2024年3月31日日曜日

富岡八幡2 大相撲とのかかわり、宮司殺人事件

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

夕方、すべて競技が終わってから20年ぶりに富岡八幡宮に来た。
・伊能忠敬像をみて老いてからの人生の重要さを思い、
・神輿庫のなかの巨大な一宮神輿、二宮神輿を覗いて、深川祭りの盛大さを想像した。
・また天皇陛下御野立所の碑を見て、大戦末期に昭和天皇が密かに富岡八幡に立たれたことを知った。(以上は前のブログ)
前のブログに書いた3つは大鳥居から入って参道の左側に順にあるが、右側にはまず大関力士碑が木立の中に目立つ。
17:33
神輿庫のむかいの大関力士碑。
中央の石柱が一番目立つが、これは表札のようなもの。大事なのは後ろの黒っぽい石碑2つ。

この2つの石は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたもの。あとで述べる横綱力士碑を建てる際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石だったが、なぜか使われないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものらしい。

1983年、富岡八幡宮司である富岡興永氏の発案のもと、横綱になれず大関で終わった力士の名を刻んだ。江戸勧進相撲で初めて木版刷りで発行された一枚番付である1757年(宝暦7年)10月のものに大関として記されている雪見山堅太夫を初代とし、最近の豪栄道(2020年引退)まで、116人の歴代大関の四股名と出身地が彫り込まれている。

なぜ富岡八幡宮かというと、江戸勧進相撲発祥(復活?)の地といわれるからである。
江戸時代初期、相撲興業は トラブルが多くしばしば禁止された。しかし、5代将軍綱吉の11684年に勧進相撲が許された。勧進というのは寺社が建築修復資金を得るためという名目だったからである(実際は営利目的)。その時、開催されたのが富岡八幡宮の境内だった。

その後、蔵前八幡や神田明神などでも行われたが、富岡八幡宮でしばしば開かれ(31回開催)富岡八幡宮と相撲はかなり近いものだった。しかし天保4年以降は本所回向院で開催されることとなり今の大相撲につながっていく。
17:35
本殿は一段高いところにある。
ここは砂州すなわち平地だったわけで、一帯の水はけをよくするため、周囲を掘ってその土を盛ったのだろうか。
冨岡の岡はこの盛り土だろうか?

1627年創建、昔は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれていた。
宮司の姓は富岡であるが、もともと別当寺の永代寺が明治維新で廃寺となったとき、住職の第16代周徹法印が富岡姓の神主(=宮司)になったという。いつから富岡八幡になったか知らないが、盛り土の慶賀名→八幡名→宮司の姓、かもしれない。
17:35
本殿は震災、戦災でやられたから、今の本殿は1956年の鉄筋コンクリート製である。

20年前、初めて富岡八幡に来るまで伊能忠敬像や大関・横綱力士碑は知らなかった。私の勝手なイメージは深川祭りと、なぜか富くじだった。たぶんに富岡の語感から来たものである。

江戸時代の富くじは、本来寺社の修復費用をねん出するためであり、興行を許されたのは寺社のみで、谷中の感應寺(今の天王寺のところにあった)、目黒不動の瀧泉寺、湯島天神は「江戸の三富」と言われ、白山権現、根津権現など他の寺社も興行元として知られるが、富岡八幡は知られておらず私の勘違いである。
17:36
資料館は400年記念事業整備工事のため休館

本殿の右(東)が渡り廊下の下をくぐれるようになっていて裏のほうにまわる。裏参道である。
17:37
横綱力士碑
こちらは当然のことながら表参道の大関力士碑より古い。12代横綱・陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成した。
タイトルが揮ごうされた正面の巨石の裏に歴代横綱の名が刻んである。初代横綱は明石志賀之助とされるが生没年が不明で実在かどうかも分かっていない。実在がはっきりしているのは三代丸山権太左衛門(1713- 1749)からである。
石の背面は初代若乃花で埋まったため、新たに石を2つ用意して両脇に置き、現在も刻んでいる。

本来はこれだけで良いと思うが、他にも突っ込みたくなる石碑がいろいろある。

まず力士碑の前の両側の石に力士がひとりずつ描かれている。これは安政4年(1857)の陣幕と不知火(第11代横綱、しこ名通り肥後出身、土俵入りが美しかった)の対戦を表す。陣幕とは明治33年に建立しようとした本人である。この年彼は72才で自画像も彫ってある。発起人とはいえ、ずいぶん自己顕示したものだ。
(陣幕の名は北の富士、千代の富士も名乗ったが部屋名ではなく年寄名跡であり、二人とも九重部屋にいた)

また、これらの手前にもっと目立つ「出羽海一門友愛之碑」がある。いくら野球の巨人のような名門とはいえ、これも彼らの部屋の庭にでも建てるべきだと思う。

二つの門柱みたいなものも「魚かし」と書いてあるし。スポンサーなら後ろにひっそり書いておけばカッコいいのに、ギャグのようである。

「超五十連勝力士碑」というのは、揮毫される石碑のタイトルとして安直でないか?意味は分かりすぎるくらいよく分かるが。
17:38
横綱力士碑の裏は空き地。
都会では森にしておくわけに行かない。

東のほうに行くと木立の中に赤い鳥居が並んでいた。
これは稲荷だろう。正面にまわってみる。
17:40
当たった。永昌五社稲荷神社というらしい。
近隣の稲荷五社が合祀されたものらしいが、永昌の意味は知らない。
右となりは合末社(花本社・祖霊社・天満天神社・聖徳太子社・住吉神社・野見宿祢社・車祈社・客神社)の建物。屋根が一つの長屋風社殿。

