2021年11月23日火曜日

長野市城山公園、長野高校の航空写真

ようやくコロナが落ち着いてきて、2年ぶりに帰省した。

体の不自由な母は2年でさらに老いた様子。
次回はいつ行けるか分からないので、妻と息子夫婦も連れて行った。
息子の嫁さんは、自分の夫の祖母に初めて会う。

新幹線かがやきは全車指定でほぼ満席。
大宮を7:45に出ると次の停車駅が8:42長野。あっという間についた。しかし通勤電車より静かで密閉感が強く、コロナを気にする人は乗りたくないかもしれない。

長野から信州中野まで歩きを入れれば1時間くらいかかるが、早く着いても困る。
私一人なら、コタツで寝転んで弟と話していられるが、妻や息子嫁がいては時間を持て余す。家族紹介などは昼食の時でいいし。

車で来ていれば松代や小布施などを回って行けるのだが、長野駅に立つと善光寺しかない。
妻と息子とは2年半前に行ったし、息子嫁も学生時代から何回か行っているというけれど、時間つぶしだから仕方がない。

駅前のウェストプラザ、2~4階にあった平安堂書店は、甲信越最大級600坪を誇ったが、時代の波には勝てず、ドン・キホーテになっていた。ドン・キホーテは2017年からというから、前回来た2019年は気づかなかったということか。

4人で参道(中央通り)をぶらぶら歩いていく。
旧藤や本陣の先、仁王門の手前、北国街道が曲がるところまで、駅前から1.6キロメートル、22分とあるが、もっとかかった。
繁華な商店街だった昔と違ってすっかり観光道路になったことは、以前のブログで書いた。
2021‐11‐06 9:29
山門

本堂に上がってびんずる様をなでた。
3人はお賽銭を投げてお参りしていたが、私は何もしない。写真も撮らない。真っ暗な戒壇巡りも有料なのでしない。今回は時間つぶしだから。

ふと、昔あった牛の像を見たくなって、境内東側を探した。
しかし、ない。

屋根の付いた休憩所のようなところで話をしていた地元の老人3人に聞いても分からないという。しかし一人が「ああ、そういえばあったなあ」と思い出し、「あれは本堂の西のほうに移したんじゃねぇかなぁ」といった。

本堂の東側はすっかりきれいになっていて、整備のとき移されたのかもしれない。
時間つぶしに来ただけだから、わざわざ見に行かない。

ふと交差点のむこうに信濃美術館がみえた。
9:51 
長野県立美術館。1966年開館。以来50数年を経て、全面改築。
2021年4月「長野県立美術館」と改称した。

ここは東山魁夷館で有名。
2007年8月、次女の夏休みの宿題で美術館めぐりというのがあったので連れてきた。

東山魁夷は横浜で生まれ、少年時代を神戸、戦後から死去まで市川で過ごしている。それらゆかりの地と国立近代美術館にも作品は寄贈されたが、ここ長野に圧倒的多数の作品がある。
1987年、79歳のとき家蔵の自作を一括して長野県に寄贈することが決め、9月、本制作、習作・スケッチ、下図等500余点の寄贈作品目録を贈呈した。現在ここの所蔵は970余点という。

2007年初めて来たとき、その一括寄贈の理由を読んで驚いた。
学生時代の写生旅行で木曽の山口村で激しい雷雨に会い、そこの老婆に親切にされたからというのである。その後、風景画に進んでいくときに信州を「私の作品を育ててくれた故郷」と感じたらしい。
その山口村は木曽郡の一番南、県境にあり、島崎藤村が生まれた馬篭宿があるところとしても知られる。

新しい美術館の入り口
このあたり、14年前は駐車場だったような気もする。
がらんとしていて、車を止めて善光寺のほうも遊びに行った。

驚いたのは、山口村は、買い物、高校通学など生活圏が木曽川下流の岐阜県中津川市であったため、2005年2月、県境を越えて中津川市に編入合併してしまったからである。
もし合併が20年早ければ、東山魁夷館は岐阜県になったかもしれない。

9:52
信濃美術館が立派になったことよりもっと驚いたことは、美術館の西側が、一面芝生の広場になったことである。ここは昔、噴水があった。横にはキャベツのような葉牡丹が植わった花時計もあった。子供のころ、祖母、母に連れられ、噴水の前でアイスクリームを食べている写真がある。
城山公園の一部としていろいろ思い出のある人も多いだろう。

1976/04/22(昭51) 国土地理院
高校生の頃、善光寺の東の城山公園には、
信濃美術館、長野市営球場、清泉女学院、長野地方気象台、市営動物園などがあった。

古くは南北朝時代に横山城が築かれ、川中島の合戦では上杉謙信が本陣を置いたとされるが、詳しくは知らない。

放課後、長野の街に出るときは、北東の住宅地のほうから動物園(無料)を通り抜け、善光寺の境内に出た。高校から動物園までは600メートル、7分。 普通の高校生だったから動物をじっくり見ることもなかった。
剣道班が思い付きでランニングをするときは雲上殿から長野西高の横を通って、善光寺から城山公園を突っ切って戻った。

高校2年の頃、町田憲一と清泉女学院の学園祭に行った。家族など招待状のある人しか入れなかった。そんなことを知らずぼーっとしていると、入り口にいた積極的な女生徒が入れてくれた。
清泉はお嬢様学校で、中野から通っているきれいな女子高生がいた。隣の南宮中学出身のようだったので、高校のクラスで畔上という友人に聞くと、彼の同級生だった泉山晶子さんと教えてくれた。もちろんその後、話すチャンスもなかった。

今のグーグル
高校野球が行われた市営球場はふれあい広場となり、清泉は中学も併設されたようである。
噴水が写っているということは芝生になったのはつい最近ということか。公園整備中の仮の姿かもしれない。


1976/04/22(昭51)
ついでに、長野高校
卒業した翌年だが、記憶の通り。桜が咲いている。
住宅が迫っているがまだ畑が残っていた。もちろん今はない。

善光寺より城山のほうが懐かしくなって、清泉や動物園のほうに行きたくなった。
しかし中野で弟たちが待っている。
善光寺下駅から10:30の長野電鉄に乗らなくてはならない。
10時を過ぎていてあきらめた。
一人だったら、長野駅から電車でまっすぐ城山公園に来ていたかもしれない。


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