認知機能が低下した人は車の免許を更新するべきではない
という話ではない。
誕生日が過ぎて、2か月あった更新手続き期間もあと3週間になってしまった。このままだとつい忘れて失効しそう。最近物忘れが激しいから。
埼玉の4月生まれの知人は何か月も忘れて先週、はるばる鴻巣の免許センターまで特別手続きに行ってきた。あんな遠くは行きたくない。
と思ったこの瞬間、きょう近くの下谷警察署免許更新センターに行こうと決めた。次に思い出すのは1か月先かもしれないからね。
写真を撮るからひげをそった。スマホも充電した。準備万端。
11時ころから長電話している妻に「いってくる」と合図して玄関のカギを閉めて出る。
自転車置き場まで行って、更新手続きの通知ハガキを忘れたことに気が付いた。テーブルの上には更新に必要な古い免許証の入った定期入れもあった。危ない、危ない。全部カバンに詰める。
さあ、今度こそ出かけようとハンドルに手をかけて、今度は自転車のカギを忘れたことに気づく。再びドアを開けて取ってくる。
自転車で保健所通りを走り始めたところで今度はマスクをしていないことに気づいた。玄関を開けて戻ること三度目。まだ電話していた妻も「まったく、何度忘れ物しているんだろう」とあきれたに違いない。
狐坂を下り、西日暮里駅、日暮里駅の前を過ぎる。人出は多い。
2021-08-02 11:33
途中、第二日暮里小学校の前を通ると夕焼け小焼けの碑
中村雨紅(1897-1972)が大正5年(1916)ここに教師として勤めていた。
しかし「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る・・・・」
という景色は紅雨のふるさと八王子だろう。
さらにメロディは作曲者草川信の故郷、信州松代のものだろう。
草川は長野高校(旧制長野中学)の先輩なので、どれも名曲の
ゆりかごの唄、緑のそよ風、どこかで春が、
なども作ったことを私は知っている。
隣の大きな碑が気になってみれば、
学校敷地四百九十坪寄付 記念碑 元金杉
とある。裏を見れば、
元金杉各有志者三百八名 明治四十弐年拾月建之
とあった。小学校にありがちな「すこやかに」「みんな仲良く」というものより良い。
汗をかきかきようやく下谷警察署に到着。
前回5年前は7月初め入谷朝顔市の帰りだった。当時は下谷警察署が建て替えのため、朝顔市のそばに仮移転していた。あそこに新庁舎ができれば5年にいっぺん朝顔市に来ることで忘れないのに。
自転車を止めて中にはいると、なんと
「午前の受付は終了しました。午後の受付は13時からです。2階でお待ちになることもできます」
と書いてある。今11:40
13時までずっと待つ気もしない。
昼休みがあるなんて書いてあったか?と半分怒りながら通知のハガキを見ようとすると
ハガキがない!
確かに入れたのに。
何度探してもない。
自転車に戻って前かごにもない。
トートバッグは大きな口が開きっぱなしだが、走行中にクリアファイルごと外に出て落ちるだろうか? 落ちたのに気づかないことなんてあるだろうか?
しかし最近、そんなことはありえない、と思っていたことが起きている。飛び出るはずがない、物理的に間違いないと思っていても落ちたのかもしれない、と来た道を探しながら自転車を走らせた。しかし暑くて探すのも面倒になり、すぐ諦めてまっすぐ帰宅した。
家にあるかもしれないと期待する気持ちと、確かに入れたのだから家にあるはずない、という信念、自信。
ハガキがおいてあったはずのテーブルの上には、やはりなかった。
「ハガキなんてなくしたと言えばいいんじゃないの?」と妻は言う。
まあそうだ。
暑い中、無駄に自転車こいだのも運動したと思えばいい。
汗びっしょりの服を脱いでパソコン見ようと二階に行くと、なんとハガキがあった。
多分出かける直前に警察署をグーグル地図で確認するためテーブルの上のハガキを持って行ったのだろう。
最初に忘れたハガキを取りに戻った時、テーブルの古い免許証などをバッグに入れたことで満足してしまったのかもしれない。
ちなみに「経由更新以外の方は、ハガキがなくても可能です」と小さく書いてあった。
物忘れがいよいよ激しくなった。
そして、確かに入れたから忘れるはずがない、と決めつけた。
「これからは思い違いもあるから、常に自分が正しいと思わないほうがいい」と妻は言う。
60歳、65歳の定年は良い制度だと思う。
もちろん年寄りができる仕事はある。
しかし、ついうっかりが命取りになる仕事もある。
若者から見たら忘れっぽくて、頑固、偉そうな管理職は問題だ。
私は管理職ではないが、逆に責任もある。人の名前もすぐ出てこないし、そろそろ潮時かな。
おなかがすいたので妻と文京グリーンコートにランチに行くことにした。
家から何分かかるかと思って家を出たのに到着したら時計を見ることを忘れた。
帰りは時計を見たのにメモしなかったら歩いているうちに忘れてしまった。「私は覚えている」と妻は言ったが、やはり彼女も帰宅したら見るのを忘れた。
妻は出かけるとき電気を消し忘れていた。
物忘れ、思い違いは私のほうがずっと先行していたが、先日探していた外置きの調味料が冷蔵庫に入っていた。彼女は入れるはずがないと冷蔵庫の中を探さなかった。
「食べ物じゃないものが入っていたら怖いね」と彼女は笑っていたが、追いつきつつある。
しかし二人とも記憶に自信がない夫婦というのも頼りない。
「文京グリーンコートの敷地にあった科研製薬は、理研が一時科学研究所と名前を変えたから理研製薬でなく科研製薬になったんだよ」と以前話したことを忘れて何度もうんちくを垂れても、相手も毎回初めてのように聴いてくれる。それはそれで平和な景色だ。
豆腐のような脳味噌がなんでも記憶していることこそ、自然に逆らうような奇跡である。
どんなものも色あせるように、忘れることのほうが自然に思える。
忘れることで便利なのは、昔読んだ小説でも初めてのように楽しめることかな。
免許の書き換え、明日の朝すぐ行かないと本当に締め切りまで忘れてしまうかもしれない。
朝起きて覚えていればいいのだが。
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