2020年5月24日日曜日

智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
新しい大塚駅をみて、昔の大塚三業地から千川の暗渠と南大塚の高級住宅地、養育院跡の大塚病院、大塚公園を歩いてきた。

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20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや
20200523 養育院、大塚公園、白鷺坂と地形

引き続き小石川台地の東斜面を南下する。
2020-05-17 12:10
小石川(谷端川)の谷の千川通りと不忍通りの交差点
西へ本伝寺前に上がる白鷺坂。
ここから千駄木の家まで2.5 km。

不忍通りを南に渡る。
新しく造成したような高台に寺があった。
12:13 智香寺(ちこうじ)
まだ新しい。
この辺り、昔の地図を見れば東京教育大学の敷地である。
おかしいな。

智香寺を検索しても
「傳通院殿御荼毘地となった当地に、傳通院第四世叡譽聞悦上人聞悦大和尚の発願によって正保元年(1645)に、叡譽聞悦上人を開山として、当寺二世信譽貞存和尚が創建したといいます」とある。
伝通院殿とは於大の方であるが、この場で焼かれたのだろうか?

さらに調べれば、この地は幕末まで伝通院領入会、木村市五郎知行地だったようだ。200年後とはいえ荼毘地だろうか?

昭和7年の地図で伝通院の周りを見ていたら、今の竹早公園辺りの住宅地に智香寺をみつけた。江戸切絵図にもある。
昭和7年
文理大、高等師範は不忍通りまで広がっている。斜めに並ぶ建物は寄宿舎だろうか?
中央やや下に智香寺がある。

しかし昭和32年には区立第一中学と竹早公園になり、この寺がない。
昭和32年 千川通、播磨坂通りができている

戦災で焼失でもし、敷地交換したのだろうか?
しかしこの時点で東京教育大は健在で、この地に寺は移ってこれない。
墓もあっただろうし、どこに行っていたのだろう?
不忍通りのほうに塀で囲まれたような一角があるが、いまの智香寺より大きい。

なお、この寺は埼玉工大などを経営している。
すなわち1972年、聖橋工業高等専門学校などを運営していた学校法人聖橋学園の経営権がこの智香寺に移った。法人名は智香寺学園となり、1976年埼玉工業大学を開校した。
しかし、今ここはひと気もなく、ごく普通の寺に見える。

12:14 左は筑波大付属小学校、右は智香寺
この坂は昭和7年にないが、32年には学内道路のような点線が書いてある。
かつては教育大の敷地であった坂の北側は、いま区立大塚窪町公園や智香寺になっている。不忍通り側は林野会館、真黒な壁の認可保育園「大空と大地のなーさりぃ」である。

12:15 窪町坂とする
石垣はそれほど古くないことになる。

付属小裏の窪町坂を上がると教育の森公園。
12:19 一帯は大塚窪町といった。
江戸時代はほとんど松平大学頭(陸奥守山藩)2万石の上屋敷である。
守山藩は福島郡山にあった。水戸藩祖の頼房の四男、すなわち光圀の異母弟である松平頼元を藩祖とする。家紋は徳川家と同じ三つ葉葵であるが、さすがに丸ではなく八角で囲んでいる。

だから江戸時代、大塚窪町というのは小石川大塚吹上という尾根道(今の春日通り)に少し町屋があるだけだった。そこは窪地だろうか?

ここに来た目的の一つに地形の確認があった。
明治11年の地図で小石川台地の東側が不忍通りあたりで抉られている。
これが窪町の起源だと思った。
抉れは南北に分かれ、北の抉れは大塚公園の方に伸びる。こちらの地形はよく確認できなかったことを前のブログに書いた。南の抉れは春日通りがお茶大正門前でへこむことから何となく気づくが、この図のような崖はない。

国土地理院公式サイトから

さて、東京教育大は1973年4月に最後の新入生が入学、いっぽう筑波大が10月に開学し、翌74年4月に第一期生が入学した。
私は75年3月に高校を卒業したが、我々の使う受験参考書では相変わらず旧国立一期校である東京教育大の過去問や情報が多く、筑波大になったことを知らない者が多かった。

