2024年2月27日火曜日

杉並の和田堀廟所と明大は陸軍火薬庫跡地

2月23日、杉並区競技ダンス大会が永福体育館であった。
京王線下高井戸駅から北へ8分、甲州街道(国道20号)、中央高速(首都高4号線)、玉川上水(跡)の3本の筋が重なる場所をすぎ、坂を下って神田川の手前にある。

永福体育館の東は広大な墓地をもつ築地本願寺和田堀廟所、さらに明大和泉キャンパスがある。はて、同じ場所に地名が3つあるのはなぜか。

今、このあたりの住所は永福1丁目で、和田堀はさらに北の善福寺川のあたりの地名だし、和泉は井の頭線の東側の地名である。

昔は(1932年の東京市拡大前までは)一帯を豊多摩郡和田堀町といい、和泉は合併前の村名(のち大字)だった。永福は永福寺村だったが合併して和田堀町大字永福寺、1932年に杉並区永福町となった。
そして永福町は1966年の住居表示で和泉町の一部(井の頭線の西)を編入して杉並区永福となった。ちなみに明大前で交差し京王線の北側にうつった井の頭線の永福町駅は北方の神田川を越えたところにある。

ダンスは午前、ラテン部門が早く敗退し、午後の15時からのスタンダード部門まで時間があった。勝ち残った人の踊りを見る気もせず、暇ですることもなかった。

この日、東京は雨、かつ最高気温4.0度というこの冬一番の寒さだったが、今後二度と来ないような気がしたので、傘をさして外に出た。
2024₋02₋23 13:06
本願寺の子院、真教寺のわき、ゆるやかな坂を上ると甲州街道と玉川上水跡に出る。坂の上に川があるというのは変な感覚だが、上水道というのはひとたび低いところに落ちれば先は上がれないから、ひたすら尾根を通った。このあたりで甲州街道と重なり、新宿淀橋浄水場まで続いていた。
13:09
上水あとの歩道を東に歩きながら北を見下ろせば、築地本願寺和田堀廟所の墓が見える。
谷中あたりの寺院墓地、あるいは都心の都営霊園と比べて、一区画が大きい。
13:11
和田堀廟所の入口に到着
となりは明治大学の武骨な校舎が迫るが、都内では仕方がない。
13:11
甲州街道に面した門徒会館は、トイレや線香販売などの売店、休憩所もそなえた巨大な機能的建物である。あたかも長屋門のようで、寺の総門に当たり、ここをくぐって墓域にはいる。
13:12
極楽橋の向こうが本堂
築地の本願寺とおなじく伊東忠太の設計であることがすぐ分かる。

当廟所は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する築地本願寺の分院である。
大正12年(1923)の関東大震災で築地の本願寺は、本殿の西南(いまの場外市場)に広がっていた57の子院とともに焼失した。区画整理が行われ、本殿はインド風の意匠で現地に復興されたが、本殿の西南にあった子院と墓地は移転が決まった。
ちょうど豊多摩郡和田堀町で陸軍省火薬庫跡地が払い下げられることになり、明治大学とともに取得、ここに墓地が移転した。

新しい12,000坪の公園墓地は富士も望まれた。
しかし1945年5月の空襲で築地から移転した木造瓦葺の旧本堂と瑞宝殿など建物はすべて焼失(皮肉にも都心の築地は空襲にあわなかった)、本堂は1953年に再建されたという。
13:16
本堂内部は、お彼岸のちょうど一か月前だが外と同様に誰もいなかった。
線香炉の脇に墓地の案内パンフレットがあった。
樋口一葉の墓があるという。
彼女は明治29年(1896)24歳で死去しているから、築地に葬られたのだろう。
墓地の移転というのは墓石だけでなく骨あるいは還ったとされる土なども運ぶのだろうか?

