2019年12月14日土曜日

本郷弓町、啄木、クスノキ、切絵図の外記坂と拝領町屋

何の予定もないのに休暇を取った。
用事があるわけでもなく、ただ家から歩いて散歩するだけ。

白山下、西片の下、菊坂を過ぎて本妙寺坂を上がり、春日通りに来た。

信号を待つ間、ひろい道路の向う側に石川啄木ゆかりの新井理髪店がみえた。
いつも通り過ぎていたが、きょうは立ち止まる。
喜之床(きのとこ)についてパネルがある。
11:01
喜之床は、明治12年新井喜之助が、ここ弓町で創業。
本人の名前から店名が作られたかと思ったが、彼は本郷前田邸正門前で明治4年に創業した「喜多床」で修業、独立したらしい。ひさしぶりに床屋という言葉を思い出した。

啄木は明治41年4月、3度目の上京、盛岡の先輩金田一京助の世話で本郷の赤心館、蓋平館にすむ。
42年6月、函館から母と妻子を呼び寄せ、2年ほど喜之床の2階に一家そろって住んだ。しかし嫁姑の争いあり、母、妻、本人が結核となり、明るい一家が想像できない。
44年8月小石川の貸家に転居、翌45年3月、母死去、啄木も4月、26歳で生涯を閉じた。

啄木の居た頃、喜之床は新築だった。
震災、戦災も免れたが、1978年春日通りの拡張で解体されたという。
家屋は明治村に保存されたらしいが、移築されても本郷にあってこそ意味がある。
それだけ土地(立地、景色・地形、雰囲気)というのは重要ということだ。
新井家に求めるのは無理だが、文京区でなんとかならなかったものか。
それより、春日通の拡張は本当に必要だったのだろうか?

散歩だから左に入る。
11:04 弓町教会
1981年3月、田中靖夫氏、成田有子さんがここで結婚式を挙げた。
確か雨の日で、私は間違えて三丁目の本郷中央教会に行きそうになった。

11:05 教会の斜め前のクスノキ。
樹齢600年といわれ江戸時代から有名だった。

1993年1月の一般参賀のとき、安藤英広氏と皇居から目的もなく、時間つぶしで北の丸から水道橋に出て、本郷を経て上野まで歩いた。途中たまたまこの道を通った。
昔、楠亭というレストランがあった。
2000年代になって別のレストランになったらしいが、千駄木に来てから散歩したときはレストランの記憶がない。
この日来ると、クリマ・ディ・トスカーナというイタリアンレストランが入っていた。
2017年12月にオープンしたらしい。
1993-01-02 安藤さん
いま、当時の一般参賀のときの写真を見てびっくり。
和風木造住宅である。左には洋館が見える。

当時の弓町はこういう古い家がいたるところで見られた。
私の年齢では1990年代というのは最近だから、変化の速さに驚く。
当時はまだ歴史散策に興味がなく、弓町はただの通り道でしかなかった。
(写真の構図をみればわかるが、興味はクスノキで建物ではない)

ここは江戸切絵図で甲斐荘喜右衛門という旗本屋敷になっている。

司馬遼太郎『本郷界隈』(1992)によれば、楠木正成の末裔らしい。
明治になって楠という姓にあらためた。
明治期に正成が復権したこと、門前のクスノキが改姓の理由かもしれない。
楠氏は明治いっぱい屋敷を維持し大正期に駒沢という人に譲った。
駒沢氏は屋敷を壊し洋館を建てた。
その後、中山氏が取得、ここで育った中山弘二氏が楠亭というフランス料理店を開いたそうだ。兄上の中山栄之助氏は東大産婦人科から新潟大教授。
いつのころか、マンションになり、そこに入っている楠亭もみたことがある。

恐らく遺産相続で手放すか建て替えざるを得なかったのであろう。
趣ある屋敷を壊すことも残念だが、マンション建設では相当広がった根を切ったはずである。
600年の名木が枯れたらどうするつもりだったのだろう?
なんとか文京区は保存できなかったものだろうか。

しかし1993年の私は古いものに対して興味がなかった。
今の世間の人々が昔の私と同じなら、どんどん壊してマンションを作っているのも不思議ではないかもしれない。ただ私のセンス、心は、当時より今の方が成熟していると思っている。