最後のストレート卒業生が77年3月に出た後、文学部・理学部・体育学部が閉じ、翌年、教育学部・農学部も定員が消滅した。77年秋、本駒込から自転車でお茶大の学園祭に行ったとき、すぐそばを通ったわけだ。
78年3月閉学、4月、校地なども完全に筑波大に移管された。

その跡地には筑波大学東京キャンパス文京校舎が残るが、大部分は区立教育の森公園などになった。
12:22 跡地の中心、文京スポーツセンター
旧本郷区の人は竜岡門のそば、旧四中跡の施設などもあるから、ここは近所の人が使うだけだろう。

12:23 公園に隣接するは窪町小学校
文京区で人気の3S1KのKである。(別ブログ)
このあたり戦前から人気のあった筑波大、お茶大の付属小学校もあるから、教育熱心な親が住みたがる。

12:29
放送大学(本部は千葉)と筑波大は関係ないが、なかよく門柱、校舎をシェアしている。
かつては東京高等師範学校と東京文理大学の板が左右の門柱に分かれて掲げてあった。

12:31
筑波大文京校舎と湯立坂の間の細長い緑地は窪町東公園という。

湯立坂を挟んで銅(あかがね)御殿、屋根の緑青がみえた。
緑の道を下りると占春園入り口

12:35 水車があった。
この動力を使って小屋の中で何かやってるのだろうか?
確認するのを忘れたが、単なるトイレだった気がする。
せっかく電気代使って水を上げているのだから何かして欲しいな。

さて、センシュンエンに入る。
12:37
所有は筑波大だが、付属小学校と文京区で共同管理しているらしい。

コロナで一時閉鎖。
しかしバリケードに本気が感じられなかったので入らせてもらった。

12:39 落英池
教育大同窓会の茗渓会が荒廃した公園の再生を目指し「池の水全部抜く」プロジェクトに応募しようとしていたが?

守山藩は水戸家の御連枝。
本家と同じように参勤交代を免除され、藩主はずっとこの上屋敷で過ごした。
(それならずっと国元で暮らすべきだろう。江戸は楽しかったのかな?)
それだけに庭園は見事だったらしく、江戸三名園に数えられたという。
(あとの二つは青山の池田邸、溜池の黒田邸とネットで皆コピペしているが、出典不明、江戸の地図に彼らの藩邸はない)

12:39 嘉納治五郎
1893年(明治26年)から通算25年ほど東京高等師範学校の校長(第7,9,13代)、附属中学の校長を務めた。信州出身の伊沢修二(第3、11代)、澤柳政太郎(第12代)も歴代校長に名を連ねる。1940年の東京五輪招致に成功、1938年のカイロでのIOC総会からの帰国途中、船内で肺炎により死去。77歳。

東京教育大の起源を書いておこう。
戦後の1949年、以下の4つの学校が合併してできた。
・東京文理大学
・東京高等師範学校
・東京農業教育専門学校(駒場)
・東京体育専門学校(代々木西原)
最も歴史あるのは東京高等師範で、湯島聖堂の西から1903年、陸奥守山藩上屋敷、大塚窪町に移転してきた。

高等師範は学費が無料、被服費も支給されたから、帝大に行けない優秀な学生はここに来たらしい。秋山好古、五島慶太らが知られる。

東京文理大学というのは、東京高等師範に1911年から設置されていた高師卒業者を対象とする専攻科(2年)が1929年(昭和4年)大学令に準拠する(旧制)大学に昇格したもの。広島文理大学も同じである。(改組する案は1923年に議会を通過したが震災で設立が遅れた)

だから同時期(1920年)に東京高等商業学校がそっくり東京商科大学(1949年、一橋大学に改名)になったのとは事情が違い、高等師範はその後も存続した。
文理大の修業年限は帝大と同じ3年。予科は高等師範だったのだろうか?

戦後の合併では、文理大が一般教養を重視する構想を掲げたのに対し、高師側は教員養成の最高機関たる大学を主張し対立した。高師側は新大学の名を東京教育大学とすることに成功したが、大学の運営は文理大出身の教授陣によって独占された。

東京にある学芸大、農工大、水産大が国立二期校であったのに対し、教育大が一期校になったのは文理大という旧制大学が前身の一つだったからである。


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