稲荷の前は池。池の中島に祠。
これは弁天だろう。
17:41
当たった。七渡弁天社。
これは(も?)富岡八幡創建以前から近くにあったらしい。
池には大きな太った錦鯉がゆらゆら泳いでいる。
見れば奉納されたものらしく、奉納者が書いてある。
17:42
錦鯉奉納者には出羽海一門友愛会のほか白鵬、稀勢の里の名が見える。
一匹いくらなんだろう?
となりは現金の奉納者。八万円から二千円まで名札がある。

名簿板から後ろを振り向くと、木立の中に民家のような建物があった。
表札に富岡とある。
敷地内とはいえ、ひっそりとした一般民家のように見えるので写真を撮るのは憚れた。

深川八幡の別当寺が永代寺であり、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈で永代寺が廃寺となり、住職が深川八幡の宮司になったことは前に書いた。

すなわち16代住職・周徹イコール初代宮司・富岡有永(1838年 - 1895年)である。神仏混交時代は別当寺の住職が神社も管理していたから、初代宮司ではなく16代宮司と名乗ったのかもしれない。
以後
17代 富岡宣永 16代の養子。旧姓森
18代 富岡盛彦 17代の娘婿。旧姓沢渡
 戦後、神社本庁の設立に奔走。現在の社殿を造営、神社本庁事務総長
19代 富岡興永 18代の二男
 1994年体調を崩し退任、息子に宮司を譲る。
20代 富岡茂永 19代の長男
 1995年に宮司就任も金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題となり、2001年宮司を解任され、先代の興永が宮司として復帰する。しかし2010年またもや体調を崩し、2012年禰宜をしていた19代の長女つまり20代の姉・富岡長子が宮司代務者に就任。宮司昇格を神社本庁に要望したが認められず、2017年9月富岡八幡は神社本庁から離脱した。
21代 富岡長子 2017年9月就任

さて、多額の退職金をもらい年金も仕送りされて福岡県宗像市(八幡の本社・宇佐神宮がある)に移り住み、自家用船を所有して釣り三昧の生活を送っていた20代富岡茂永は2017年6月、東京に戻り、長子を脅迫、そして2017年12月、境内北東の通用門付近で待ち伏せし、21代富岡長子と運転手を日本刀で襲い、長子は死亡、運転手は重傷。茂永は妻を殺害した後に自殺した。

当時ニュースで現場が映され、一度だけ行った富岡八幡の境内をあちこち想像したことを思い出す。

神社らしくないスキャンダルを思いながら歩くと、神社らしくない洋風建物があった。
17:44
社務所と婚儀殿

境内には21代が住んでいた洋館があったらしいが殺害された後、2018年取り壊されたという。横綱力士碑の裏に空き地があったが、どの場所かは知らない。

まだ20分くらいしか経っていないが私の見物らしく早々に退出した。
最後に境内図を見ようと探した。
17:46
境内案内は電光掲示のタッチパネルになっていた。
20年ぶりだったから、次は20年後だろうか。
もう来ないかもしれないな。


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2024年3月27日水曜日

富岡八幡宮、伊能忠敬、佐川急便と一宮神輿

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

昼休みに深川不動を見物した。
夕方、すべて競技が終わってからまだ明るかったので富岡八幡宮に来た。深川不動同様2004年以来、20年ぶり。
2024₋03₋17 17:24
西の鳥居
このあたり現在は民家があるが、かつては西の永代寺と一体の敷地だった。永代寺が廃寺となり深川不動ができてからも、深川公園として広かったが、いまは江東区富岡出張所など建物が多く不動堂との一体感がない。
どうせなら南の永代通りに面した大鳥居から入ってみる。

17:27
富岡八幡は東京10社の一つ。
もともと天皇が祭祀の折に勅使を派遣する神社を勅祭社と呼び、畿内に22社あったが、東京遷都のあと、関東であらたに12社を選び准勅祭社とした。そのうち埼玉の鷲宮神社、府中の大國魂神社を除いた10社を東京10社という。これは以前書いた。

富岡八幡は1627年創建。多くの神社が頼朝ゆかり、役行者ゆかりとか古い創建年号を誇るが、このくらいが本当らしくて良い。当時は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれた。
八幡神を崇敬する幕府の庇護を受け発展、江戸最大の八幡社となった。

鳥居を入ってすぐ左に伊能忠敬の像がある。
17:28
2001年建立だから前回見た時はできたばかりだったか。
建立と同時に世界測地系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」が横(写真左)に設置されたが見逃した。

像は低いところにあるためか、その歩いているポーズによるものか、あまり格好良くない。

1745年、名主・酒造家の二男として今の千葉県九十九里町で生まれ、17歳のとき香取郡佐原の名主で酒造家・伊能家に婿入りした。
伊能家の事業を発展させ、佐原の名主たちを監視する村方後見の役にもついていたが、長男が成年してからは、隠居したいと思うようになった。
暦学と天文学に興味を持ち、ようやく隠居を認められた寛政7年(1795)、50歳の忠敬は江戸へ出て、深川黒江町(今の門前仲町)に家を構えた。
この年、忠敬は高橋至時の弟子となった。
師匠の至時は19歳も若かったが、昔の中国の「授時暦」が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからという。のちにシーボルト事件で獄死した高橋景保の父である。

