田辺三菱製薬の戸田事業所は2020年3月閉鎖された。
その後どうなったか、いつも京浜東北線なので分からなかった。
埼京線を使っている山田泰弘氏が12月、とうとう壊されていると教えてくれた。
聞けば10月頃から窓ガラスがなくなり、真っ黒な穴が開いて遠くから見ても不気味な姿だったという。
その話を聞いてからだいぶ経つが、ようやく見に来た。
赤羽から埼京線に乗り換え、戸田公園に近づき速度を落とした時がシャッターチャンスなので一番後ろの車両に乗る。
電車はガラガラ、浮間舟渡を出てからドアの前に立ちベストポジションを確保。
2021-01-12 10:19
荒川を渡りながら田辺を探すも分からない。
まさか分からないとは思ってもおらず、焦る。
じっくり見る間もないため適当にシャッターを押した。
今拡大して見れば工事の重機もわかるが走行中の車窓からは見えなかった。
2021-01-12
以前撮った写真と比較してみる。
無くなったものはいとおしい。
青い屋根の向こう。
以前は巨大に見えた研究所も周りに大型マンションができて目立たなくなった。
私が入社した1981年は埼京線(1985)もなく、戸田事業所から鉄道の駅は遠かった。
陸の孤島とは言わないが、マンションどころか人家も稀、空き地と倉庫、工場が目立った。
それが35年ですっかり変わった。
以上 2020-03-15
さて、2021年1月の寒い日、大塚峯三さんをお誘いした。
いつも散策は一人なのだが、戸田事業所を知る誰かと一緒に行きたかった。
女性が理想だけどそんな人はいない。しかもコロナ感染者が東京だけで2000人を3日連続で超え、緊急事態宣言がでたばかり。ちょっと知人を誘いにくい。
しかしたまたま大塚さんと薬物動態の文献に関してメールのやり取りがあったので、婉曲に言ってみたら来てくださるという。
戸田公園駅で待ち合わせ。
歩き始めると、昔、朝何回か駅で一緒になりおしゃべりしながら会社に向かったことを思い出す。お互い記憶を引き出しながら進むとすぐ着いた。
2021-01-12 11:10
左はテニスコートを売却した後に立ったマンション。
正面に田辺の建物があったはず。
いまはフェンスしか見えない。
道路を挟んで守衛所の向かいの戸田寮は数年前に売却、イーオンの東日本研修センターになっている。
戸田寮は40年前にはすでに寮ではなく保養施設となっていて麻雀や宴会に使われた。
これは90年代に建て替えられ、再び独身宿舎となったもの。
道路を渡って、外から戸田事業所を一目見ようとするがフェンスがずっと続く。
11:11
網の部分があったので覗いたがほとんど見えない。
田辺三菱製薬の事業所より相当大きな建物になる。
物流施設というのは聞いていたとおり。
これだけ広い敷地をマンションにすると近隣の小学校で受け入れ不可能だからマンション業者には売らないでくれと当局に言われたとか。
フェンスは延々と続く。
ふりむいて右はかつての戸田寮
あわてて釈明すると、「私は下請けだから、元請けの人に聞いてくれ」とそばのプレハブ事務所を示された。
こちらの用件は弁当ほどの大義名分もない。
11:15
しかし窓から覗くと10人ほどが熱心に会議をしている。
ちょうど弁当を持ってきた業者も覗いたが、遠慮して他の建物に行くほど。
会議を邪魔するわけにいかないので、すこし眺めることにしたが、下請けの人のおかげでだいぶ侵入した。
すると向こうに昔の守衛所を発見。
遠慮しながらも、つい大胆に行ってみた。
大塚さんが一緒だと不思議と心強い。
11:16
1981年入社してから毎朝ここでタイムカードを押した。
2000年に小学校側の敷地4割を売却し、ここが端になったため、西側に新たな門と守衛所を作り、以後ここは新設したテニスコートの休憩所になった。
さあ大変。
二人して、怪しいものじゃありません、さっき会議されていたので、などと必死に言い訳する。その釈明で大塚さんがここにいらしたのは、31年間ということがわかった。
(そのあと研究所長のまま大阪に行かれた)
負けじと私も32年間一筋、ここにいたと力説。
そこで、もう少し、コンテナの向こうまで行ってもいいかときくと
「はい、重機が動いていますから、危ないので私がついていきます」
と許された。
11:23
解体は6月から始まったらしい。
頑丈に作ったから相当大変だっただろう。
私はそのまま物流倉庫として使うのかと思っていた。
ここが食堂、向こうは有機合成(1号館)、
その向こうはスクリーニングセンター(新2号館)、
と工事会社の彼にも説明してあげた。
11:23
よくみれば食堂の外壁の下部と床が分かる。
ここで行われた送別会、歓迎会をいくつか思い出す。
研究所の統合、整理で、開発、営業などオフィスワークに変わった研究員も多く、昨年閉鎖前に来たとき誰もいなくなった実験室には大量の実験装置、器具が残っていた。
あれはどうなったか彼に聞くと、全部スクラップにして持って行ってもらいましたという。
実験装置というのは、常に更新が必要で、移設よりも新しい場所で新型を買う。研究所、事業の縮小なら無用の長物だから、なおさら建物と一緒に廃棄されただろう。まだ使えたとしても企業用のものは大スケール仕様のためランニングコストが高くて大学では使えない。結局くず鉄になる運命である。
大塚さんが天命拓新のモニュメントはどうなったか聞かれた。
あれだけ大きいと工事会社の彼も知っていた。移設、組み立ては難しいということで、普通の大石に戻り、どこかにもっていき処分したという。
それにしても設置は誰が決めたのか、流正之作、相当な購入費に、土台を作り直すという大工事で据えたもの。会社というのはもったいないことをする。実験装置にしろ、モニュメントにしろ設置を決めた人は自分の金じゃないからね。
帰り際、工事の人は事務所に走った。
名刺を持って戻ってこられ、私もあわてて出したが、大塚さんは80歳、名刺は持っておられず詫びていらした。
その田中建設のTさんは、今後またいらっしゃることがあったら連絡下さい、と仰った。
二人して目いっぱいお礼を言って退出。
フェンスに沿って帰る途中、正門の前に来た。
ここは工事車両の出入り口になっていて外に守衛さんが堂々と立っていらした。
老人力というか、だいぶ大胆になってきたので話しかけた。
11:26
いま田中建設の人に向こうで案内してもらった、と名刺を見せると、安心されたか、ゲートをあけて中を見せてくださった。
守衛所はそのまま残っていた。
向こうに事務所などのプレハブはあったが、こちらにも小屋が必要なのだろう。
2021-01-12 11:28
菖蒲川の向こうのマンションまで見通せる。2021-01-12
白線は昔のまま残っている。
2年前の写真がある。
研究所の建て替えのための取り壊しなら夢があるが、これは廃墟にしか見えない。
夏草やつわものどもの夢のあと、も夢だけれども。
2021-01-12 11:34
守衛所の裏にお稲荷さんが変わらず残っていた。
工事の安全を願い、最後まで残すのだろう。
実験動物慰霊碑はまだ立っていると聞いたが、見せてくれ、とはお願いしなかった。
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