2020年5月28日木曜日

クルミをきれいに割りたい

日曜日、妻がパンを焼きたいからクルミを割ってくれという。

1993年のパーティシーズンに大活躍したくるみ割り器を思いだし、探すも行方不明。
朝から天気も良いので庭に出て、いつも通り原始的に割ることにした。

いま、古い我が家はあちこちコンクリートやタイル、敷石がひび割れてきて私も神経質になっている。どこで割るかいろいろ探し、結局板の上に石をのせ、そのうえでクルミを押さえ金づちで叩く。

2020-05-24 9:21

50年以上のくるみ割りキャリアを持つが、今まで何も考えてこなかった。
適当に割り、適当に取り出してきた。
取れないものはもったいないから爪楊枝でほじくりだし、その場で食べる。
ゴミと一緒に落ちている小さいものも拾って食べるから、土や殻の破片も口に入った。
取り出した実を台所に持っていくと、母や祖母は味噌と混ぜ、大根や芹と和えておやきに入れてくれた。

要するに、子どものころから何も考えず適当に殻を割っていた。

しかし、老いた今、なるべく大きな欠片(カケラ)を台所に届けることを目標とし、そのために初めて試行錯誤した。結論を書けば
クルミにはぐるっと一周する稜線があり、そして一か所尖っている。
地球に見立てれば、尖ったところが北極、稜線は子午線。
ここで北極を下に石におき、わりと平たい南極を金づちで打つ。
すると殻を外しやすい割れ目が入る。(気がする)


どうだ!!

それにしても不思議な形。
脳のような襞はいいとして、双子葉類の種としてこの形はどうか? 
ふつうは落花生やヒマワリなど、子葉となる半球が2枚合わさり、間に根と芽の基があると思う。
クルミの場合、2枚の子葉はどれか? 
芽と根はどこから出るか?
これを埋めておけば発芽するか?

この問題は後回し。


形に戻る。
上の写真で北極あるいは南極から見ると、隙間のある経線と稜線になる経線がある。
これは外殻の形とどう対応するか?
外殻の稜線(子午線)は中の子午線に一致すると判明。
この意味は何だろう?


そっくり出した後、二つに割る。
まるで脳梁で分けた左脳と右脳。
ここで先ほどの稜線は南半球にしかないことも分かる。
この年になっていくつも発見があった。

これらは昨年暮れに帰省した時もらってきたもの。
子どものころから畑の端にあるカシグルミの木。
周りに何も作物は植えなかったから草ぼうぼうの藪になっていて、隠れ家を作り、拾って来た犬をつないでいたこともあった。

やがて道路拡張で小川は埋められ畑は削られた。
成長したクルミの木は枝を大きく道に張りだすことになる。
熟してくると緑の外皮(仮果)が黒くなって割れ、その中の核果(今割った殻)と外皮が道路に落ちてくる。道が汚くなるので数年前、だいぶ切って小さくした。

毎年夏、お盆で弟と墓に行くとき脇を通る。帰りに彼はこの木を見上げてアメリカシロヒトリがいると枝をそっと折り、道路で踏みつぶす。
アメリカシロヒトリにやられた枝の実は、外見は普通でも中が成熟しない。
この日、そのような多数の実を見て弟の苦労を思う。

父が死んでからは彼が畑を守っている。
何一つ出荷するわけでなく、自家用と近所、親戚にあげるだけ。
収入がゼロなのに消毒薬をはじめ農業資材の支出は馬鹿にならない。

百姓仕事は休めない。
会社員でありながら朝と土日は畑に出る。
今の季節は雑草駆除の戦い。汗と土ぼこりにまみれて機械で畑をかき回しているだろう。だからクルミや柿まで手は回らない。
感謝して食べなくてはならない。

昔、田んぼに行く途中に小さくて固いオニグルミがあったな。
自生種だが、田舎ではケンメといって、植えたカシグルミと区別していた。
カシグルミは樫ぐるみだっと思っていたら菓子ぐるみだった。
手打ちぐるみ、シナノグルミという別名もあるらしい。

