2023年12月10日日曜日

臥竜公園、須坂高校と園芸高校

12月2日(土曜日)、信州中野の実家に帰る途中、長野から電車でちょうど中間の須坂で途中下車した。すぐ隣の市なのに通過するばかりで、歩くのは48年ぶり。

蔵造りの家が並ぶ中央通りを歩き、旧上高井郡役所に入り、さらにすぐ南の奥田神社、須坂藩の陣屋跡を訪ねた。
9:11に須坂駅から歩き始め、泉寿院を出たのが10:02
信州中野への電車が10:52発だからあと50分ある。
駅に戻る途中、遠回りだが寄りたいところがあった。
近年須坂には、新しく観光客相手の、かつての製糸業の繁栄にちなむ小さな博物館などできていたが、新しいものを見るより懐かしいものを見たい年齢になっている。
臥竜公園。
高校を卒業、上京して以来、須坂は全く用がなかったが、一度だけ35年前にここへ来た。
1988年5月2日、帰省しているとき1才9か月の長女を連れて臥竜公園の動物園にきた。

泉寿院から800メートル、11分。
10:14
臥竜公園入口
はて、池に橋などかかっていたっけ?

35年前の写真が1枚ある。
1988₋05₋02
桜並木を南のほうから見た写真。
何を見たか全く記憶にないのだが確かに橋はある。
10:15
入り口で覗いただけで良く整備されていることが分かる。
須坂市民の憩いの場というが、池もあり山もあり動物園もあって、なるほど、いい公園だ。

昭和6年の築造だから老舗の公園である。明治神宮や日比谷公園、小諸懐古園などを設計した日本初の林学博士、東京帝大教授の本多静六(1866~1952)の作である。昭和初頭の世界恐慌で須坂の製糸工場で働いていた多くのものが失業した。その失業者対策でもあったという。

ここには1988年以前にも、たぶん中学生のころ2,3回来ている。

はっきりしているのは、中学1年生の時。
中学では2年、3年は剣道部だったが、1年のときだけ美術部だった。日曜だったのだろう、クラブのみんなと(たぶん13キロ離れた中野から自転車で)写生に来た。私はフラミンゴを描いたことを覚えている。
顧問は美術の教諭の山岸逞(琢磨?)先生だった。私の絵を風景画でも人物画でも気に入ってくれて恥ずかしくなるほど褒めてくれた。授業では小学校から高校まで常に水彩だったが、たった一枚だけの油彩の経験は、このクラブに入っていたことによる。

池の東にある臥竜山は平地に突然盛り上がっている小山で、松代の山々と似ている。
実際、須坂も松代も北西に開いた扇状地で、大本営を松代に移すとき、鎌田山(須坂陣屋の裏)には送信施設が計画された。戦争が長引いていたら公園をつぶし臥竜山にも防空壕が掘られ首都機能の一部が入っただろう。

臥竜山は岩山で、その記憶は、池から上がっていく坂道の崖で石を拾ったこと。
チャートに似た褐色の堆積岩が片状に細かくなっていた。
それが写生のときだったのか、別のときだったのか記憶がない。

公園入口に新しい建物があった。
10:16
須坂市博物館
近年は地方の小さな自治体にこういう博物館を作ろうという発想がある。
勝善寺本堂に使用されていた鬼瓦というが、よく知らない。

私はどこへ行っても現地に来たというだけで、ちらりと見ただけで満足する。
須坂で覚えている数少ない場所をさらに訪ねるため、臥竜公園には入らず、足を急いだ。
10:23
須坂高校
校内は何にも覚えていないが、場所だけは覚えていた。
たぶん一度だけ、高校のとき文化祭に来たのだろう。
りんどう祭という優しい名前だった。校章がリンドウの花である。(長野高校は金鵄の校章で金鵄祭といった)。なぜリンドウか? 菅平に咲くミヤマリンドウというが、リンドウは漢字で竜胆とかく。近くの臥竜山との関連もあるだろう。実際、一帯は臥竜が丘とも呼ばれ、初代岩崎長思校長が「起てよ臥龍の健児」と生徒に熱く語りかけ、校歌も「雄志臥龍に よそへつつ」と歌っている。