当時、高橋らがいた幕府天文方の観測所、暦局は浅草にあったが、1782年に牛込袋町(奇しくも先日行った神楽坂、日本文芸クラブ会館跡)から移ってきたものである。

忠敬は寝る間も惜しみ天体観測したり測量の勉強をした。暦をより正確なものにするには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要である。地球の大きさも緯度1度に対する距離を正確に出す必要があるため、忠敬は江戸から蝦夷までの距離を測ろうとした。1800年、幕府からの許可を得て出発する。
以後、全部で10回の測量が行われてるが、その都度、近くの富岡八幡に無事成功を祈ったということで、ここに銅像が立った。
第八次(九州)までは彼自身も歩いていき、第九次(伊豆諸島)だけは弟子に任せ、再び自ら歩いた第十次測量(江戸府内)のときは71歳になっていた。

銅像は測量棒でも持って遠くを見つめているポーズなどのほうが決まると思うが、やはりすたすた歩いている姿のほうが彼にふさわしいのかもしれない。

それにしても現代、年をとっても歩ける人は多いだろうが、国内トップクラスの勉学を続けることは相当困難で、佐原時代の業績とともに、偉人という言葉がふさわしい。

忠敬像の隣には、中が見える建物がある。
神輿庫
2基入っていたがとにかく巨大。
左が御本社一の宮神輿。高さは4メートルを優に超え、かつぎ棒を含めると4.5トン。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンドをはじめ、装飾の各所に宝石を配している。「日本一の黄金神輿」とも呼ばれ、1991年、佐川急便会長だった佐川清氏によって奉納された。
右が少し小さい二の宮神輿。重さ2トン。1997年奉納。

富岡八幡と言えば、赤坂・日枝神社の山王祭り、神田明神の神田祭りとともに江戸三大祭りの一つ、深川祭りである。8月の暑い盛り、神輿渡御に水をかけるので水かけ祭りともいう。

明暦の大火(1657)のあと、深川は開発が一気にすすみ、木場や問屋の集中する有力な町に成長した。経済力で日本橋に迫る江戸第二の賑わいとなり、1698年に永代橋が架橋され、また近くに隠居した紀伊国屋文左衛門が3基の黄金の神輿を奉納し(社伝?)、祭礼は大イベントとなった。1807年(文化4年8月19日)に永代橋が崩落し死傷者・行方不明者合わせると1400人を超える大惨事となったのは、深川祭りを見物するために渡ろうとした人々である。

紀文の黄金の大神輿は明治後も存在したが、各氏子町内の神輿とともに関東大震災で焼失。
1991年の大神輿はその代わりで、佐川会長は現代の紀伊国屋文左衛門といえる。
しかし4.5トンと言えば持ち上げるだけで一人20キロとしても225人、練り歩くなら何人必要か分からない。
実際、因縁の永代橋から陸あげされ、富岡八幡の大鳥居前で行なわれた初担ぎには3000人が参加し、みごとに担ぎあげたまではよかったが、あまりに大きく重すぎたため渡御どころではなくなり、これ以降は展示だけになった。
一之宮神輿、初担ぎ(冨岡八幡公式サイトから)
大鳥居と比較すると大きさが分かる。
これだけ大きいと全員が同じ方向に動くのが難しく、それ以前に物理的に方向転換ができない。

いっぽう、1997年奉納、重さ半分の二の宮神輿は3年に一度の本祭の翌年、陰祭りに氏子各町内を渡御する。といっても担ぎ棒は丸太6本、長距離は重すぎるため、氏子町内までトラックで運び、そこで担いでリレーするらしい。
二ノ宮神輿
(八幡公式サイトから)
ちなみに本祭は八幡宮の御鳳輦が渡御し(トラックに乗せ70キロ)、翌日は各氏子町内の大人神輿53~55基が勢ぞろいして連合渡御(氏子町内一周8キロ)が行われる。朝7:30から先頭が大鳥居前をスタートし、15:30最後尾到着予定まで1日かけ、水を浴びながら練り歩く。よくニュースになるイベントである。
本祭の翌年は陰祭りで、二の宮神輿がまわり、
本祭の前年は子ども神輿30数基が永代通りの一部区間を巡る。

各氏子町内の神輿は大小合わせて120基ほどあり、こちらは毎年、各町内でまわる。

以上ネットで知った。
深川祭りのサイトは非常に多いが、知りたい情報が少なく、ここに書いたことに納得していない。実際今度見に行って調べようと思う。

ちなみに昨年2023年がコロナ後の久しぶりの水かけ本祭だったから、今年は陰祭りか。
2023連合神輿ルート

巨大な神輿が入っている神輿倉のとなり、手水舎とのあいだに「天皇陛下御野立所」という石碑がある。
明治、大正、昭和、上皇、今上と、陛下が行幸した神社は全国に多数あり、こういう石碑はあちこちにある。しかしここの昭和天皇行幸の記念碑はちょっと違う。
17:34
天皇陛下御野立所碑の横の説明板

昭和19年11月から帝都空襲が始まり、以後昭和天皇は外出できなくなった。しかし20年3月10日の大空襲をうけ陛下は被災地を視察したいと希望された。 軍は天皇の戦意が揺らぐことも心配して強く反対したが、天皇が固執し、3月18日、1時間だけ、御料車から天皇旗を外し、天皇と分からぬよう沿道の警護もなしに富岡八幡まできた。そして境内に用意された粗末な机で被災状況の説明を受けたという。

終戦の8月15日は江戸時代を通して富岡八幡の例大祭の日であるから、終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
と銅板の説明の最後に書いてあった。