2020-05-24
こちらは狭いが気楽な都心の菜園
ミカンが生っているが昨年はすべて自然と落下した。
秋までもつか。

2020-05-24 ミニトマト

これを書くにあたりクルミの割り方を検索してみたら、水に一晩付けて電子レンジあるいはフライパンで熱すると割れるとあった。問題は大きなカケラが取れるように割れるかどうかだ。
試してみたいがクルミは全て割ってしまった。
来年の正月にまた調べよう。

そのときは2つ3つ地面に埋めて発芽させてみよう。

2020-05-06
2,3年前、捨てた生ごみから発芽したモモ(たぶん)。
もう場所がないので鉢植え。


20180814 ワラビの畑と荒れる農地(長野)
20181025 柿の種はどこ? 断面を見る


千駄木菜園 (庭・植物)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次

2020年5月26日火曜日

湯立坂、銅御殿、団平坂、啄木

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
新しい大塚駅をみて、昔の大塚三業地から千川の暗渠と南大塚の高級住宅地、
養育院跡の大塚病院、大塚公園を歩き、
東京教育大跡地で歴史をみてきた。

別ブログ
20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや
20200523 養育院、大塚公園、白鷺坂と地形
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大

引き続き小石川台地の東斜面を南下する。

国土地理院公式サイトから

東京教育大跡地、占春園が南に接する道は湯立坂。
東の千川通から春日通りのほうに上がっていく。

12:45 湯立坂
松平大学頭上屋敷と旗本6千石、高井石見守下屋敷の間、江戸時代からあった。
昔、橋がなくて対岸の簸川神社に渡ることができなかった氏子たちが、こちら側で湯を沸かし、湯花(泡)を神社にささげたという。

野村不動産のマンション、崖を抉った駐車場をすぎ、
2020-05-17 12:48
国重要文化財・旧磯野家住宅。別名あかがね御殿
湯立坂中腹にある。
切通しの向こう、窪町東公園の上から緑青の屋根が見えたが、ここから中は見えない。

表札は大谷
山林王と言われた磯野敬によって1912(大正元年)に建てられた。その後、新潟の石油王・中野貫一が譲り受け、さらに戦後、ホテルニューオータニ創業者・大谷米太郎の子・大谷哲平の所有を経て大谷美術館(古河邸ももつ)に移管された。

12:51
南に回って月極め駐車場から覗いたがよく見えない。

12:58
住所は湯立て坂を境に、大塚三丁目から小石川五丁目に変わっており、このあたり落ち着いた住宅地である。
さらに南下する。
13:03
左、竹早公園、右、区立一中。
このあたり、戦前は光岳寺、智香寺があった。
昭和7年
東京高等師範は不忍通りまで広がっている。
中央やや下、いま区立一中あたりに智香寺がある。
学校の記号があるが区立中学は戦後である。

13:06
竹早公園の南の一角が小石川図書館。
文京区の図書館はみな小さい。

前の道を団平坂という。案内板を見れば米つきを商売としたらしいが、庶民の名が残るとは珍しい。相当強烈なキャラだったか?
しかし、この辺り旗本屋敷が連なり町屋はなかったと思うが、と江戸切絵図を見ていたら、ちょうど小さく小石川清巌寺前とあった。町屋の灰色に塗ってなかったから気づかなかった。団平さんはここに住んでいたようだ。

団平坂、上から下の方をみる
おそらく、図書館の先の交差点から坂下一帯は松平播磨守(常陸府中、2万石)の上屋敷があった。団平坂はそこまでだから短い。
今この辺りきれいに区画整理されている。新興住宅地のようで、坂道としてはつまらない。

松平播磨守は、守山藩松平家とおなじ水戸徳川家の御連枝、家紋も八角に三つ葉葵で同じ。
明治になって一帯は宅地となった。
今の小石川パークタワーあたりに屋敷を構えた松平は、華族となった播磨守の子孫だろうか。戦後、その邸宅の北に、広い環状3号線となる播磨坂の道路が開かれた。

