2021年10月28日木曜日

谷中墓地7 渋沢栄一、墓所の縮小と二人の妻

 

2021年現在のグーグル
阿部家墓所と渋沢家墓所

渋沢栄一の墓は分かりやすい。
言問通り上野桜木、浄名院よこから入ってもいい。
JRの跨線橋をわたり、御隠殿坂からきてもいい。
阿部家墓所、寛永寺墓地管理事務所の裏でもある。
要するに、広い通路に面してかつ大きいから目立つ。

初めて来たのはいつだろう?
40年前の谷中にいた時か、20年前ダンスで日暮里に来たときか、あるいは10年前に千駄木の家を買ってからか。
いずれにしろ、目指してきたわけではない。歩いていて大きいから誰だろう、とみて渋沢と気づいたのである。
そのころは誰もいなかった。
2021‐10‐24 11:59
ところが、青天を衝けの影響だろうか。
コロナが下火になった日曜ということもあり、見物人が次から次へと来る。
以前はなかった花も供えられている。
写真右の年配男性は巻き尺で墓石を図りながらメモしていた。

深谷市と北区のお役所は大河ドラマにとびついた。
北区などは飛鳥山を中心としたお散歩マップを何種類も作り、イベントを開催、たいして関係ないものにも渋沢を結び付ける。
例えば、田端文士村の芥川龍之介展のパンフレットに栄一の顔がある。なんだと思ったら、龍之介の実父、新原敏三が勤めた牛乳製造販売業「耕牧舎」の設立者(出資者)4人の一人が栄一だったというのだが・・・・。

さて、墓石より目立つのは西側の工事である。
つい最近までここも渋沢家の墓所だった。
数年前からの工事がまだ続いている。

ここは谷中墓地あるいは御隠殿坂から上野桜木に抜けるときは必ず通らねばならない。
通るたびに見ていた。中央の大木を移動していたのを覚えている。
すなわち、墓石は整理して3基だけ東に集められたのである。
国土地理院 2009‐04‐28撮影
渋沢家墓は大きな樹木で覆われている。
中央十字の左上が墓所。
2014
大木の移植が終わっている。
このころ東側は樹木が伐採され、墓石が移されたが、まだ切り株や根っこが残っていた。

2017‐08‐25
ほぼ今の形に近い。

私の散歩は全体の雰囲気を見て誰の墓か分かれば満足してしまう。
つまり一、二度は渋沢家墓所に足を入れているのに、墓石の文字を見たことがなかった。
周りの熱心な見物人に連れられて今回初めて見る。

左から大きな墓石が三つ、きれいに等間隔で並んでいる。
移転整理後はこの三基しか残されなかった。
左から、澁澤孺人伊藤氏之墓、
青淵澁澤榮一墓、
澁澤孺人尾高氏之墓
尾高氏の石の裏には、明治十六年澁澤篤二謹建 とある。

孺人(じゅじん)は幼い人のことだが、大夫(たいふ、官位)の妻の意味もある。
転じて「夫人」と同じように使われる。
ちなみに芥川龍之介「侏儒の言葉」の侏儒はニンベンで小人である。
女偏だったら良かったのに子ども偏とは。

さて、栄一は武州血洗島村で1840年に生まれた。
安政5年(1858年)、従兄の尾高惇忠の妹、尾高千代(1841-1882)と結婚する。
千代は2男3女をもうけ、二人は夭逝、歌子、琴子、篤二が成人した。
彼女は1882年コレラで死亡。

翌1883年、豪商伊藤八兵衛の娘、兼子(1852- 1934)と再婚した。
兼子は婿を取って家業を継いだが、没落、夫と離縁、当時、芸妓をしていた。
武之助、正雄、愛子、秀雄を産む。

妾もいた。
大内くに(1853- ?)である。
栄一が大蔵省にいた時(1870~1873)、大阪造幣局へ出張中に三野村利左衛門が設けた宴席でたまたま女中として働いていたため出会った。栄一は血気盛んな30代前半。しかし血洗島にずっと千代といたら妾をとっただろうか。
くにがもうけた2人の娘、文子と照子は尾高家縁者の尾高次郎と大川平三郎に嫁いだ。
尾高次郎は尾高惇忠の子。青天を衝けのテーマ音楽を指揮した尾高忠明氏(73)は、次郎の孫、すなわち、栄一と尾高惇忠のひ孫になる。
また大川の母みち子は惇忠の妹、千代の姉である。製紙王、大川の墓は子規と同じ田端の大龍寺にあり、以前書いた。

ウィキペディアによれば、栄一が生涯になした子は20人近くにのぼるといわれ(佐野眞一『渋沢家三代』)、歴史研究家の河合敦は、栄一が花柳界でも知られた存在だった点を挙げ、一説には50人いたと記している。

澁澤登喜子・澁澤敬三之墓
榮一と夫人尾高氏のあいだに立っている。
これは新しい。初めてみた。グーグルの航空写真にも写っていない。

渋沢敬三(1896- 1963)は篤二の長男、つまり尾高千代の孫だから、この場所に立てたのだろう。東大経済を出て大蔵大臣、日銀総裁を務めた。

ふと、他の墓石はどこに行ったのだろうと思った。
まず、敬三の父であり栄一の嫡男渋沢篤二(1872- 1932)である。

1911年、篤二と芸者玉蝶のスキャンダルが表面化すると、精神的、肉体的に問題あったこともあり1912年、篤二の廃嫡方針が決定された。栄一は嫡孫とした敬三を男爵家(のち子爵)の後継者とした。

墓域縮小前は、篤二、敬三だけでなく、渋沢平九郎の墓もあったらしい。それらは処分、廃棄してしまったのだろうか。平九郎は千代の弟で、20歳のとき飯能戦争で自害したが、栄一がパリに行くとき家督を残すため養子としたから立派な家族である。
いちばん通路に近いところに「澁澤」とだけ書かれた新しい墓石が置かれた。
脇に墓誌がある。
見れば、栄一の最初の子供、夭逝した市太郎から始まって、三男三郎、四男敬三郎、九男忠雄の名につづき、次男篤二の名前もあった。平九郎の名はない。

栄一による渋沢篤二の廃嫡は、嫡子庶子をふくめ大勢の異母兄弟が争わないように生きているうちに孫の敬三と決めたかったのであろう。篤二は栄一が死んだ翌年の1932年、60歳で没した。栄一の嫡男、敬三の父でありながら独立した墓がないのは寂しい。

なお、後妻、兼子との子、渋沢武之助(栄一五男、石川島飛行機製作所2代目社長)、渋沢秀雄(栄一七男、田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長)らは東隣の塀の中にあるらしい。

ふと、澁澤孺人伊藤氏之墓の前でうしろをみたら、西側の工事現場に穴が掘ってコンクリートが流し込まれていた。
建物の基礎工事にしては簡単すぎる。藤棚か、あるいはブランコ、鉄棒か。

本当に公園になるようだ。
渋沢家墓所は都立霊園としては破格の広さだった。
寛永寺の大名家墓所に匹敵した。
遺族が恐縮して都に返還したのだろうか?
もちろんNHKドラマのずっと前のことである。



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