5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。(別ブログ)
この日は、ワクチンのほかに日本橋川を歩くことが目的だった。
神田駅に8時過ぎについて、日本橋川に出た。
修復終わったばかりの常盤橋から大手町の神田橋まで歩いた。
ここで注射されてから日本橋川散歩を再開、一ツ橋、雉子橋をへて靖国通りの俎板橋まで来た。
いつもは古書店街のほうに行くから、ここから北は初めての道。
靖国通りを越えて初めての橋は南堀留橋
10:10 南堀留橋 昭和三年完成
ということは、これも震災復興の一環として架けられたか。
堀留橋の南にある橋という意味である。
南堀留という地名すなわち堀留の南という言葉があったわけではない。
堀留というのは江戸切絵図を見ればよくわかる。
尾張屋版切絵図(幕末)
一番上が神田川。
神田川、小石川の水は家康入府前は平川として日比谷入り江に流れていが、駿河台を掘削して隅田川に向けた。残った川跡は流す必要はなくなったので、飯田橋から途中まで埋め、南のほうは江戸城防御の堀、運河として残した。その堀の北端が堀留である。
すなわち堀留から北は埋められたわけだが、下水用だろうか、途中から細い川が流れ、橋も架けられた。上の切絵図では「堀留 コオロギハシ」と書いてある。
堀留は橋の名前でなく、堀の終わりという普通名詞のような地名だった。
堀は神田川から分離されたとはいえ、外見は川であるから飯田川、飯田堀といわれた。
明治になると、甲武鉄道のターミナルが飯田橋にでき(飯田町駅)、荷物の運搬のため、堀留から神田川まで埋められた部分を開削した(1903年)。その結果、再び神田川の水は一部、日本橋を経て隅田川に流れるようになった。それが日本橋川である。
橋の名が川の名前になるという本末転倒はこういういきさつによる。
10:12 その堀留橋と傳蔵地蔵尊
ここは専修通りという大通り、写っているのは歩道部分のみ。
傳蔵というのは誰か知らない。
10:13 新川橋
今の橋は震災後の1927年竣工。
しかし明治40年(1907)の地図にもある。
南堀留橋(南の堀留橋)のように新しい川橋では意味が通らない。
新川の橋という意味だろう。
明治36年(1903)に堀留橋から北、飯田川まで新たに掘削され、日本橋川ができた。しかし日本橋川とはいかにもお役人が川筋の地図を見て決めた名前だ。この近所の人は突然掘られてできた川を新川と呼んでいたのではあるまいか。
10:16 あいあい橋
明治40年の地図を見れば新板橋という橋がある。
昭和15年の地図だと新飯田橋である。明治40年は川が掘られて架けられたばかりだから地図製作者が聞き違えたのだろうか。西に渡ると飯田町駅の車両基地だった。
その後、戦災にあったのだろうか、地図から橋が消える。
平成12年になって旧JR飯田町貨物駅跡地の再開発が行われ、それに伴い歩行者専用の橋が2002年かけられた。あいあいとはiidabashiの i-i のようである。
10:17 少年画報社
あいあい橋の東詰にあった。
子どものころ家では「小学〇年生」を定期購読してもらったが、漫画は買ってもらえなかった。しかし「少年画報」は3日違いで生まれた従兄、畦上喜平ちゃんの家でよく読んだ。(以前ブログに書いた)
少年画報は怪物くん、マグマ大使などを連載していたというが、テレビの記憶が強すぎて実際に何を読んでいたか思い出せない。ただ従兄の家の景色だけ浮かんでくる。1960年代が終わると売り上げ不振で同社が刊行していた週刊少年キングに合併された。
少年キングは1963年創刊、マガジン、サンデーとともに少年週刊漫画雑誌の3本柱であったが、ジャンプ、チャンピョンが出た70年代前半には5つのうち最弱となり(私の印象)、1982年、休刊した。
少年画報で「0戦太郎」を連載した辻なおきの「0戦はやと」(少年キング)はテレビアニメになった。私は小学校低学年だった。そのテレビの記憶は、従兄の家の景色と一緒になっている。いまどき少年画報なんてびっくり。
存続していることが嬉しかった。
10:22 新三崎橋
大正15年(1926)に初めて架けられた。当然50メートル北の三崎橋より後である。
公衆便所があって往来も少ないから職業運転手が休憩している。
JR中央線の電車が横を走る。
むこうのビルは神田川の北側。
10:24 三崎橋
左は中央線の土手、右は神田川との合流点。
1903年以前は日本橋川がなかったから橋もなかった。
架橋は日本橋川掘削と同時だろう。
今の橋は1954年。
日本橋川のこちらは神田、向こうが飯田橋(旧飯田町)だが飯田橋駅までは少し距離がある。
水道橋駅はすぐ。
10:26 水道橋駅
今は地下鉄か自転車だが、埼玉から後楽園に来るときはこの改札から出た。
左の橋は後楽橋という。1927年架橋。
あまりいい名前とは思えないが代案も浮かばない。
この歩行者専用の橋は後楽園ブリッジというらしい(1964年完成)。
この名はレジャー施設に向かう橋らしくしっくりくる。
ダンスの競技会はよく後楽園ホールで行われた。
朝暗いうちに埼玉の家を出て、この橋を渡った。
エレベーターも着替え場所も混雑、緊張、1回戦負けが多くあまりいい記憶はない。
朝8時過ぎに神田駅から出発し、日本橋川に沿って歩いた。
途中、ワクチンを打たれるも最後まで(神田川との分岐点まで)来た。
これで日本橋川は河口から全部歩いたことになる。
三崎橋、新三崎橋、あいあい橋、新川橋、堀留橋、南堀留川、俎板橋、
宝田橋、雉子橋、一ツ橋、錦橋、神田橋、鎌倉橋、竜閑さくら橋、
新常盤橋、常磐橋、常盤橋、一石橋、西河岸橋、
日本橋、江戸橋、鎧橋、茅場橋、湊橋、豊海橋
一石橋、西河岸橋だけ写真がない。
20210609 日本橋川4 一橋の如水会館、雉子橋、俎板橋まで
20210606 日本橋川3 長山の清麻呂像と丸紅、一橋家屋敷跡
20210529 ワクチンと大手町合同庁舎、気象庁
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