2019年12月15日日曜日

忠弥坂、桜蔭、お茶の水の由来、元町公園、建部坂

12月11日、散歩のために休暇をとった。
菊坂、弓町から壱岐坂を越え、本郷の南西部、すなわち文京区の南端にきた。
歩いてすでに2時間、
しかし道はどこまでも続く。

金刀比羅宮、かつ吉の南から再び東へ坂を上がる。
11:39 忠弥坂 
坂下の左は宝生能楽堂。
能楽の流派の一つ、宝生流の舞台である。
大正時代に外堀の向こう、神田猿楽町に創建されるも、震災で焼失。
そのご、高松の殿様、松平頼寿伯爵の旧邸跡地が提供され、昭和3年に再建された。ところが空襲でまたもや焼失、1950年再建。今の建物は1978年に建てられたという。
文京区でたまに区民能楽鑑賞会の募集があるが多分当たらない。

坂下右の緑は都立工芸高校。
石川伊予守祥作という7000石の旗本屋敷があった。
創立1907年。
工業高校でありながらデザイン系の学科があるため8割が女子だという。
人間国宝を4人輩出し、南伸坊、原田美枝子も出身である。

忠弥坂は、坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があったからとされる。
丸橋忠弥は、江戸初期の慶安4年(1651)由井正雪とともに幕府の転覆を企てて失敗におわった。
しかし江戸切絵図(江戸後期)を見ると、ここは高松12万石松平家下屋敷と石川伊予守の屋敷の間で坂道は書いてない。
11:42 忠弥坂。
坂上の塀の内側は桜蔭学園(本館)。

この地は、近くにあった東京女子高等師範の同窓会「桜蔭会」の寄宿舎があったが、震災で焼失、翌1924(大正13)年、桜蔭女学校が設立された。
なお、お茶の水女子大になっても同窓会は当然「桜蔭会」である。
(ちなみに桜蔭の同窓会は晁桜会という)

1997(平成9)年10月、長女とここの文化祭に来た。
中学受験をすることが決まり、5年生のうちに一度見ておこうと。
彼女は3人の子どもの中で一番優秀だった。
ただし、いつも自分が正しいと思っていて性格もきつい。
私にそっくりと皆がいう。
ところが1年後、不合格となった。
それ以降来ていない。
11:43
本館(左)の北には大きな西館ができている。
道を挟んで東館、講堂(これはあった)。
ひさしぶりに来てみるとずいぶん変わっている。
説明会にも来ているが、本館の西、崖側には空き地もあった気がする。

公式サイトで沿革を見れば、
平成
  7年 5月 5号館改築並びに特別教室棟竣工
  9年 3月 ひばりが丘運動場管理棟新築
 11年 9月 コンピュータ教室完成
 14年 3月 新校舎建設のため文京区立旧元町小学校を借用
 15年 11月 新校舎西館竣工 5号館を東館と改称
    12月 旧元町小学校より学園に戻る
 16年 3月 東館の隣接地に別館新築
とあった。

この日は12月なのに最高気温15度まで上がり、菊坂あたりで汗ばんだ。
さすがに耐えられなくなり、桜蔭講堂の裏で、コートは脱げば荷物になるから、セーターを脱いでリュックに入れた。

11:48 いい感じの坂!
左(東)が元・元町小学校、元町公園、右が昭和第一高校。

この坂は江戸時代にはない。
西に石丸仙太郎2000石、東は南から建部、阿部、広戸の旗本屋敷3軒が並んでいた。
坂道はその間に開かれた。
11:49 坂下から。
一本東の坂が建部坂なので、ここは石丸坂と勝手に命名。
尾張屋版絵図で石丸仙太郎の「仙」は、近江屋版で「にんべんに小」だが、江戸東京情報地図では石丸釥太郎となっている。

坂を下りると外堀、神田川。
水道橋の広小路跡から、広い車道の上り坂がある。
11:50 お茶の水坂
神田川は平川として飯田橋あたりから九段下、日比谷に流れ込んでいた。
その洪水対策と江戸城強化のため元和年間、秀忠の時代に本郷台地(神田山)を削り、隅田川まで新たに川を掘った。天下普請として伊達家が担当したため神田川のこの部分を仙台堀とも伊達堀ともいった。
あらたにできた谷は茗渓と呼ばれ、斜面のあちこちでお茶に適する水が湧いただろう。

しかし、将軍に献上した名水は、神田川北岸にあった高林寺境内に湧く水だったという。
高林寺は明暦の大火(1657)後に現在地、文京区向丘に移転した。

お茶の水の地名は本来この辺りにあるべきだが、1904年甲武鉄道の駅名(御茶ノ水橋の西にあった)に使われたあと、駅の繁華街となる駿河台を指すようになってしまった。

11:51 坂の途中に元町公園
入り口表札に 開園年月日 昭和5年1月25日 とある。

大正12年の震災後、東京市は帝都復興計画として大公園3つ、小公園52を計画した。
大公園とは隅田公園、浜町公園、錦糸公園。
小公園は、地域住民の利用のほか、小学校に隣接し校庭の延長となったり、運動場として、さらに避難場所ともするよう計画された。しかし、ほとんど廃園になったり建物ができたりして面影を残すものはない。この元町公園は当時の形をとどめる唯一のものという。

しかし文京区は、廃校となった北隣の元町小学校と合わせ、この地にスポーツ施設を作ろうとして住民ともめた。

文京区などは少子化であちこち廃校になっていて、いろんなものを作っている。
(竜岡門の4中も体育館になった)
お役所というのは、自分たちがリストラされないように無理やり(区民の健康増進のためにとか言って)仕事を作っているのではなかろうか?
景観、文化財の保護を無視して開発に走るのは民間企業並みだが、税金を使うため赤字になっても責任はないという、民間では考えられないような甘い事業である。

11:54 建部坂下から。

元町公園はそっくり、御書院番、建部六右衛門1400石の旗本屋敷だった。
門の面していた道を建部坂、鶯が早く鳴くから初音坂とも言ったらしい。
案内板は「たけべ」であるが、私はタテベだと思っていた。
近江屋吾平版絵図ではタテブサカと書いてある。

別ブログ
20191211 石坂、新発田学生寮、新坂、阿本谷坂
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