クスノキの向かいは本郷瀬川ビル。
11:08 奥に登録有形文化財 瀬川邸がある。
本郷弓町は西片と並び、明治の帝大教授、高級官僚がすむ最初の山の手住宅地だった。
この家は、工科大学長、古市公威が住み、娘婿、瀬川昌世医博が継いだもの。南隣は内科の青山胤通邸だった。

明治の日本薬学会会員名簿を見ると、東大衛裁初代教授の丹波敬三、東京薬学校教頭の飯盛挺造、医学部解剖学教室の初代教授田口和美、文部次官から貴族院議員になった辻新次の4人がいる。彼らの住所は、弓町2丁目20番、22番、23番、24番と並んでいた。

辻邸はのちに病理学の福士邸となり瀬川邸とともに残っていたが2013年に取り壊された。
弓町教会の向かいに日本医大学長の塩田邸、ならびに東大内科の藤井貞邸。内科の千葉俊夫邸は国鉄総裁十合邸の並びだったというがよくわからない。

本郷弓町は、嘉永年間の江戸切絵図を見れば、旗本の屋敷が並んでいる。
「弓」という言葉はない。
すなわち、慶長、元和のころ、御弓組与力同心六組の組屋敷として毎日的場で弓を射させたから御弓町となったらしいが、そのご御弓組は他に移り、名前だけ残して武家屋敷になったようである。

11:11 春日通に戻り、医学書院
「Desease:人類と30の病」を翻訳したときのことは以前書いた。
2009年、ここから埼玉、指扇までハイヤーで送ってもらった。

11:12 東富坂(真砂坂)
鳶がいたから鳶坂、東西に分かれているから飛び坂、と呼ばれ、この字になったとか。

明治41年、本郷3丁目から伝通院まで路面電車の通り道として、斜めに広い新道を作った。今はこちらを東富坂、真砂坂という。
写真左側に旧道(旧東富坂)がみえる。
旧東富坂 11:13
後楽園の駅と丸の内線が再び地下に入るところが見える。
後楽園遊園地、プール、スケート場にいくときはここを下りた。

11:15 白山通りに出て、この日気が付いたが、
遊園地のジェットコースターはラクーアのビルに乗っかっている。
講堂館のビルは単調だが昭和っぽさがある。

2019-12-11 白山通り、壱岐坂下の交差点
天駆ける龍のように、屋根に上って壁をぶち抜き、ジェットコースターというのは場所をとらない。その方が面白い。

11:19 新坂(外記坂)
壱岐坂交差点を南にわたる直前、小さな階段がある。
 坂上に内藤外記という5700石、2000坪の旗本屋敷があった。江戸時代にはすでに坂道があり(東富坂の壱岐殿坂の間の唯一の坂)、明治の新坂ではない。
坂上から。
案内板の文化人というのはこの外記坂の上というわけではなく、坂上の弓町全体の話。

再び江戸切絵図(嘉永年間)をみる。
なるほど、ケキサカとある。
坂上の内藤外記のすぐ東がクスノキの甲斐荘喜右衛門である。

ちなみに、武家地で名前の書いてあるのは旗本であるが、大きな家は苗字と名前あるいは職名があり、小身の旗本は書くスペースがないとはいえ名字だけである。
御家人など下級武士は「一人別」屋敷ではなく、大繩地すなわち、御小人、御中間、御持組などとまとめて住み、そう書かれた。
江戸情報復元地図(朝日新聞社)
また菊坂町、菊坂台町のように、町家のなかには拝領町屋というのがあり、これは御家人など中、下級の幕臣が拝領した土地を町人に貸していることを示す。
貸した本人は他の武家地に土地を借りたり、長屋などを間借りした。
江戸の宅地の広さは身分に応じて極めて(必要以上に)差があった。
大きな屋敷を持っていても収入がないものもいただろうし、いっぽう住む場所のないものも多かった。大は中に、中は小に、小は貧に、土地や部屋を貸し、収入を得た。

別ブログ
20191211 石坂、新発田学生寮、新坂、阿本谷坂
20191212 梨木坂、本妙寺坂、菊坂と女子美


千駄木菜園 総目次

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