2019年12月12日木曜日

梨木坂、本妙寺坂、菊坂と女子美

何の予定もないのに休暇を取った。
用事があるわけでもなく、旅行に行くわけでもなく、ただ近所を散歩するだけ。

12月11日、千駄木から歩いて白山上から白山通りを南下、仮称・阿本谷坂(言問通り)の両側、西片と本郷六丁目の坂道を写真撮ってきた。(別ブログ)
10:38 (家を出てから1時間)
続いて言問通り(阿本谷坂)を下りたところで菊坂へはいる。
すぐに左に坂道。
胸突坂 10:39
この坂名も多い。文京区では誠之小学校の北、目白など。
男性が自転車を降りて下ってきたくらいの斜度。

坂の途中に三菱電機ビルテクノサービス、本郷倶楽部がある。
坂を上がると鳳明館の看板が見える。
このあたりは本多家大名屋敷の南で菊坂台町(拝領町屋)といった。
町屋があったから坂がある。

坂上から
江戸切絵図を見たら「ム子ツキサカ」とあったから、ムナではなくムネが正しい。

10:43
菊坂の通りに戻ってくると街歩きの団体が、伊勢屋のほうから下りて来た。
多分私は一緒に歩けない。
一人が気楽。
伊勢屋の裏

10:47
菊坂自体は斜度がほとんどない。
下の川沿い(暗渠)の道に出る階段に風情がある。

なお、この道が本郷4丁目と5丁目の境となっていて、写真の木造家屋は、川向う、一葉の井戸や炭団坂と同じ4丁目となる。

写真の電柱を見れば本郷4-33
一葉がいたのは
菊坂町70番地(本郷4-32-3、明治23年9月、芝から転居)
菊坂町69番地(本郷4-31-9、明治25年5月から26年7月龍泉寺に転居まで)
いずれも下道の向こう、暗渠と崖の間である。

さて坂道の撮影を続ける。
2019-12-11 10:48
梨木坂(ナシノキサカ) 梨坂ともいう。
ここは後楽園方面(ダンス競技会)に来たときなど何回か通っている。
切絵図にもあるが名前がハイカラ。
このあたり学生下宿が多かったらしい。
登り切ると鳳明館がある。
すなわち胸突坂からの道と直角に交わる。

梨木坂上から
ところで近江屋版切絵図は周辺が菊坂町、菊坂田町、菊坂台町となっており、この梨の木坂にキクサカとかいてある(尾張や版にはない)。これが正しいのではないか?

今の菊坂は、当時と同じであるにもかかわらず傾斜が緩く、敢えて坂というほどではない。本来、町名であって坂名ではなかったのではないか?
案内板とは異なるけれども。

なお、以前撮った坂上の鳳明館を載せておく。
2016-01-17

菊坂の通りにもどり再び東へあるく。
10:51
菊坂の斜度がほとんどなくなり本郷通りがみえたころ、四つ角の両側に本妙寺坂。
10:53 本妙寺坂の下から5丁目方面を見る。
坂上に本妙寺があった。明暦大火の火元とされる。
法華宗の大寺であったが明治43年、巣鴨に移転した。(別ブログ)
明治25年、一葉が妹と本妙寺で種痘を受けたと日記にある。

明治5年に東京府が初めて設置した6つの小学校の一つ、第四校が本妙寺におかれた。
翌年麟祥院にうつり、湯島小学校となったという。

また、杉並、相模原の女子美術大学がここにあった。
1901年、東京芸大が男子しか入学できなかったため、本郷弓町に私立女子美術学校が設立された。1908(明治41)年火災で焼失、1909年本妙寺がなくなった菊坂に新校舎ができて移転した。
ネットのgoo地図は明治40年なので、移転前の本妙寺、弓町の女子美が載っている。
杉並(豊多摩郡和田掘町)にうつったのは戦前1935年である。

10:55
本妙寺のあった北側から坂下を経て南の本妙寺坂を望む。
ちなみに近江屋版江戸切絵図には、向こう側の南の坂に本ミウシサカとあり、北の坂は本妙寺の参道、境内になっている。今案内板のある北の坂は寺が移転し道ができた明治以降に呼ばれるようになったものだろう。

本妙寺坂の下から本郷四丁目、春日通方面をみる。

南の本妙寺坂を上がる手前、右に下りていく道は菊坂の本通りと並行する菊坂下道、暗渠の道。
崖と川に挟まれ木造民家が密集する、一葉の住んだところ。
菊坂散歩の人々は必ず訪れるが、
2017年3月、ブログに書いたので立ち寄らない。

上がると右手に文京区男女平等センター、
左に新しい本郷小学校がある。
1998年、少子化で真砂小学校と元町小学校が統合、99年元町小学校に仮校舎。
2002年、真砂小学校跡地の新校舎に移転、授業開始。

本妙寺坂を上りきると春日通り。
信号を待つ正面に石川啄木ゆかりの新井理髪店がみえた。

この日は最高気温15度、翌日は19度まで上がり、12月とは思えない。

(続く)

別ブログ
20190117 本妙寺と下瀬坂
20170323 菊坂、伊勢屋、炭団坂、鐙坂
20191211 石坂、新坂、阿本谷坂


千駄木菜園 総目次

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