1923年(大正12) 長野県上高井中学校として開校。
1925年(大正14) 長野県須坂中学校に改称。
というから
女子の須坂東高校が
1918年(大正7年)町立須坂実科高等女学校として創立。
1922年長野県須坂高等女学校と改称
より少し遅い。

戦後の1948年、須坂西高と改称したのは須坂東と同時である。
しかし1965年、須坂高校と改称した。
(ちなみに長野北高が長野高校と改称したのは1957年)

北信地方では長野高校に次ぐ進学校で、とくに信州大学と明治大学は全国的にみても多数の合格者を出していた。中学の同級生でも何人か進学した。高見沢(秀)、竹内、藤川、丸谷(女)などを思い出す。

私が高校に入学した2年後の1974年、長野県は12学区に分かれた。中野や須坂は長野市とは別学区となり、須坂高校はこの地域で一番の進学校となった。それまで中野や須坂から長野高校を経て東大に進学していたものは多く、地域人口をみても、新たな須坂高校から東大に数人から10人近くは合格すると期待された。しかしふたを開けると、せいぜい一人か二人しか入らなかった。 
(一方で長野高校も、12学区になる直前の3年間は毎年35名程度東大に行っていたが、学区制を敷いたら10人前後に減ってしまった)
須坂高校に期待された躍進がなかったということから、東大への進学は基礎学力というより、クラブの先輩とか同級生とか身近に何人もいるという雰囲気こそ大事であることがわかる。

・・・・
須坂高校は姿の良い正門からの写真を1枚だけとって次の記憶の場所に向かった。

5分ほど駅のほうへ歩いていくと住宅地の中に広い畑にぶつかった。
10:28
農場内に止まっている作業用車両に須坂園芸高校と書いてある。
目的地である。

中学2年の秋、文化祭(園芸祭)にきた。
なぜ2年生と断定できるかというと、その年、下手投げの牧野投手を擁した野球部が甲子園に初出場し(1回戦で平安に0-13で大敗)、今調べたらそれが1970年(昭和45)だったからだ。教室の一つに優勝旗(たぶん長野大会)と甲子園の土が展示されていた。土はワイングラスだったか、県予選の優勝カップだったか、何かの器に入っていた。いつも畑などで見ている土よりも砂に近かったことを覚えている。

中学2年と言えば、母の実家の柳沢へ行くとき以外、それまで電車に乗った経験は遠足のときくらいだった。それなのになぜわざわざ来たかというと、甲子園の土を見に来たわけではなく、植木の苗やサボテンの展示販売があると聞いたからである。

子どものころ、趣味というか集めていたものは、最初は水晶やメノウなどの石。つぎに錦鯉や金魚、サボテン。中学に入ると植木や盆栽に興味がわき、畑の一角をもらい山から取ってきた苗を植え、NHK「趣味の園芸」を見たり、すべての苗について根の形までノートに記録していた。中野の商店街が大売り出しをする7月の祇園祭、11月の恵比寿講の植木市を楽しみにし、人の家に行くと必ず盆栽や草花などの鉢植えに目が行く中学生だった。だから須坂園芸の文化祭はとても魅力あるものに思えた。

また専業農家の長男だったから、当時は何の疑問もなく須坂園芸高校に進学するものと思っていた。
10:29
ビニールハウスの西に青い芽が出た麦畑、その向こうにブドウが栽培されていた。
定年退職した時こういうところでアルバイトできれば良かったのだが。

1912年(明治45年)上高井郡立乙種農学校として開校。
須坂高校、須坂東高校より創立は古い。
1920年(大正9年)上高井農学校。
1927年(昭和2年)上高井蚕業学校に改称。
1940年(昭和15年)上高井農学校。
1942年(昭和17年)県立に移管。
1948年(昭和23年)長野県須坂農業高校。
1958年 須坂園芸高校と改称

農場のまわりをぐるっと回って正門前に来た。
10:32
須坂創成高校とある。
農業以外の学科を増やして校名変更したのかな?
学科が反対側の壁に書いてあった。
園芸農学科、食品化学科、環境造園科、創造工学科、商業科と5つある。
ん?商業科?