戦後初の本祭りである昭和23年、深川佐賀町の神輿が早朝二重橋前に渡御し皇居を拝して深川の復興状況を奏上したのは、戦争末期の天皇行幸へのお礼もあったとされる。

そして2003年の祭礼にも巨大な二の宮神輿が東京駅の行幸通りを渡御して皇居の前で拝礼した。これは江戸開府400年を記念したものでもあったが、終戦間近の昭和天皇深川巡幸への感謝もこめたとされる。
(鳥居前から永代橋を渡る永代通りをまっすぐ行くと大手門だが、東京駅正面からの行幸通りは坂下門近くに行く)

以上、参道の右側で目を止めたものについて書いた。
富岡八幡は思ったより見るものが多い。
(続く)





2024年3月24日日曜日

門前仲町の門前は深川不動ではなく永代寺

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

午前中のラテン種目シニアの部は5組しかいなくて、大した顔ぶれじゃなく、練習の手ごたえもあったので優勝すると思ったら3位に終わった。自分と他人(審査員5人)の評価が違うことはいつものことだ。

午後はスタンダード種目だが、負けた時は会場に居たくないこともあり、昼休みに外に出た。地下鉄門前仲町のほうに歩き、深川不動にいった。
2024-03-17  12:59
成田山 深川不動堂

地下鉄東西線の門前仲町に初めて来たのは2003年。
池袋のダンスパーティでとても上手なモエギさんという方と知り合った。彼女は門前仲町駅の南のほうにある古石場文化センターでサークル練習会やパーティーを主催していた。まだ私は競技をする前で、ダンスは下手だったがはるばる埼玉から電車を4本も乗り継ぎ何回かやってきた。

その何回目だったか、2004年4月、パーティのあと初めて駅の北側にある成田山深川不動と富岡八幡を一人で見物した。両者は並んでいるから、門前仲町の「門前」はどちらの門前だろう、と考えた。
13:01
深川不動の参道の両脇には参拝客相手の店が並ぶ。
きんつば、ベビーカステラ、せんべい、仏具、揚げまんじゅう、うなぎ、

東隣りの富岡八幡の門前にはこのような商店街はない。何だか分からない人や物がご神体となる神社と比べ、はっきり人の形をした仏像のほうが拝み甲斐があるのか、参拝客も圧倒的にお不動様のほうが多い。
だから、門前仲町の門前は深川不動堂のようにみえる。

しかし、深川不動は明治以降である。昔はここに永代寺という寺があり、このあたりは隅田川の河口で中洲のような、水路に囲まれた島になっていて寺名から永代島と名付けられ、それが永代橋の名のもとになったことを以前ブログに書いた。

ブログ 

つまり、門前仲町の門前は富岡八幡と永代寺のどちらかである。
昔の地図を見てみる。
深川は江東だが、東京市15区の一つだから渋谷や新宿などと比べると古い地図が多くある。
昭和15年(1940)
深川不動、富岡八幡一帯は公園地であり、今と同じ富岡一丁目である。
都電の駅は「不動前」。西のほう、永代通りと清澄通りの交差点周辺が「門前仲町」となっている。
明治40年(1907)
東の今の富岡一丁目は、富岡門前東仲町、富岡門前町、また西のほうは富岡門前山本町、門前仲町となっている。
つまり、西の深川不動を越えても富岡門前山本町となっていて、富岡八幡の存在が大きい。深川不動はできたばかりだから地名にはなりにくい。
明治11年(1878)
今の永代通りの南側に「門前仲町」があるが、どちらの門前かこれでは分からない。

深川不動ができる前は永代寺があった。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の流れで廃寺となったが、大きな寺だった。
その頃の地図を見る。
明治4年(1871)
大栄山金剛神院永代寺がある。
しかし門前仲町という地名はなく、富岡門前町だけである、
つまり、門前は富岡八幡の門前ということだ。

永代寺は高野山真言宗の寺院で1626年に建てられたが、ほぼ同時期にできた富岡八幡の別当寺だった。別当寺というのは神社を管理する寺ということだが、神仏混交時代は宮司より僧のほうが偉かった。

念のためもう少し前、幕末の地図を見る。
嘉永5年(尾張屋版、1852)
ここにははっきりと永代寺門前町、永代寺門前仲町とある。
つまり門前仲町は本来、永代寺門前仲町で、永代寺がなくなったために富岡門前仲町になったようだ。

さて、永代寺が廃寺になってから明治29年、11あった塔頭の一つ、吉祥院(寺内にあったらしい?)が名を継ぎ、いまの参道途中、右側の小さな寺として永代寺を名乗っている。

永代寺の名は復興したが、今歩く参道はもちろん成田山深川不動のものである。
深川不動は、江戸中期の1703年、古くから信仰篤かった成田山新勝寺の本尊・不動明王像を江戸でも拝めるように、はるばる運んできて同じ真言宗の深川永代寺の境内で出張公開すなわち「出開帳」したことに始まる。出開帳はしばしば行われたという。

そして永代寺がなくなったあと、その跡地(つまり出開帳を行ったゆかりの地)に、1881年、不動明王の分霊が正式に成田から遷座され、成田山東京別院となった。
13:03
参道の突き当りは本堂だが旧本堂。
本堂は戦災で焼失したため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築したという。江東区内最古の木造建築といわれる。
前回、2004年来た時と様子が違うと思ったら、平成24年(2012)に新本堂が竣工したという。前回は本堂(旧本堂)の後ろにあった内仏殿(2002年完成)を見学したのだが、当然、入口が違っていて、旧本堂右側から靴を脱いで入る。

