2020年1月25日土曜日

麟祥院の立像と稲葉家、堀田家

1月23日、湯島での仕事のあと、春日通をのぼり麟祥院のまえを通ると像が目についた。
春日局のようだが、こんなところにあったかな?
真新しいが、題字は文京区長遠藤正則とある。大分前だ。
春日局の大河ドラマは1989年だし。
2020-01-23
そもそもここは何回も通っているのに初めて見た。
調べたら、つい最近、区役所の西、礫川公園内に建っていた像と石碑を、麟祥院前の区有地(麟祥院前ポケットパーク)へ移設し、令和元年10月14日除幕式を行ったという。
納得。
最近頭がぼけてきたから心配になる。

終焉の地という碑も新しそう。
自治体は本来観光開発を規制すべきであり、あの立像も目立ちすぎて良くない。せいぜいこの案内碑くらいにすべきだ。税金の無駄遣いである。

麟祥院というと、春日局(1579-1643)の墓があることで有名だが、本来は1624年、春日局の隠居所として創建されたもの。境内地一万坪、寺領三百石。はじめは報恩山天沢寺と称したが、春日局の法号をもって天澤山麟祥院と号するようになった。
すなわち春日局は麟祥院に葬られたのでなく、彼女は天沢寺に住み、そこに葬られた後、その寺が麟祥院と名を変えた。
寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらしたから枳殻(からたち)寺ともいった。

ちなみに前の通りの春日通は、ここに春日局がいたからではない。文京区役所のあたりから西にのびる文京区春日からきたものだろう。ただし戦前の小石川春日町はもう少し東で、春日局の下男30人が住むための拝領地、町屋があったことから名づけられた。

たまに彼女の墓の写真を見ることがあったのだが、この45年の間に自分で一度来たことがあるのか、見たと勘違いしているのかあいまいになっていた。

しかし、山門をくぐるとすぐ初めての寺だと分かった。
谷中、本郷の寺としては境内が美しく、京都の寺のようである。
多くの寺が江戸以来の庶民の墓墓で境内が圧迫されてしまったのと違い、隠居所としての雰囲気がわずかに残っている。

東洋大学発祥之地
東洋大学の創立者、井上円了は明治20年、ここの境内の一棟をかりて私塾「哲学館」を開いた。
左から
大正大震火災横死者之碑
中華民国留学生癸亥地震遭難招魂碑
明治廿五年辰四月十日神田火災死亡者記念碑

この日は雨で寒く、何人なくなったのか、だれが建立したのか、裏まで回って調べなかった。

奥は墓地が広がり、春日通から山門を見るだけでは想像できなかった。

はて、春日局の墓はどちらだろう。

稲葉家、堀田家の墓もある。
案内板に佐倉藩とあるが、正俊は下総古河である。

春日局は、美濃守護代、斎藤氏の流れをくむ斎藤利三の娘である。
斎藤利三(齋藤道三とは関係なし)は明智光秀の重臣で、稲葉一鉄の娘とのあいだに斎藤利宗、斎藤三存、末娘の福(春日局)らを産んだ。

頑固一徹、稲葉一鉄は大垣駅のロッカーで見たことを以前書いた。

光秀が秀吉に敗れ、斎藤利三が処刑されると、福は母の実家に引き取られ、稲葉重通の養女となり、稲葉正成の後妻となった。
秀忠の嫡子の乳母に福が選ばれたのは、正成の関が原における勲功、名族斎藤氏の出身というほか成人前に三条西家でも育てられ公家の教養もあったためといわれる。
そして息子の稲葉正勝も家光の小姓にとりたてられ、老中、小田原城主にまで出世した。

正勝の墓が千駄木の養源寺にあることは、以前書いた。

堀田正俊の正室、老中稲葉正則の娘の墓
稲葉正則は正勝の次男、第2代小田原城主。
この女性は春日局のひ孫にあたる。
また正俊は佐倉藩初代堀田正盛の子、正盛の母は稲葉正成の最初の妻との間の娘だから、春日局のまま孫になる。
すなわち、堀田正俊は春日局の継ひ孫であり、のちに(1635)家光の上意で春日局の養子となった。さらに1943、彼女の死の直前、やはり上意で稲葉正則の娘(春日局のひ孫)と結婚しているから二重に稲葉家と縁がある。
線香台には稲葉家の家紋がほってある。
正面、春日局の墓への参道の左右に稲葉家の墓
小田原稲葉家の第二代、稲葉正則の子、正往 / 正通(まさみち)が1701年小田原藩3代藩主から下総佐倉藩初代藩主となり、その子、稲葉正知が佐倉2代目から1723年山城淀藩初代に鞍替えした。春日局とは時代が違う。

ちなみに佐倉の幕末の堀田家は、1746年出羽から戻ってきて以来、第二次堀田家といえる。
稲葉分家(館山藩)
1781年、旗本稲葉正明は安房・上総で3000石の加増を受けた。
彼は山城淀藩稲葉家の出身で、旧領の7000石と合わせて1万石の諸侯に列し、館山藩が成立した。
徳川家治の小姓時代から田沼意次につき、小姓組番頭、御側御用取次と出世を重ね要職を歴任、藩主となったが、田沼の失脚とともに減封、幕政中心から排除された。
墓石は四方から穴が貫通している。
黄泉の国からご政道を見通すためと言うがこじつけっぽい。

徳川の三つ葉葵と稲葉家の折敷(おしき)に三文字(さんもじ)

春日局は乳母を務めた家光が将軍になると、大奥を支配し家光の側室探しに尽力、つぎつぎと女性を奥入りさせ、権勢をふるった。

なお、春日局という称号は、1629、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま上洛、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階とともに朝廷から下賜されたもの。

その西隣は堀田正則の正室、正厳院。

都心の墓にはめずらしく木々がある

西村氏累世之墓
左右の墓石は、佐倉臣忠倫西村府君墓(明治二十八年)と佐倉臣壮翁西村府君墓。
二人とも検索で見つからず。
なお府君とは、①中国漢代、府の太守の称。②死んだ父祖を敬っていう語。らしい。

麟祥院はいつも素通りしていたが、立像のせいで立ち止まり、中に入ることになった。
観光客を呼び込む働きは確かにある。


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