10月25日、徳川慶喜、徳川厚の墓を見たあと、すぐ東に塀に囲まれた一角があった。
南の平櫛田中旧宅の裏の道から入れば参道のようにまっすぐ通路が伸びている。
しかし徳川厚のあとなので、西北の裏から墓石の間を回り込んだ。
左上の木々は徳川厚、左下の円墳は勝精の墓
西側の塀に沿って、新しい墓がびっしり並んでいた(写真中央)。
谷中墓地の中でも、寛永寺の管理地は近年盛んに売り出しており、わずかな隙間でも造成して区画分譲する。
塀を西から南に回り込むと、御三卿や慶喜家の墓所と違って、正面が開いていた。
初めて入ってみると、周りとは全く違う空間が広がっている。
4000坪あったが、大正時代には空き地となる。
葵の御門が目立つ。
文定院殿成誉寂然確堂大居士
誰のことか分からないが、周りを見たら津山松平家の墓所とすぐわかった。
この正面の墓石戒名をメモしてきて調べたら、松平斉民(なりたみ・1814-1891)のようだ。
美作国津山藩10万石、第8代藩主。
斉の字が示すように11代将軍家斉の15男である。すなわち12代将軍家慶の異母弟。
明治24年、78歳で死去した。家斉の53人の子(そのうち男子は26人)や孫の多くが夭折した中、例外的に長命であった。
ちなみに現在まで残っている父・家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである。
それにしても墓は大きい。
松平斉民はまともな人物だったようだ。
安政5年(1858年)、甥にあたる13代将軍家定の後継問題が持ち上がると、やはり甥にあたる紀州慶福(のち家茂)や一橋慶喜と並んで、一部では斉民を次期14代将軍に推する動きがあった。斉民は、家斉の子という血筋からすると慶福や慶喜よりも宗家に近い。年齢も妥当。しかし南紀派や一橋派といった大きな派閥の後押しがなかったことから、実現しなかった。
戊辰戦争では津山の藩論を勤皇に統一。
新政府から、慶喜のあと徳川宗家をついだ16代家達の後見人を頼まれた。
また、維新後は徳川一門の長老として、慶喜はじめ、皆から信頼された。それがこの墓の大きさになっているのではあるまいか。
2021-10-24
墓所の左側に真新しい墓が二つ建っていた。
手前は松平家先祖代々之霊位と書いてある。
その墓誌をみれば
津山松平家谷中墓地内整理ニ従イ旧唐櫃ノ右代々様始メ五十余ノ諸仏ヲ新唐櫃に改葬
平成二十三年九月 康 誌 とあった。
唐櫃は、かろうとと読み、墓のこと。
50以上の墓を整理、廃棄したらしい。
その「整理」された「右代々様」を墓誌の写真から解読すれば、代々の当主である。
第3代 光長
第5代 浅五郎
第6代 長熙
第7代 長孝
第8代 康哉
第9代 康乂(やすはる)「乂」は草を刈る意味。読みはガイ、ゲ、おさ(める)、か(る)
第13代 康倫
ちなみに津山松平家は、家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家の分家である。
つい最近、平成時代になって谷中のお墓が整理された第3代松平光長 (1616-1707)というのは、秀康の孫だった。
本来福井藩を相続するはずが、高田藩を立てた。(子細省略、だから単純な分家ではなく、結城(松平)秀康を初代にしている)。のち改易されるも、姫路松平家から養子にいれた松平宣富が津山藩初代藩主となった。
秀康から数えて13代目の松平康倫(松平斉民の子、藩主家としては10代目)は明治11年に没し、弟の康民(1861-1921)が子爵家を継いだ。
そのあと康春、康(1926-、元NHKプロデューサー)と続いている。
2018-10-11
ここは明治のころ津山藩松平家の14代当主、子爵、松平康民の屋敷だった。4000坪あったが、大正時代には空き地となる。
(ちなみに観潮楼鴎外邸は300坪。)
その後、越後の豪農、市嶋家の地所になった。
松平康民の息女隆子は、市嶋宗家当主市嶋徳厚に嫁いでいる。
松平康民の息女隆子は、市嶋宗家当主市嶋徳厚に嫁いでいる。
市島家の千駄木屋敷はこのすぐ裏に地続きであったが、昨年日本家屋と森は更地となり、2021年10月現在、老人ホームを建設中である。
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