入ると大きな不動明王の木像があり、今もこちらが本堂のような雰囲気。
おねがい不動尊
(撮影禁止なので深川不動の公式サイトから拝借。以下同様)
熊本天草に自生していた樹齢5百年を超える楠を使用、身の丈1丈8尺、国内最大級の木造不動尊像。

不動尊の裏を通って奥に行くと左奥の新本堂では大人数の人が祈祷を受けていた。そちらに秘仏の不動明王はあるらしい。

それを横目に枯れ川の橋をわたり、政廣不動尊などいろんな仏像を見てから内仏殿に入る。
まずエレベーターで内仏殿4階に上がる。
日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」(中島千波)があった。
見学者は誰もいなかった。
3階は寺の事務所で非公開
2階に降りる。
四国八十八カ所巡拝所
平成10年に巡礼団を結成、3年かけて集めた四国八十八カ所霊場の砂を納めた部屋。
一つ一つ見れば、四国遍路をしたことになる。
みまもり不動尊
 開創320年記念事業(2022)で作られたという。

2004年と同じようにゆっくり見たかったが、午後のスタンダード種目があるため急いで降り、旧本堂から外に出た。
13:15
時計を見れば内部は10分くらいしか見なかった。
入場料を取ってもおかしくないのに、無料であれだけの美術品を見学できるのは貴重である。

左の新本堂の壁は梵字がデザインされていた。
前回来たときは内仏殿の後ろに首都高が目立った。
今でも少し見えるが、当時は新本堂がなかったから余計目についたのだろう。

午後のスタンダード種目は決勝ラウンドまで行ったが、シニアの部にもかかわらず19組中6位だった。
2004年初めてここに来たときから、もう少し真面目に取り組んでいたら、もっと高いレベルで踊っていたことだろう。




2024年3月20日水曜日

神楽坂2 日本出版クラブ会館「洋書の森」と翻訳

3月11日、月曜。暇なので神楽坂に行ってみた。

自転車は坂を上り下りするからやめて、文京区コミニティバス「Bーぐる」でいく。のんびり座って景色を見ながら後楽園を過ぎハローワーク飯田橋の横で降りた。100円。

飯田橋駅東口の巨大交差点から大久保通りの坂道を上がり筑土八幡、赤城神社をみて神楽坂に来た。
2024₋03₋11 11:57
不動産屋の壁に貼ってあった神楽坂文芸地図

赤城神社の前から神楽坂通りを、いつもと逆方向に飯田橋駅に向かって下っていく。このあたりは来たことがなかったが、大久保通りを越えると見覚えがある。
少し上り坂になり、毘沙門天の善国寺の手前に何回か通った坂道があった。地蔵坂である。

かつて坂を上がった右に日本出版クラブ会館があった。
12:05
日本出版クラブ会館の跡地
マンションになっていた。

日本出版クラブは「出版界の総親和」という精神で、1953年に設立され、57年に会館が落成した。近くに旺文社、新潮社があり、かつて文人が居を構えた神楽坂はその地に相応しい。
日本出版クラブ会館は一階にレストラン「ローズルーム」があり、結婚式、宴会、会議もできた。
そして一階奥に2007年から2018年7月まで「洋書の森」ライブラリーがあった。日本での版権が決まってない洋書を集めた唯一の図書室だった。

洋書の森を知ったのは、2012年2月ダイヤモンド社から依頼された「免疫の反逆」という翻訳本の印刷前ゲラチェックだった。アレルギーと食べ物の関係の話である。翻訳というのは英語力というよりその本の背景知識のほうが重要であり、いくら英語が達者でもライフサイエンスの分野に詳しくないと日本語の選び方におかしなところが出てくる。
1冊分のチェックを終わってあとがきを読んでいると、訳者は「洋書の森」でその原書と出会ったと書いてあった。

洋書の森について調べると、外国出版社の日本エージェントが、日本の出版社に紹介したものの、翻訳出版に至らなかった原書を寄付してできたもののようだった。つまり孤児のような洋書の集合体である。

当時、2007年から趣味で始めた翻訳は5冊出版し、6冊目の「サルファ剤」を翻訳していた。初期の「新薬誕生」、「Diseases]はアメリカに学会出張したとき本屋で見つけたものだった。他はアマゾンで書評を読んで見つけたような気がするが、やはり実物を手に取ってみたい。しかし紀伊国屋、丸善などの洋書売り場では翻訳したいような本はなかった。

「洋書の森」では洋書の現物が手に取れ、無料で借りだすことができる。
さらに良いことは、翻訳権がフリーであることがはっきりしいることである。今まで翻訳したいという洋書が見つかっても、すでに日本の出版社が翻訳権を買っていて誰かが翻訳しているという心配があった。実際、翻訳したかった輸血の歴史「Blood Work: A Tale of Medicine and Murder」は知り合いの出版社に調べてもらったら、すでに日本での版権が某出版社に売れていた。
また、翻訳権を買うための海外出版社との交渉は個人では不可能で、日本の出版社に頼むことになる。「モーツァルトのむくみ」のときは版権を持つアメリカ内科学会と連絡を取るのに苦労した。
しかしここにある洋書は代理店がはっきりしているし、かつ誰も手を出さなかった本ばかりで、そういうもろもろの心配がない。

