2023年12月7日木曜日

須坂藩、陣屋跡と堀家、奥田神社

12月2日、信州中野の実家に帰る途中、長野から電車でちょうど中間の須坂で途中下車した。すぐ隣の市なのに通過するばかりで、歩くのは48年ぶり。

蔵造りの家が並ぶ中央通りを歩き、旧上高井郡役所に入り、東隣の須坂東高校も正門からみた。
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須坂東高校から旧郡役所のほうに少し戻り南に行くと、市立須坂図書館、須坂小学校。
小学校の向かいが常盤中学校、市民体育館。
駅から1.3キロも離れ、鎌田山が迫り、市街地のはずれなのに須坂の中心地のようだ。昔は駅も線路も町はずれにつくったから駅から離れているのは不思議でないとはいえ、郡役所や上高井教育会館まで集中している。
なぜか?

このあたりは須坂藩の陣屋があったところで、周りには家臣たちの屋敷地もあったことだろう。それが明治後に公共施設が多く建てられた理由かと思われる。
大笹街道と谷街道も近くで交わり、鉄道がなかった時代は交通の要衝だったと言える。
9:45
須坂小学校北東の隅
陣屋時代の石垣が残る。

須坂藩は堀直重に始まる。1600年の関ヶ原の軍功で下総国香取郡に2千石の知行を与えられ、同年信濃高井郡(須坂)において6千石加増された。さらに大坂の陣の働きにより4千石加増され、1615年、1万2千石の大名となった。

もともと城のない土地の小藩であり、江戸時代になっては築城する理由もなく 、政庁は陣屋であった。

第2代堀直升は下総国矢作2千石を弟3人に分知したため、須坂藩は1万石となった。そしてそのまま第14代堀直明で明治を迎えた。
9:46
須坂小学校の北辺
このあたりの石垣が古い。
飯山や松代と違い城がなかったから須坂は城下町という気がしない。陣屋町という言葉はあることはあるが、少なくとも近隣の中野の子供たちは陣屋も須坂藩も殿様も意識、話題になかった。
9:47
石垣の下は狭くも堀があったかどうか、せいぜい水路程度だろう。
石垣の上は須坂小学校の体育館かと思ったが、地図を見れば須坂市剣道場・空手道場とある。

一角を北から西のほうに回り込むと神社があった。
9:48
奥田神社
先に述べた初代藩主・堀直重の父は、堀直政。
堀直政は、もと奥田直政といった。堀秀政のいとこで彼の家老となり支えた。このとき堀姓を与えられたのだが、明治になって堀家は奥田姓に戻った。
つまり、奥田神社は明治になって藩主家の祖先を祀るために建てられた。

(ちなみに、堀秀政は信長の家臣だったが、本能寺のあと秀吉につき、柴田勝家、丹羽長秀の遺領の一部、越前北ノ庄18万石を与えられ、その嫡男秀治は、上杉会津転封のあとの越後高田30万石(45万石とも)に封ぜられた。しかしその嫡男忠俊の代にお家騒動で改易された。いっぽう、家老として支えた堀直政の三男・直寄は越後坂戸5万石(のち飯山、長岡、村上に転封)、四男・直之は越後椎谷で9500石、五男・直重は須坂藩祖となり、直政の子孫は主家よりも栄えた)
9:49
説明を読めば陣屋は須坂東高校の前の通りまで占めていたようだ。
そのあたりまで図書館など公共施設が集まっている理由が分かる。
むこうに旧須坂町役場跡地という碑がみえた。
9:49
祭神は藩祖・直重かと思ったら、二柱祀っていて、幕末の13代藩主・堀直虎(1836₋1868)も祭神だった。
直虎は藩政を改革、疲弊した領内に仁政を施したという。洋学を学び甲冑弓槍を売って軍制を洋式に変えた。32歳の若さで幕府の若年寄兼外国惣奉行の要職に就く。将軍慶喜に尊王恭順を進言するも容れられず、江戸城内で自刃した。その遺徳をしのび明治13年に神社は建立されたようだ。
須坂藩主は代々聡明で、文芸にも秀でたことで知られる。

奥田神社社殿の南にもう一棟、社殿が並んでいる。
9:50
日支事変記念と書いてあった。
(ところでシナと入れても支那と変換されない。こういう規制の意義が分からない)
9:51
隣の社殿は上高井招魂社のようだ。
戊辰戦争で戦死した7名の霊を祭るため、旧藩主奥田直明氏に具申、旧藩士から浄財を集め、ここ藩主邸跡に拝殿を建てた。その後、西南の役、日清日露、太平洋線戦争まで戦死者を祀っている。
写真の奥に、復元された鐘楼が見える。

ところで、昭和48年11月4日、田中角栄首相が須坂に来て、ここ奥田神社を参拝、境内で演説したという。
「須坂市民の皆様。私と須坂市民の方々はいわば親戚なのですよ!!」
田中の地元、新潟県刈羽郡は須坂藩祖・直重の兄、堀直之の知行地である(のち椎谷藩を立藩)。また彼の目白御殿は須坂藩の江戸藩邸であったという(未確認。幕末は志摩鳥羽藩の下屋敷だったが・・・)。角さん、(原稿は秘書が作ったかもしれないが)さすが人の心をつかむ天才である。ファンになった須坂市民は多かっただろう。
9:53
奥田神社の向かいは中央公民館だが、門柱に味がある。

奥田神社、招魂社の南は須坂小学校の西口だった。
9:54
神社の境内と一体となったような雑然とした感じが良い。
昨今、都内の小学校はフェンスで囲まれているが、ここは昔のようにそのまま入って行ける。歌碑のようなものがあった。
9:55
須坂小学校の校歌かと思って近づくと県歌「信濃の国」だった。
私の子供のころ、学校で君が代を歌っているかどうか全国調査があり、結果が新聞に載った。3府県を除くすべての都道府県がほぼ100%歌っているのに対し、沖縄県と蜷川革新知事の京都、それから長野県だけはゼロ%だった。長野県は左翼的な思想はなく、ただ、代わりに大好きな信濃の国を歌っていたのである。

奥田神社の南に3代藩主・堀直輝の菩提寺だった寿泉院がある。
(4代藩主堀直佑は1キロほど離れた臥龍山の興国寺を堀家の菩提寺にした)
9:58
寿泉院。小さなお寺である。
説明板を読めば、ここの地番が須坂1番地で、旧須坂村内の地番はここが起点となったという。本当かなと調べたら、いまここは須坂上町4番地だった。

さして広くない境内に石碑があった。
9:57
福島正則公遺蹟碑
福島正則は、加藤清正とともに石田三成が嫌いということで家康の味方をして、戦後安芸広島49万石の大名となった。しかし家康から見たら豊臣恩顧の大名は目障り。難癖をつけて信州川中島4万石に改易してしまった。正則がこの地に流され、屋敷ができるまでこの寿泉院に仮寓していたらしい。ここから北東の高井野(高山村)に住んでからもたびたび来遊したという。碑は明治期に建てられた。

9:58
南のほうに何か堂があったが、近づかず。
墓地のある裏に回る。
10:00
墓地の奥、正面が堀直輝公霊廟
うしろは鎌田山。
有事のときはこの小山にこもるため、陣屋を麓に置いたのだろう。
広域農道「北信濃くだもの街道」は、この山をトンネルでくぐっている。
何度もくぐって菅平を経て東京に向かったが、すぐ近くに須坂藩の陣屋があったとは全く知らなかった。

奥田神社(赤印)と鎌田山

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