団平坂の一本南の通りを下る。
13:08
石川啄木終焉の地
啄木は本郷を歩いても音羽を歩いてもゆかりの地がある。
文京区で引越しを重ね、4か所目。
これで4か所ともブログに書いた。

石川啄木顕彰室は閉館
明治45年(1912)、26歳で人生を終えている。

ちょうど3年前の2017年5月14日、息子が一人暮らしをしてみたいと家を出た。小石川5-30-19のアパート。ここから1,2分のところ。私が見物に行く前に1年ほどで王子に引っ越した。彼はたぶん啄木に興味ないだろう。

13:14 播磨坂 
千駄木の家から坂下まで2.1 ㎞
大塚からあちこち立ち寄りながら歩いてきて腹が減った。

坂を上がり春日通りのカフェでハンバーグ定食を食べた。
コロナで一人営業の店主は大忙し、少し待たされた。

昼食後、未知の地区に入っていく。
学芸大竹早中学の手前を東に坂を下りる。
14:21 
この坂は昔からあった。右は松平讃岐守下屋敷(親戚の松平大学頭から借りた土地?)、左は幕臣の居住地だった。通りにタカジャウ丁と書いてあるが、駒込と違って付近に鷹匠屋敷、鷹匠部屋などがあるわけではない。

振り返る。鷹匠坂とする。

14:25 道の真ん中に井戸。
本来の道は人がすれ違うのもやっとだったのだろう。
案の定行き止まり。幼稚園のフェンスがあった。

14:28
ぐるっと回ると、さっきの幼稚園の正門
光円寺 明照幼稚園
公式サイトはmeishoだが、あきあきら幼稚園というらしい。
北区の明照幼稚園とは別のようである。
光円寺の奥にもう一つ寺がある。
慈照院

14:29
辰巳屋惣兵衛の墓があるというが知らない。
この辺りほんとに地元の人しかいない田舎のようである。

慈照院を過ぎるとすぐ坂に出る。
14:30
上がれば三百坂をへて都立竹早高校、あるいは伝通院横にでる。
坂下にかけて幕末、旗本5000石、大久保因幡守忠豊の抱え屋敷があった。江戸絵図(尾張屋版、近江屋版)だとこの辺りまで慈照院なのだが、江戸復元情報図だと大久保屋敷しか坂に面していないので、大久保坂とした。

疲れたから上がらず帰ろうと降りるとマンション建設現場。

慈照院の裏に当たる。大久保因幡守の屋敷跡。
帰宅後調べたら、以前は大熊製美堂という印刷会社だった。だいぶ前にどこかのカタカナ名の会社に吸収されたが、1950年代、火の鳥やジャングル大帝を連載した「漫画少年」を印刷した会社である。

14:32
地上8階、という。
標識は「文京区ワンルームマンション等の~~条例」によって設置したとある。

コロナがあっても東京集中は止まらない。
かつては都心の住宅価格の高いことが一極集中に対するブレーキだったが、今後はいくら高くても中国人たちが買う。貧しいアジア人も夢見て移住してくるだろう。

やがて江戸、明治などに興味ない人々が増えていく。
いま開発にブレーキを掛ける原動力の一つに歴史景観の保護があるが、それがなくなる。地面があったら好き勝手にビルを作って売るという時代である。


別ブログ

2020年5月24日日曜日

智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
新しい大塚駅をみて、昔の大塚三業地から千川の暗渠と南大塚の高級住宅地、養育院跡の大塚病院、大塚公園を歩いてきた。

別ブログ

20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや
20200523 養育院、大塚公園、白鷺坂と地形

引き続き小石川台地の東斜面を南下する。
2020-05-17 12:10
小石川(谷端川)の谷の千川通りと不忍通りの交差点
西へ本伝寺前に上がる白鷺坂。
ここから千駄木の家まで2.5 km。