帰宅して調べてたら、2015年に須坂商業と合併して新校名になったらしい。
ただでさえ少子化で中学卒業者が減っているのに、職業系の高校は人気がない。

中野でも中野実業高校(1906年、下高井郡立乙種農蚕学校として創立)と中野高校(1911年創立、1923年下高井郡立中野高等女学校)が知らぬ間に(2007年)統合され、中野立志舘という藩校のような名前になった。
(ちなみに飯山ではかつて旧制中学と旧制女学校であった飯山北と飯山南が2014年統合し、飯山高校になっている)
10:37
駅のそばに来ると隣が倉庫になっている豪邸あり。
製糸業に関連していた家だろうか?

駅に着いて、電車発車まで時間があったので駅前の複合ビル(シルキーという)に入ってみた。そもそも電車の本数も利用者も少ないから、駅周辺に人がいない。駅改札や駅前デッキと同じレベルの2階に入ると観光案内所や市の出張所、ケーブルテレビ会社、プロ野球選手のサイン入りユニフォームを展示していた市民ギャラリーなどもあったが、土曜というのに誰も客がいなかった。観光案内所は4人の職員がいて、観光パンフレットを見ていたら声をかけられた。そこで須坂の語源は墨坂ですか?と伺ったら、4人のうち2人がかりで親切に調べてくださった。
10:39
シルキーから須坂駅の車両基地を見る。
須坂から若穂、松代を経て屋代にいたる長野電鉄屋代線は2012年廃止になった。

1975年に通っていた須坂自動車学校、1987年8月13日に小田切健自さんを訪ねた農村工業研究所は行く時間がなかった。
それでも、何十年にもわたりいつも素通りしていた須坂に立ち寄ったことは良かった。
まったく用がなくとも行ってみるものだと思った。

再び須坂園芸高校のことを思う。
私は農家の長男だったし、中学を卒業して高校に行くなら、漠然とこの高校だと思っていた。ところが勉強ができたため、たまたま担任がもったいないと親に話して、須坂よりずっと遠く離れた長野高校に進んだ。そこはほぼ全員が大学に進学する高校で、回りに流されるように東京に出た。

須坂自動車学校の卒業(路上)試験の直前の仕上げ教習は、最後の2コマを使って松代までの往復ドライブであった。松代真田宝物館の駐車場だったか、休憩中に助手席の教官が私の進学先を聞いて、もう戻ってこないな、親父さんは困るかもしれないな、と言われた。実際そうなった。

父は若い時は好きなことをすればいいと言ったし、跡を継いで百姓をするとしても農業高校や農業大学、農学部などで専門教育は受けずに後で父親に教わればいいと自分に言い聞かせた。そして普通科高校に進み、大学教養課程が終わると薬学部を選んでしまった。

もし、中学3年のときの、あの偶然がなく須坂園芸に進学していたら、全く違った人生になっていた。土日祝日もなく毎日畑に出ている生活だっただろう。そして恐らく、自分より勉強できなかった同級生が東京の大学に行って、私の知らない世界を経験している様子をみれば、きっと羨み、田んぼや畑で(とくに百姓仕事がつらいと思った日など)私は悔しく思ったに違いない。そういう人生は自分にも周囲にも良くない。だから長野、東京に進学したのは間違っていなかったと思う。

しかしその偶然が、4つ下の弟の人生まで変えてしまうとは、高校進学、大学進学のときの私は気づかなかった。彼はちゃんと須坂高校に入ったし性格も良かったからその後の選択肢は広かったはずだが、私の代わりに実家を継いだ。
11:10
信州中野行の電車はガラガラ。
高校時代の車内広告はどうだっただろうな、
と見ていたら老人の多い田舎らしく「フレイル川柳・標語」が出ていた。
テレビの体操 やればいいのに 寝て見てる
自分のことのようで苦笑いした。
 
この日、実家を訪ねたのは母の見舞だった。
フレイル状態を何十年も前に通り越して寝たきりになっている。


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