、今回、各務原市南部、木曽川の川中島にあると知る。
各務原と言えば、戦前、陸軍の飛行場があり、隼の川崎重工があり、三菱のゼロ戦も牛車でここに運ばれ試験された。いまは航空自衛隊の基地がある。
2019-10-26 富士と大山 
久しぶりの晴れ。

当日9:30、尾張一宮の駅前から川島の学会会場まで送迎バスが出る。
9:27着の電車で行って間に合うか、前もって事務局に聞いたら大丈夫という。
電車が2分遅れて焦ったが、改札口に事務局の人が案内に立ってくれていて、小走りでバスに向かった。
しかし大型貸し切りバスはすでに学会参加者で満員、東京から来た人は多かったはずだが、この電車できたのは私だけ。
私だけを待っていた感じになり出発。
出発時刻は1,2分しか遅れていないはずだが、大そう道路が混んでいて、10時開始の学会には到底間に合いそうもない。
あたかも私のせいで全員遅刻になるようで、バスの中では文字通り肩身を狭くして隣の人と言葉も交わせなかった。
くすり博物館はただの展示場ではなく、本館、図書館、展示館の3棟に、立派な劇場型の大ホール、小ホール、多目的ホールなどもある。
本業と関係ないこういうものに金をかけるエーザイは、金持ちというより、オーナーの考え方が現れやすい会社ということだろう。
内藤記念財団による生命科学研究への多額の援助しかり。
他社が諦める認知症治療薬への執念しかり。
この日は市民開放講座もあるので臨時に座席を増やしている

特別講演でエーザイ執行役(ニューロロジー)木村禎治氏が
認知症治療薬の開発の歴史について話された。

しかし、ちょうど数日前にエーザイが驚きの記者発表をしている。
3月に効かなかったとして臨床試験を中止、株価が大暴落したアルツハイマー病薬アデュカヌマブが、データを解析しなおすと有効と分かり、来年早々に申請すると。

それに大きく触れる講演となった。

アデュカヌマブ(開発コード:BIIB037)は、Neurimmune社から導入、バイオジェンと共同開発していた、抗アミロイドAβ抗体。

この発表で(22日)、エーザイは株価が5534円からたった3日で8150円(25日)まで急騰した。
メガファーマ、医療関係者はじめ皆諦めていたのに(3月は株価9000円台から急落した)、この大逆転はなぜ起きたのか。

まさか、神経疾患と関係ない薬史学会でホットな話を聞けると思わなかった。



アルツハイマー病の薬は、エーザイのドネペジルなど、進行を遅くする対症療法的なものはあるが、原因に迫り治す薬はなかった。

1992年以来、遺伝子変異家系の解析から老人斑の構成タンパク、アミロイドAβが原因ではないかと推定され、2001年のアミロイドワクチンAN1792を皮切りに多くの抗アミロイド製剤が登場した。
しかしファイザー、ロシュ、ノバルティスなどことごとく失敗した。
抗体は0.1%しか脳に行かないし、結合しても神経を救える保証はない。
エーザイ・バイオジェン連合軍も、3月に抗体のアデュカヌマブを中止、アミロイド生成酵素BACE阻害薬エレンべセスタットも9月に開発中止に追い込まれていた。

アミロイド仮説は間違っていたのではないかと皆思っていたところだった。
この即位礼祝日まで。
 

アデュカヌマブは、ほとんど他者と同じ抗アミロイド抗体なのに何が違うのか?
中止になって復活したのはなぜか?

1.他社の開発品との違いは何か?
ーーエーザイは、アルツハイマー病治療薬には5Rが大事だと考えた。
Right Target アミロイドでも凝集度合いでいろいろある。どんなアミロイドを狙うか。
Right Population PETでアミロイドが沈着している患者のみ選抜。効きそうな患者だけ選ばないと優位差は出ない。
Right Dose 抗体はなかなか脳に入らない
Right Period 試験期間が短くても差は出ないし、長いと効いていたのも悪化して差がなくなる。
Right Scale 差が出やすい指標を工夫する。

2.今年の3月で効かなくて中止にしたのに、今回 なぜ差が出たか?
ーー3月は昨年12月までのデータだった。その後、臨床後期、高用量、長期観測の患者のデータがどんどん増えた。

3.今回申請したのはどういう自信か?
――結果解析で外部アドバイザーのほかにFDAの審査官も議論に入っている。
FDAが申請にアグリーしたということだ。

木村氏はもちろん責任者だから、このことは前から知っていただろう。
しかしエーザイの時価総額が1兆6千億からたった3日で8000億円も増えてしまうという情報は外に出せない。学会要旨の〆切は8月31日、今そう思って読むと我々よりAβ仮説に対し楽観的な感じ。
バイオジェンの記者発表は1時間半もあり記者、投資家との質疑応答が十分行われ、秘匿する事項もなくなったのか、口はなめらか、内情をいろいろ話してくださった。
4 ほかの開発品の状況はどうか?