こうして2012年3月、はるばる埼玉からここ神楽坂の日本出版クラブ会館にやってきた。そして見つけたのが「The Fourth World 」である。

翻訳にもっとも必要なのは、専門家レベルの背景知識であると書いた。そのためそれまで翻訳した6冊は、すべて医学、化学の歴史などであった。しかしThe Fourth World はのちに「人類と世界地図の2000年史」と副題を付けたほど、世界史と地理の話である。唯一の日本版を出版するからには、日本で一番の翻訳をしなくては原書の版権者、原著者に申し訳ない。それができるかどうか少し不安もあったが、たくさん出てくる古地図はとても魅力的で、どうしても翻訳して出版したかった。好きなことなら何とかなるという自信もあった。

当時、私は千駄木の家を買い都心への引っ越しを決めていた。
そして31年間、製薬会社の研究所に勤め、イオンチャネル創薬に関しては国内第一人者の自信があった(極めて狭い分野、対象、趣味なら誰でもそういうものはあるものだ)が、転居と同時にその飯のタネを捨て転職し、違う人生にトライすることを考えていた。翻訳業はその一つで、そのためにはジャンルが広いほうが良い。専門外の「The Fourth World」はその一歩にもなると考えた。

こうして原書を借りて、後日返しに行ったから、神楽坂の「洋書の森」には少なくとも2回は来ている。
「洋書の森」では多くの会員がいて、1,2か月に一度、プロの翻訳家を招いて会館のレストランでセミナーも開かれたようだが、私は一度も行かなかった。そのうち、「洋書の森」は日本出版クラブ会館とともに2018年11月に神保町に移転したことをメールマガジンで知る。

実際に来てみると、跡地はマンションとなり跡形もなかった。
懐かしさから、もう一度見たかったので昔の景色をグーグルストリートビューで探してみた。
2009年11月
東京都新宿区袋町6番地
左:日本出版クラブ会館
右:ユネスコ・アジア文化センター
2024₋03₋11 12:06
マンション入り口に銀杏の木だけ残っていた。
説明板を読めば、樹齢250年以上、新宿区の保護樹木である。戦時中周りが焼け野原になったのに生き残った。焦土に戻った住民たちがこれを目印にして集まったという。

2009年のグーグルストリートビューには銀杏の前に別の説明板がある。記憶では確か江戸時代に幕府天文方の天体観測所(新暦調御用所)がこの地に建てられたという内容だったと思う。マンションになった現在、その板は見当たらなかった。

道路を挟んで日本出版クラブ会館の前は、浄土宗光照寺。
12:08
境内は思ったより広い。
この一帯は牛込台地の突端に当たり、戦国時代、牛込城があったようだ。

牛込氏は、上野国赤城山麓にいた大胡氏を祖とする。一族の大胡重行が北条氏康の家臣として招かれ武蔵国牛込に移り、江戸氏衰退後の牛込郷・比々谷郷(日比谷)を領し、赤城神社を勧進したことは前のブログで書いた(社伝では重行の父・重治の代とされる)。重行の子である勝行の代に牛込と改姓した。北条滅亡後は家康に仕え、旗本として残った。墓はここではなく、新宿区弁天町9 宗参寺にあるようだ。

(よく考えたら牛込氏がいた時代は寺ではないのだからここに墓があるわけない)
代わりに大きな大名墓が目についた。
12:10
出羽松山藩主・酒井家墓所
井伊と並ぶ徳川譜代の名門・左衛門尉酒井家の庄内藩(鶴岡、15万石)から分家し、酒田の松山城に藩庁をおいた。2万五千石。

地蔵坂を戻り再び神楽坂通に出た。
12:15
日蓮宗・善國寺
神楽坂の目印にもなっている。寺の名前ではなく「毘沙門天」と呼ばれる。本殿の前に一対の狛犬ならぬ狛虎の像が置かれているらしいが、毘沙門天像同様、見たことがない。今回も境内に入らず、ランチの場所を探すため通り過ぎた。

平日というのに行列の店があり、近くに行くと中国語の若者グループが海鮮丼の店に並んでいた。それでも銀座や浅草と比べると外国人は少ないような気がする。
結局、善國寺前のとんかつ「さくら」に入った。ロース、メンチ、串カツ3点盛のランチ定食・税込み990円はお得感があった。ご飯キャベツみそ汁お替り自由のせいか、近くの理科大生らしき男子グループもいた。

千駄木、谷中と比べると店の数・種類、料理の質ともに神楽坂のほうが圧倒的に優れていると思った。店の家賃はこちらのほうが高い気がするが、客の多さと多数の店同士の競争によるものだろうか。

食後飯田橋駅に向かってぶらぶら歩いた。
西の路地に東京理科大の校舎が見えた。
13:15
洋書の森のさらに31年前、製薬会社に入る前に理科大の石毛徹夫氏を訪ねた。
1980年11月の就職試験で意気投合し、谷中から自転車で遊びに来たのである。確か神保町の古書店街をまわった帰りだったと思う。
合成化学の研究室の廊下の外は神楽坂の崖の壁が迫っていたから、建物を建て替えても分かるかと思ったが、今の校舎は周辺まで削られたようで何号館か全く分からない。
13:17
西に進むとクラシックな校舎があった。
古そうに見えるが、東京物理学校の木造校舎(明治39年)の外観を1991年に復元建設したもの。無料の近代科学資料館となっているが、月曜は休館日だった。