不忍通りを南に渡る。
新しく造成したような高台に寺があった。
12:13 智香寺(ちこうじ)
まだ新しい。
この辺り、昔の地図を見れば東京教育大学の敷地である。
おかしいな。

智香寺を検索しても
「傳通院殿御荼毘地となった当地に、傳通院第四世叡譽聞悦上人聞悦大和尚の発願によって正保元年(1645)に、叡譽聞悦上人を開山として、当寺二世信譽貞存和尚が創建したといいます」とある。
伝通院殿とは於大の方であるが、この場で焼かれたのだろうか?

さらに調べれば、この地は幕末まで伝通院領入会、木村市五郎知行地だったようだ。200年後とはいえ荼毘地だろうか?

昭和7年の地図で伝通院の周りを見ていたら、今の竹早公園辺りの住宅地に智香寺をみつけた。江戸切絵図にもある。
昭和7年
文理大、高等師範は不忍通りまで広がっている。斜めに並ぶ建物は寄宿舎だろうか?
中央やや下に智香寺がある。

しかし昭和32年には区立第一中学と竹早公園になり、この寺がない。
昭和32年 千川通、播磨坂通りができている

戦災で焼失でもし、敷地交換したのだろうか?
しかしこの時点で東京教育大は健在で、この地に寺は移ってこれない。
墓もあっただろうし、どこに行っていたのだろう?
不忍通りのほうに塀で囲まれたような一角があるが、いまの智香寺より大きい。

なお、この寺は埼玉工大などを経営している。
すなわち1972年、聖橋工業高等専門学校などを運営していた学校法人聖橋学園の経営権がこの智香寺に移った。法人名は智香寺学園となり、1976年埼玉工業大学を開校した。
しかし、今ここはひと気もなく、ごく普通の寺に見える。

12:14 左は筑波大付属小学校、右は智香寺
この坂は昭和7年にないが、32年には学内道路のような点線が書いてある。
かつては教育大の敷地であった坂の北側は、いま区立大塚窪町公園や智香寺になっている。不忍通り側は林野会館、真黒な壁の認可保育園「大空と大地のなーさりぃ」である。

12:15 窪町坂とする
石垣はそれほど古くないことになる。

付属小裏の窪町坂を上がると教育の森公園。
12:19 一帯は大塚窪町といった。
江戸時代はほとんど松平大学頭(陸奥守山藩)2万石の上屋敷である。
守山藩は福島郡山にあった。水戸藩祖の頼房の四男、すなわち光圀の異母弟である松平頼元を藩祖とする。家紋は徳川家と同じ三つ葉葵であるが、さすがに丸ではなく八角で囲んでいる。

だから江戸時代、大塚窪町というのは小石川大塚吹上という尾根道(今の春日通り)に少し町屋があるだけだった。そこは窪地だろうか?

ここに来た目的の一つに地形の確認があった。
明治11年の地図で小石川台地の東側が不忍通りあたりで抉られている。
これが窪町の起源だと思った。
抉れは南北に分かれ、北の抉れは大塚公園の方に伸びる。こちらの地形はよく確認できなかったことを前のブログに書いた。南の抉れは春日通りがお茶大正門前でへこむことから何となく気づくが、この図のような崖はない。

国土地理院公式サイトから

さて、東京教育大は1973年4月に最後の新入生が入学、いっぽう筑波大が10月に開学し、翌74年4月に第一期生が入学した。
私は75年3月に高校を卒業したが、我々の使う受験参考書では相変わらず旧国立一期校である東京教育大の過去問や情報が多く、筑波大になったことを知らない者が多かった。

最後のストレート卒業生が77年3月に出た後、文学部・理学部・体育学部が閉じ、翌年、教育学部・農学部も定員が消滅した。77年秋、本駒込から自転車でお茶大の学園祭に行ったとき、すぐそばを通ったわけだ。
78年3月閉学、4月、校地なども完全に筑波大に移管された。