BAN2401 p3 Aβは凝集して老人班になるが、凝集度合いはさまざまである。 他社の抗体はモノマーに対するものがほとんどだった。また大きな凝集体を除くと毛細血管が出血する恐れがある。そこで、小さすぎず大きすぎない可溶性Aβ凝集体を狙って抗体をつくった。アデュカヌマブが成功すれば、BAN2401もぐっと成功確率が高まるだろう。

E2814 P1準備中 リン酸化体が蓄積するタウに対する抗体。タウはAβとちがい細胞内タンパクであるから抗体は効かないといわれているが?
ーータウはプリオンのように凝集が伝播する。伝播するとき、いったん神経細胞の外に出るらしい。その時を狙う。

E2511 前臨床  Aβ抗体やタウ抗体で効かずに神経細胞が障害受け始めたときに効くことを目指す。すなわち、コリン神経のシナプス再生剤。低分子。

 
貴重書の書庫、いや宝庫

アルツハイマーの新薬は成功確率が4勝150敗。
4勝はエーザイのドネペジルやメマンチンなどだが、対症療法であり発症原因を抑えるものではないから、根本治療でない。
しかも、臨床開発は、診断に手がかかるため例数を集めるのが大変で、がんや糖尿病など他の疾患と比べると開発費用がけた違いにかかる。

よくもまあ、こんな疾患に手を出したものだ。
もちろん国内でやっているのはエーザイだけである。
手を出すどころか全力で。

これも内藤イズムだろうか。
お雇いCEOのメガファーマ、会議好き責任回避の日本企業、他社ならずっと早く撤退している。
話しは戻るが、エーザイの内藤記念くすり博物館所蔵品の質、量は素晴らしい。
例えば、大戦末期1944年12月に作られた国産ペニシリン碧素の初めてのロット、1.5リットルはペニシリン第一号とされる。150本のアンプルのうち現存するたった1本は、ここエーザイ博物館が持っている。(2019年9月、国立科学博物館で重要科学史資料の第276号に認定された)

 
解体新書は複写版を自由に触らせている

貴重な医薬関係の資料をもっている団体、個人は、自分で保管できなくなったとき、ここに寄付すれば大切にしてもらえるというコンセンサスができているようだ。

これだけの資料館を維持するのは大変だが、常勤の従業員(学芸員?)が9人いるらしい。
エーザイのイメージを大きく上げている。

座長もやり、ポスターも出し、

今回、エーザイのhhc(ヒューマンヘルスケア)活動なるものを知った。
全従業員が勤務時間の1%、患者と触れ合うというルール
年250日とすれば2.5日。半日を5回か。
特別講演の木村先生も認知症の患者と触れ合っていらっしゃる。

本来、製薬会社の研究者は、「人類の福祉に貢献する」などときれいごとを言っても、しょせん彼らはもっとも健康で、病気と患者から離れている。しかし直に向き合ったら、意識が変わるだろう。

内藤イズムすばらしい。
同族会社もいいものだ。
大正、大塚、同族会社は他にもあるが、エーザイが群を抜いて従業員の顔が誇らしげで幸せそうに見える。
もう少し株価が下がってくれたら、ぜひ買いたい。

千駄木菜園 総目次

2019年10月25日金曜日

ネコブセンチュウ?にショック

ひたし豆を10月6日に半分収穫した。
しかし残りの半分は、二週間たってもまだ鞘に豆が入っていない。
まだ青々しているし、本来は11月末に収穫というから、放っておけば実るのかもしれない。しかしカメムシなどに大分葉を食われ、これ以上熟さないような気もする。
2019-10-20
初めて作ったひたし豆の味見はしたし、冬野菜用の畑を広げたかったこともあり、栽培中絶、すべて抜くことにした。
白いカマキリ
こういう種類なのかアルビノなのか不明。
害虫をどんどん食べてほしいものだ。

掘り返したらコガネムシの幼虫
大小さまざまだが、中に黄色いものが2匹いた。
別種なのか個体差なのか不明

つぶすのは嫌なので水につけた。
24時間、完全に水没し、翌朝死んだように動かなくなった幼虫たちを肥料にしようと畑に捨てたが、いや、ちょっと待てよ、と回収。
翌日みると7割以上が生き返っていた。
生命力に驚くとともに、いままで死んだと思って畑に埋めていた幼虫も蘇生したのではないかと悔やまれた。
2019-10-20
最後のオクラをぬくと根が肥大してこぶがいっぱい、触ると腐っていた。
え??  
ネコブセンチュウ?
細い根がないからネグサレセンチュウかも。

そういえば、半月前に葉が萎れていたから抜いたオクラにもコブがあった。
葉が枯れたのは根元からいっぱい出てきたコガネムシの幼虫のせいかと思ったが、犯人はこちらか。
思いだせば、先月抜いたキウリかトマトの根にもコブがあったかもしれない。