理科大の裏の高台にあがると若宮公園の先にThe Agnesというホテルの空き家があった。
13:21
理科大が購入し、2021年に閉館したらしい。
少子化の時代、どの大学も都心部のキャンパスを拡大する傾向にある。理科大も周辺で売り物が出れば積極的に買っているようだ。
隣のル・コワンベールはカヌレの店でお土産に買おうかと思ったがやめた。
13:23
外堀通りに降りると濠の向こうは千代田区の高層ビル。
13:23
こちらは理科大のビル
高校3年の頃、1回だけ買ってみた旺文社の大学受験ラジオ講座テキストだったか、高校図書館でみた受験雑誌だったか、その裏表紙に理科大の広告があった。外堀のほとりに並ぶ校舎群を千代田区側からうつした写真で、私の東京理科大神楽坂キャンパスのイメージはずっとこれだった。当時は最新のビルだったのだろうが、今はすべて建て替えられ、さらに高層のビルになっている。

・・・
2012年3月、洋書の森で見つけたThe Fourth World は、古代からの「世界地図」の変遷の物語である。すなわち、ギリシャローマに始まったヨーロッパ文明の知識人の「世界」の範囲が、地中海周辺からどうやってアフリカ、アジア、アメリカまで広がり、地球全体になっていったかを見ていく物語である。

その年の7月に学会で初めてヨーロッパに行き、バルセロナで地中海を見て対岸を想像したころから本格的に翻訳を始めた。しかし、8月から千駄木の家の問題が忙しくなり(リフォーム会社の選定、間取りなど打ち合わせ、そして業者の不正行為)、埼玉の家の売却の難航、転職活動も始まり、さらには健診で肺に影が見つかったりして、7割程度翻訳して中断した。

2013年4月、なんとか転居、転職。
2014年5月、分厚い本で売りにくいにもかかわらず中央公論新社が出版を決定。
11月、翻訳を始めるきっかけとなったファルマシア編集委員会のOBたちと神楽坂、夏目亭で食事会。「洋書の森」は立ち寄らなかったが。
2015年8月、「第4の大陸:人類と世界地図の2000年史」としてようやく出版。「洋書の森」の事務局に報告メールを出すと、会員へのメールマガジンで祝福、紹介してくれた。

この翻訳は今までより背景調査の時間を長く必要としたが、初期の「新薬誕生」の訳文を見たことがある東京化学同人の編集者・井野さんからは「ずいぶん上達しましたね」と褒められた。読書家で知られた出口治明・ライフネット生命会長が読売新聞(9/13)で、また東大の西洋史の樺山紘一名誉教授が日経新聞(9/27)読書欄で大きく取り上げてくれ、専門家好みの本に仕上がったが、売れ行きはいまひとつだった。

まだ翻訳自体はする体力知力がある。しかし出版社に紹介・説得できそうで(売れそうで)かつ自分が面白いと思う原書を探し出したいという元気が出てこない。結局、洋書を選び出せたのは、2012年3月神楽坂のThe Fourth World が最後となった。

もし翻訳を続けていたら、千駄木からは思ったより近いこともあり、頻繁に「洋書の森」に来て神楽坂が自分の庭のようになっていたに違いない。


前のブログ

第四の大陸--(2015-Aug-07出版)

2024年3月17日日曜日

神楽坂、筑土八幡の田村虎蔵と赤城神社

 3月11日、月曜、暇なので神楽坂に行ってみた。

今までは食事会など何か用事があったから時間正確に、電車で最寄りのJR飯田橋駅に行った。しかし今回は暇つぶしだから駅まで行って電車に乗る気はしない。家のすぐそばを文京区コミニティバス「Bーぐる」が1時間に3本通る。逆方向の駒込巣鴨の近くを周るから遠回りだけど時間は正確で100円で飯田橋までいく。のんびり座って景色を見ながら後楽園を過ぎハローワーク飯田橋の横で降りた。
11:21
飯田橋駅前交差点
千代田区、新宿区、文京区の境界点である。
駅前なのに横断歩道がない。しょうがないから歩道橋の階段を上がっていく。
上がったおかげで、いろんなものが見える。
11:22
神田川と目白通り
左が新宿区、右が文京区。
神田川は上流の印刷博物館のあたりまで、ほぼ東に流れていたのが、大曲で南に曲がってここに来る。そしてこの交差点で再び東に曲がり、水道橋方面に向かう。
横断歩道がないのは、道路が広いだけでなく川もあるため、歩行者は青信号のうちに渡り切れないからかもしれない。
11:23
左:文京区、向こう:千代田区、手前:新宿区
首都高も神田川に沿って曲がっている

ここは五差路で、外堀通りと目白通りが交差するところに大久保通りがぶつかる。写真右の道は目白通りで九段下に行く。地下は南北線、有楽町線、東西線、大江戸線が5本の道に沿って走っていて交通の要衝である。
このあたりは一般住宅がない。

大久保通りの坂道を神楽坂上に向かって上がっていく。
地図を見れば道路の向こうに寒泉精舎跡があるが知識がないので見に行かない。
11:27
東京新宿メディカルセンター
場所的に何か歴史ある病院かと思ったが、1952年設立の東京厚生年金病院である。
このあたりは津久戸町だが、昔はこの先の八幡と同じ文字の筑土町だったか。
病院は大きな交差点の角にある。
ここも五差路。
11:31
筑土八幡町交差点
ここはあまり有名でなく交通量も大してないが、道がやけに広い。
持ってきた地図は文京区コミニティーバスの路線図だったのだが、ぎりぎりこのあたりまで載っている。しかしこの文京区のほうから来る道路は描いてない。不自然なほど両側に大きなビルがないこともあり異常に広く見える。帰宅後調べたら新しい道だった。
工事中の都道・牛込小石川線 撮影2014、国土地理院
(右は後楽園と東京ドーム)