その跡地には筑波大学東京キャンパス文京校舎が残るが、大部分は区立教育の森公園などになった。
12:22 跡地の中心、文京スポーツセンター
旧本郷区の人は竜岡門のそば、旧四中跡の施設などもあるから、ここは近所の人が使うだけだろう。

12:23 公園に隣接するは窪町小学校
文京区で人気の3S1KのKである。(別ブログ)
このあたり戦前から人気のあった筑波大、お茶大の付属小学校もあるから、教育熱心な親が住みたがる。

12:29
放送大学(本部は千葉)と筑波大は関係ないが、なかよく門柱、校舎をシェアしている。
かつては東京高等師範学校と東京文理大学の板が左右の門柱に分かれて掲げてあった。

12:31
筑波大文京校舎と湯立坂の間の細長い緑地は窪町東公園という。

湯立坂を挟んで銅(あかがね)御殿、屋根の緑青がみえた。
緑の道を下りると占春園入り口

12:35 水車があった。
この動力を使って小屋の中で何かやってるのだろうか?
確認するのを忘れたが、単なるトイレだった気がする。
せっかく電気代使って水を上げているのだから何かして欲しいな。

さて、センシュンエンに入る。
12:37
所有は筑波大だが、付属小学校と文京区で共同管理しているらしい。

コロナで一時閉鎖。
しかしバリケードに本気が感じられなかったので入らせてもらった。

12:39 落英池
教育大同窓会の茗渓会が荒廃した公園の再生を目指し「池の水全部抜く」プロジェクトに応募しようとしていたが?

守山藩は水戸家の御連枝。
本家と同じように参勤交代を免除され、藩主はずっとこの上屋敷で過ごした。
(それならずっと国元で暮らすべきだろう。江戸は楽しかったのかな?)
それだけに庭園は見事だったらしく、江戸三名園に数えられたという。
(あとの二つは青山の池田邸、溜池の黒田邸とネットで皆コピペしているが、出典不明、江戸の地図に彼らの藩邸はない)

12:39 嘉納治五郎
1893年(明治26年)から通算25年ほど東京高等師範学校の校長(第7,9,13代)、附属中学の校長を務めた。信州出身の伊沢修二(第3、11代)、澤柳政太郎(第12代)も歴代校長に名を連ねる。1940年の東京五輪招致に成功、1938年のカイロでのIOC総会からの帰国途中、船内で肺炎により死去。77歳。

東京教育大の起源を書いておこう。
戦後の1949年、以下の4つの学校が合併してできた。
・東京文理大学
・東京高等師範学校
・東京農業教育専門学校(駒場)
・東京体育専門学校(代々木西原)
最も歴史あるのは東京高等師範で、湯島聖堂の西から1903年、陸奥守山藩上屋敷、大塚窪町に移転してきた。

高等師範は学費が無料、被服費も支給されたから、帝大に行けない優秀な学生はここに来たらしい。秋山好古、五島慶太らが知られる。

東京文理大学というのは、東京高等師範に1911年から設置されていた高師卒業者を対象とする専攻科(2年)が1929年(昭和4年)大学令に準拠する(旧制)大学に昇格したもの。広島文理大学も同じである。(改組する案は1923年に議会を通過したが震災で設立が遅れた)

だから同時期(1920年)に東京高等商業学校がそっくり東京商科大学(1949年、一橋大学に改名)になったのとは事情が違い、高等師範はその後も存続した。
文理大の修業年限は帝大と同じ3年。予科は高等師範だったのだろうか?

戦後の合併では、文理大が一般教養を重視する構想を掲げたのに対し、高師側は教員養成の最高機関たる大学を主張し対立した。高師側は新大学の名を東京教育大学とすることに成功したが、大学の運営は文理大出身の教授陣によって独占された。

東京にある学芸大、農工大、水産大が国立二期校であったのに対し、教育大が一期校になったのは文理大という旧制大学が前身の一つだったからである。


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