厄介なことになった。
毛虫類なら発生した時に消毒すればいいが、センチュウでは枯れるまで気づかない。植物体への消毒も効かない。

最初に発見したら広がらないようにして客土とか土壌燻蒸とかいうけれど、根絶は不可能に近いし、もう広まっている。
千駄木菜園はどうなるのであろうか。
今まで肥料不足、日照不足による不作と思っていたが、ひょっとしたらセンチュウによる害であったかもしれない。

憂鬱だ・・・・



千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

2019年10月24日木曜日

最後のダンスホール、新世紀

台風19号が過ぎ、13日は晴れたが14日はまた雨。
家から傘を差し、日暮里、根岸を歩いてダンスホール新世紀に来た。
電車なら鶯谷駅南口からすぐ
2019-10-14
線路上の陸橋から見える。

陸橋から下りれば、いきなり鶯谷らしい怪しい雰囲気。
かつては風雅な土地で、火事の多かった時代から日本橋の大店は別邸をたて、明治には文人墨客が住んだ。しかし、戦後は連れ込み旅館のほかにワールド、スター東京などのグランドキャバレーで賑わい、ピンクの街になった。

なお、新世紀と同じビル、最近オシャレな東京キネマ倶楽部はもとグランドキャバレーを改装したという。住所を見ればワールド会館6Fとあったから、鶯谷ワールドはここにあったのだろうか。
スター東京は2003年頃まで頑張ったものの、今は建物さえもないらしい。
2019-10-14
初めて来たのはダンスを始めて1年3か月たった2000年7月。
とても女性を誘えるほどの腕(足)ではなかったが、サークルの人に連れてきてもらった。
1階入り口。少し緊張。

昭和の時代、ダンスホールはあちこちにあったようだが、私がダンスを始めたころ、大きな店は、ここ新世紀と新宿歌舞伎町のステレオホール、有楽町の東宝ダンスホールの3つだった。

しかし、私も二回ほど行った新宿ステレオホールは、開設から50年余、2009年11月末に閉店。
有楽町の東宝は一度も行ったことがないが、来月2019年11月末日に閉鎖する。
これらよりずっと小さいが、私が2001年から2003年にかけて練習に使った赤羽ニューフロリダも、その後まもなく閉店した。
いよいよ、ダンスホールはここ鶯谷の新世紀だけになる。
この日は体育の日で、特別割引デー。
生バンドも入っているのに入場料1000円。
普通は生バンドのある14時以降は2700円、14時前のCD音楽のときは1200円である。


ホールは2階から3階まで吹き抜けになっていて、受付、ホールへの入り口は3階。
4階に更衣室とロッカーがある。


3階は有料のテーブル席、フロアを見下ろしながら食事ができる。
映画 Shall we dance? で草刈民代が本木雅弘と会っていた場所である。
この映画を見たときはまだ自分がダンスをするなど想像もつかなかった。

ステージを奥に見て、右にバーカウンターがある。
ここで知り合った異性とお酒を飲みながら談笑できればいいが、一度も経験はない。

手前右手には教師席があり、男女のダンサーが座っている。
一人で来て、他の客に声を掛けられなくともお金さえ払えば彼らに相手をしてもらえる。

しかしダンスホールの醍醐味は、未知の素人の異性と踊ることだろう。
かつては職場の異性、グループで踊りに来る場所だった。そのような世代が後期高齢者になってしまった今、ダンスを密かに習ったものがわくわくしながら来る。

15年ほど前は、確かに魅力的な女性が一人で踊りに来ていた。
しかしこの日は踊りたいと思う人が誰もいなかった。

ダンス人口が減ったということもあるが、明るい公共施設で500円、1000円でパーティーが頻繁にあり、スポーツとして安いほうに行く。
新世紀も早い時間は1200円にして値段的には十分対抗できるが、ダンス愛好者はムードよりも上手な人が集まるパーティにいく。ひとたび良い評価が定着すれば、さらにうまい人が集まる。

ゴージャスなダンスホールは今の時代に適応できていない。
かつてのような異性との出会いは難しい。
客は純粋に踊りだけが目的となっている。
女性は2000円払うなら、アットホームなダンサーが交代でスポーツ的に踊ってくれる小規模なダンスパブに通うだろう。池袋メモリー、西川口エスパス、川越フォルテシモ、大宮ラブリー、蕨テンダー、西浦和の輝、、、中には学連出身者もいる人気店もあるが、いくつかは閉店した。


ステージでは2組のバンド(オーケストラとコーラス)が交互に演奏していた。
一曲終わるとダンスをしていた客たちはステージを見て拍手する。
競技ダンスの練習をガンガンしていた我々と違い、良き時代を知る優雅な人々である。

ダンスホール新世紀。
2012年、思い切って早期退職を決めたとき、失業したら新世紀でアルバイトしようかと思った。同時に千駄木の家を買ったから自転車で通うことまで想定したが、幸か不幸かその機会はなかった。
今後もなさそうである。


千駄木菜園 総目次