五差路に面して石段があった。
町名にもなっている筑土(つくど)八幡である。
11:32
神社には田村虎蔵先生顕彰碑もあるらしい。
旧居跡が近くにあるようだ。
11:33
境内に上がると田村の代表曲「まーさかり、かついで金太郎」の歌碑。
鳥取県に生まれ(1873- 1943)で東京音楽学校を出て多くの唱歌を作曲したと書いてある。
ん? 同じ唱歌の作曲家、岡野貞一(1878₋1941)も確か鳥取生まれで東京音楽学校である。調べたらなんと同じ鳥取市の鳥取高等小学校だった。
岡野が信州中野出身の高野辰之と組んで「故郷」「おぼろ月夜」「もみじ」など多くの名曲を作った(「故郷を作った男」猪瀬直樹)のに対し、田村と信州出身者との関係はどうだろう? そのうち調べたい。

田村は「浦島太郎」(むかしむかし浦島がー助けた亀に連れられて~)、「一寸法師」(指に足りない一寸法師、小さい体に大きな望み~)も作曲した。そういえば曲調が似ている。
大和田健樹作詞の鉄道唱歌は、第3集(東北編)を作曲している。
11:34
境内はそれほど広くないが周りにビルがないから空が広い。
筑土八幡は八幡社だから本社の宇佐八幡と同じく応神天皇とその母・神功皇后を祭神とする。宇佐八幡のある筑紫の土をここまでもってきてその上に建てたから筑土八幡というらしい。平安時代の創建というが、当時は日比谷の入り江から船で簡単に来れたのかもしれない。

帰宅後調べたら、歩いてきた津久戸町には、江戸時代初め平川(=昔の神田川)沿い、津久戸村の田安門に近くにあった津久戸神社が移転してきたという。となると筑土が筑紫宇佐の土というより、筑土も津久戸も単なる盛り土という意味かもしれない。

筑土八幡を出て、閑静な住宅地を歩く。
目黒や世田谷と違って大きな家はないが、江戸城から歩けるという昔からの住宅地の落ち着き、静かさがある。
白銀公園にぶつかり、昔は何だったのだろうと思うが説明板などなし。
やがて前方に赤城神社の鳥居の横が見えた。
11:43
赤城神社の手前、右は東京都教育庁神楽坂庁舎、赤城生涯学習館だが、昔は赤城小学校の敷地だったらしい。1945年空襲で焼失、翌年廃校した。

赤城神社に入っていく。
11:45
赤城神社
お宮参りをしている家族があった。
父母の親(赤ちゃんの祖父母)たちもにこにこしていた。

牛込の総鎮守である。
牛込というのは戦後新宿区になる前は牛込区というのがあったくらい広い範囲だが、氏子は西は早稲田鶴巻町、弁天町など、東は(筑土八幡との関係か)西五軒町まで。
由緒は、1300年、群馬・赤城山麓の大胡の豪族であった大胡重治が牛込に移住したとき、国から赤城神社の分霊を祀ったのが始まりらしい。当時はいまの早稲田鶴巻のほうにあったが、1460年に太田道潅が今の牛込見付附近(外堀の向こう?)に遷し、さらに1555年、大胡氏の末裔、牛込氏がいまの場所に遷したという。

1683年幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守とし、ここと日枝神社、神田明神の三社の祭礼では山車、練物が江戸城の竹橋から内堀の中に入り半蔵門から出ることを許したらしい。
と、神社公式サイトにあるが、本当なら日枝神田にはずいぶん知名度で差をつけられてしまった。
11:48
神社のすぐ横はマンション「パークコート神楽坂」。境内に配慮しておとなしい外観。隈研吾のようだと思ったが、果たしてそうだった。入り口は石段下。2階に同じ高さの境内から入れる赤城カフェがある。この一体感から神社の土地を借りて建てているようにも見える。帰宅後調べたら65年後にマンションは取り壊し、緑の森に戻す計画だという。土地は昔の赤城小学校の一部かもしれない。

狛犬が変わっていた。スフィンクスのようにおかっぱ頭で胸を張っている。アニメキャラクター的だが、加賀白山犬として江戸時代に流行した。現存するものは少ないらしいが、ここも最近作ったように見える。

鳥居を出れば、すぐ神楽坂通りにぶつかる。
11:53
赤城神社の参道と神楽坂通りの交差点には、東西線の神楽坂駅がある。
飯田橋駅から一駅分も離れている。ここまで来たことはない。
いつもと逆方向に神楽坂通を飯田橋方面に歩いていく。
11:57
ニューハウスという不動産屋
いったい神楽坂で住むにはいくらかかるのか、ちょっと見た。
もう引っ越すことはないけれど。
11:57
不動産屋の壁に絵地図が貼ってあった。
神楽坂文芸地図という。
初めて歩いてきた大久保通りから神楽坂にかけては、新潮社、旺文社があり、かつては田村虎蔵の他、竹久夢二、江戸川乱歩、尾崎紅葉、泉鏡花、柳家金語楼らが住んだ。
通ってきた白銀公園は、イソップ物語を翻訳した渡部温の屋敷跡らしい。

神楽坂と言えば、その優雅な名前にふさわしく、花街としても有名だったが、一歩路地を入ると閑静な家々が並ぶ。牛込は、かつて本郷、小石川と同様、山の手の住宅街だった。彼らを相手にした商店街が神楽坂で、山の手銀座と呼ばれた。しかし市電など交通の発達で銀座、日本橋、さらには関東大震災の後に発達した新宿まで出かける人も多くなり山の手銀座の賑わいは消えた。

(続く)

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