谷中墓地は何回歩いたか分からない。
1978年1月から81年3月まで、3年3か月、谷中に住んだ。
もちろん若かった。散歩も歴史も興味なかったから二、三度、通り抜けただけだったと思う。
その後、埼玉に住んだが、ダンスを始めて2000年ごろから日暮里サニーホールのダンスパーティに通うようになる。墓地は日暮里駅のすぐそばだから、20年ぶりに懐かしくて何回か中を歩いた。
年を取った分だけ、墓石の名前に反応できるようになっていた。
都立谷中霊園の地図
天王寺墓地、寛永寺墓地は空白になっている。
これら3つを合わせて谷中墓地という。
ときに南西の了俒寺墓地も加える。
そして2011年、千駄木の家を買い、2013年引っ越した。
友人を新居に呼ぶときは日暮里駅南口で待ち合わせた。
谷中墓地を突っ切って、有名人の墓を案内してから連れてきた。
一番有名なのは徳川慶喜あたりだろうか。
今まで谷中墓地を何回か書いてきたが、慶喜の墓を案内していたのはブログを始める前だったから書いていない。写真すら撮っていなかった。
今回、日暮里ラングウッドホテルでランチしようと出かけたので写真を撮ってきた。
慶喜の墓へ行くに、一番わかりやすいのは言問い通り、上野桜木二丁目の交差点から入ればよい。浄名院、イナムラショウゾウ旧店舗を左に見ながら、墓域に入ったらすぐ左に入っていけば分かりやすい。平櫛田中旧居の裏の道である。
2021‐10‐24 12:05
千駄木から行くときは蛍坂を上がり墓地中央の交番のほうから行く。
でも墓地の中はまっすぐ行けなくて、結局回り込んでこの道から入る。
左の錆びたトタンの家は平櫛田中の旧宅・アトリエ。
平櫛は小平に転居する昭和45年まで暮らしていた。その後故郷の井原市に寄付される。非公開だが、たいとう歴史都市研究会、東京芸大などの有志により掃除・修繕が行われ、たまに公開される。2013年10月、中を見せてもらった。
この日は部屋に明かりがついていた。催し物でもあるのかな?
12:11
何人か観光客が来ていて、ボランチアの人が説明していた。
台東区に頼まれたのか、自主的に(趣味で)なさっているのか、分からない。
柵の隙間から写真を撮る。
初めてみたのは1978年の頃だろうか?
当時は谷根千や谷中墓地は観光地でなく、ここも柵はなかったような気もするが、記憶はあいまい。
12:15
勝精(かつ くわし、1888-1932昭和7)
慶喜の墓に来たときは必ず見る墓。
2013年12月に2回来ているが、そのときは鬱蒼とした小さな森になっていた。
木々の奥に神道の土饅頭型の墓がひっそり見えたのだが、今や2つの切り株を残し、明るい墓になっていた。
切り株は新しくなく、ずいぶんご無沙汰していたようだ。
勝精は形式上は勝海舟(1823- 1899)の養子である。また、慶喜の十男でもある。
海舟は妻のほかに妾5人が知られ、子も何人かいた。しかし嫡男の小鹿(ころく、1852 - 1892)が39歳で逝去、伯爵の爵位が途絶えてしまう。そこで孫娘の伊代子を養子にして、慶喜の息子を婿養子に迎えた。
このあと、日暮里駅のラングウッドホテルにいった。ワクチン接種済みの人は1600円のランチが800円で食べられる。
食後、帰宅するのに再び慶喜の前を通るともっと人がいた。
大河ドラマ青天を衝け、草彅剛の影響だろうか。
説明するボランチアの人もうれしそう。
さて、ランチのあと再び、ここを通ったのは、慶喜の長子、徳川厚(1874年- 1930昭和5)の墓を思い出したから。
13:51
慶喜は水戸にいるときからその英邁さは有名だった。
12代将軍・徳川家慶も「御三卿・一橋家の世嗣としたい」との意向を老中・阿部正弘を通じて弘化4年(1847年)に水戸藩へ伝達。
幼名・七郎麻呂は父・斉昭から偏諱を賜り、松平昭致と名乗っていたが、一橋家を相続してから家慶から偏諱をいただき徳川慶喜と名乗った。
家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけ。
その家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
そのため、家慶は慶喜を自分のあとの13代に考えていた。
しかし阿部正弘の反対で、将軍は家定に。
しかし14代目としては、阿部も一橋慶喜擁立に動く。
阿部、水戸斉昭、島津斉彬らの一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
しかし歴史は慶福が14代家茂になっている。
慶喜は正室一条美賀との間に女児が生まれるもすぐ死亡。
側室二人(新村信、中根幸)との間に、21人の子女をもうけた。
成人した男子は5人、
四男・厚は分家に出し(男爵)、
五男・博は鳥取藩池田家へ養子に入り第14代当主・池田仲博となる。
七男・慶久が慶喜家を継ぎ(公爵)、
九男・誠も分家(男爵)、
十男・精は勝海舟の養子となり伯爵をついだ。
13:52
厚の墓は、慶喜と勝精の間の道を少し行って右側の木陰にある。
こちらは誰も来ない。
控えめな良い感じの墓である。
13:53
二つ目の墓誌には厚の三男・喜好、次女・喜和子、
また厚五男・德川喜堅の次男・喜昭の名があった。
帰宅後、段ボールを探した。
別冊歴史読本・徳川十五代将軍総覧(1977、古本)が出てきた。
写真を撮ろうと思って広げたら数十年ぶりだったからか、糊が劣化していて本が割れてしまった。
(追記 10月29日)
本を見て9男徳川誠(1887明治20- 1968昭和43)も書くべきだと思い、朝、ぱっと写真をとってきた。先日は人がいっぱいいたから撮り忘れた。
2021‐10‐29
厚、精と比べ墓が新しく小さい。
81歳、昭和43年まで長生きしたからだろうか。
でもそのおかげで父の一番近くに眠っている。
墓誌を見れば、誠の前に南太平洋で戦死した長男、海軍少佐・徳川熙の名があった。
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