せっかくなので一葉の墓を探してみる。
メイン通路に案内柱が立っていて「最初の通りを右に折れて6番目」とあった。
13:22
先祖代々之墓 樋口氏
と、確かに書いてあるが、何も案内板がない。
大きな区画が多い和田堀では小さいほうだった。他と違って新しい花が供えられているが、それだけでは一葉の墓という証拠にはならならない。
傘をさしたまま狭い墓石の間を失礼して裏に回ると葬られた人の名が刻んであった。
13:24
智相院釈妙葉信女 明治二十九年十一月廿三日
俗名はなかったが、戒名に「葉」の文字、帰宅後に死亡日を確認して間違いない。
彼女は母と妹がいて戸主であったが、家の墓はもともと築地本願寺であったのだろうか。

当時は築地御坊とでも呼ばれていたか?
そもそも築地というのは、明暦の大火で東日本橋から移転を余儀なくされた浜町御坊のために、沖に地面を築いたことから生まれた地名。埋め立てに貢献した佃島の門徒たちの墓もあるそうだが、見損ねた。

代わりにパンフレットにあった笠置シズ子の墓を訪ねた。
13:30
こちらははっきり「俗名笠置シズ子(亀井静子)」と彫ってある。
昭和六十年三月三十日没行年七十二才
戒名は寂静院釈尼流唱
静、唱という文字が入っている。
なぜか墓石は横を向き、俗名のある側面が通路からよく見えるように立つ。

他にも古賀政男、服部良一、海音寺潮五郎、佐藤栄作、瀬島龍三、藤原銀次郎、中村汀女、九条武子らの墓もあるようだが、あまりにも寒くて探す気は起きなかった。
13:35
帰り際、ひときわ大きな墓があった。辻家墓所とある。
正面の大きな墓石は戒名だけなので、裏に回ると辻嘉六とあった。
大正から昭和の実業家、児玉源太郎、原敬らの知遇を得、立憲政友会系大物政治家と密接な関係をもち、政界のフィクサー、黒幕と言われた人。
目を引いたのは大きな二基の墓石に「家来之墓」とあったこと。
「家来」とは久しぶりに聞く言葉だが、墓石に彫るような文字かな?
13:37
この墓も大きいが、寒くて誰の墓か見る元気もなかった。
向こうに都立永福学園(養護学校)の校舎が見えた。

どの墓も新しいのに広い。中には大名家のような墓所もある。
改めて雨に濡れたパンフレット下半分の墓地・納骨堂の案内をみた。
1メートル x 1メートルで450万円か。
驚くのは室内の仏壇型の納骨墓でも高いのは1000万円もすること。年次冥加は6万円。
冥加というのは、本来、神仏から受ける加護のことである。
それを受けるために必要なお金ということか。
それなら冥加金と書けばいいが、暴力団を連想するか。(これも本来は営業許可を得るため幕府、藩などに払った税金のようなもの)
墓地では管理料というのが適切だろう。

寒かったがここまで来たついでに隣の明治大学も覗いてみた。
13:42
井の頭線の駒場に住んでいた頃、よく明大前で京王線に乗り換えた。
当時、駒場東大前から比べると「明大前」というのはちっとも「前」ではないと思ったものだ。しかし初めて来てみれば、ホームから校舎が見えないだけで、改札を出て甲州街道の歩道橋を渡れば正門だから「明大前」という駅名は正当であることがわかった。

13:44
いまや大学にはなくてはならないコンビニ(ファミリーマート)が向こうに見えた。

創立者3人のレリーフがあった。早稲田、慶応と違いあまり有名な方がたではない。

明治大学もやはり関東大震災で本願寺同様、駿河台の校舎が焼失、もともと狭かったため郊外への移転を決定、この陸軍火薬庫跡地を取得した。
和泉キャンパスは予科の校舎が建てられ、その流れか戦後は各学部1年生のキャンパスとなったが、その後工学部、農学部は駿河台、生田に移転して、いまは文系5学部(法・商・政経・文・経営)教養課程のキャンパスとなっている。
13:44
最高気温4度の日、体は芯まで冷えた。しかし夕方から始まったスタンダード部門(ワルツ、タンゴ、スローフォクストロット)は21組中6位に入賞し、ラテン部門の雪辱を果たした。


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