3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。
夕方、すべて競技が終わってから20年ぶりに富岡八幡宮に来た。
・伊能忠敬像をみて老いてからの人生の重要さを思い、
・神輿庫のなかの巨大な一宮神輿、二宮神輿を覗いて、深川祭りの盛大さを想像した。
・また天皇陛下御野立所の碑を見て、大戦末期に昭和天皇が密かに富岡八幡に立たれたことを知った。(以上は前のブログ)
前のブログに書いた3つは大鳥居から入って参道の左側に順にあるが、右側にはまず大関力士碑が木立の中に目立つ。
17:33
神輿庫のむかいの大関力士碑。
中央の石柱が一番目立つが、これは表札のようなもの。大事なのは後ろの黒っぽい石碑2つ。
この2つの石は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたもの。あとで述べる横綱力士碑を建てる際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石だったが、なぜか使われないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものらしい。
1983年、富岡八幡宮司である富岡興永氏の発案のもと、横綱になれず大関で終わった力士の名を刻んだ。江戸勧進相撲で初めて木版刷りで発行された一枚番付である1757年(宝暦7年)10月のものに大関として記されている雪見山堅太夫を初代とし、最近の豪栄道(2020年引退)まで、116人の歴代大関の四股名と出身地が彫り込まれている。
なぜ富岡八幡宮かというと、江戸勧進相撲発祥(復活?)の地といわれるからである。
江戸時代初期、相撲興業は トラブルが多くしばしば禁止された。しかし、5代将軍綱吉の11684年に勧進相撲が許された。勧進というのは寺社が建築修復資金を得るためという名目だったからである(実際は営利目的)。その時、開催されたのが富岡八幡宮の境内だった。
その後、蔵前八幡や神田明神などでも行われたが、富岡八幡宮でしばしば開かれ(31回開催)富岡八幡宮と相撲はかなり近いものだった。しかし天保4年以降は本所回向院で開催されることとなり今の大相撲につながっていく。
17:35
本殿は一段高いところにある。
ここは砂州すなわち平地だったわけで、一帯の水はけをよくするため、周囲を掘ってその土を盛ったのだろうか。
冨岡の岡はこの盛り土だろうか?
1627年創建、昔は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれていた。
宮司の姓は富岡であるが、もともと別当寺の永代寺が明治維新で廃寺となったとき、住職の第16代周徹法印が富岡姓の神主(=宮司)になったという。いつから富岡八幡になったか知らないが、盛り土の慶賀名→八幡名→宮司の姓、かもしれない。
17:35
本殿は震災、戦災でやられたから、今の本殿は1956年の鉄筋コンクリート製である。
20年前、初めて富岡八幡に来るまで伊能忠敬像や大関・横綱力士碑は知らなかった。私の勝手なイメージは深川祭りと、なぜか富くじだった。たぶんに富岡の語感から来たものである。
江戸時代の富くじは、本来寺社の修復費用をねん出するためであり、興行を許されたのは寺社のみで、谷中の感應寺(今の天王寺のところにあった)、目黒不動の瀧泉寺、湯島天神は「江戸の三富」と言われ、白山権現、根津権現など他の寺社も興行元として知られるが、富岡八幡は知られておらず私の勘違いである。
17:36
資料館は400年記念事業整備工事のため休館
17:37
横綱力士碑
こちらは当然のことながら表参道の大関力士碑より古い。12代横綱・陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成した。タイトルが揮ごうされた正面の巨石の裏に歴代横綱の名が刻んである。初代横綱は明石志賀之助とされるが生没年が不明で実在かどうかも分かっていない。実在がはっきりしているのは三代丸山権太左衛門(1713- 1749)からである。
石の背面は初代若乃花で埋まったため、新たに石を2つ用意して両脇に置き、現在も刻んでいる。
本来はこれだけで良いと思うが、他にも突っ込みたくなる石碑がいろいろある。
まず力士碑の前の両側の石に力士がひとりずつ描かれている。これは安政4年(1857)の陣幕と不知火(第11代横綱、しこ名通り肥後出身、土俵入りが美しかった)の対戦を表す。陣幕とは明治33年に建立しようとした本人である。この年彼は72才で自画像も彫ってある。発起人とはいえ、ずいぶん自己顕示したものだ。
(陣幕の名は北の富士、千代の富士も名乗ったが部屋名ではなく年寄名跡であり、二人とも九重部屋にいた)
また、これらの手前にもっと目立つ「出羽海一門友愛之碑」がある。いくら野球の巨人のような名門とはいえ、これも彼らの部屋の庭にでも建てるべきだと思う。
二つの門柱みたいなものも「魚かし」と書いてあるし。スポンサーなら後ろにひっそり書いておけばカッコいいのに、ギャグのようである。
「超五十連勝力士碑」というのは、揮毫される石碑のタイトルとして安直でないか?意味は分かりすぎるくらいよく分かるが。
都会では森にしておくわけに行かない。
東のほうに行くと木立の中に赤い鳥居が並んでいた。
これは稲荷だろう。正面にまわってみる。
17:40
当たった。永昌五社稲荷神社というらしい。
近隣の稲荷五社が合祀されたものらしいが、永昌の意味は知らない。
右となりは合末社(花本社・祖霊社・天満天神社・聖徳太子社・住吉神社・野見宿祢社・車祈社・客神社)の建物。屋根が一つの長屋風社殿。
名簿板から後ろを振り向くと、木立の中に民家のような建物があった。
表札に富岡とある。
敷地内とはいえ、ひっそりとした一般民家のように見えるので写真を撮るのは憚れた。
深川八幡の別当寺が永代寺であり、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈で永代寺が廃寺となり、住職が深川八幡の宮司になったことは前に書いた。
すなわち16代住職・周徹イコール初代宮司・富岡有永(1838年 - 1895年)である。神仏混交時代は別当寺の住職が神社も管理していたから、初代宮司ではなく16代宮司と名乗ったのかもしれない。
以後
17代 富岡宣永 16代の養子。旧姓森
18代 富岡盛彦 17代の娘婿。旧姓沢渡
戦後、神社本庁の設立に奔走。現在の社殿を造営、神社本庁事務総長
19代 富岡興永 18代の二男
1994年体調を崩し退任、息子に宮司を譲る。
20代 富岡茂永 19代の長男
1995年に宮司就任も金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題となり、2001年宮司を解任され、先代の興永が宮司として復帰する。しかし2010年またもや体調を崩し、2012年禰宜をしていた19代の長女つまり20代の姉・富岡長子が宮司代務者に就任。宮司昇格を神社本庁に要望したが認められず、2017年9月富岡八幡は神社本庁から離脱した。
21代 富岡長子 2017年9月就任
さて、多額の退職金をもらい年金も仕送りされて福岡県宗像市(八幡の本社・宇佐神宮がある)に移り住み、自家用船を所有して釣り三昧の生活を送っていた20代富岡茂永は2017年6月、東京に戻り、長子を脅迫、そして2017年12月、境内北東の通用門付近で待ち伏せし、21代富岡長子と運転手を日本刀で襲い、長子は死亡、運転手は重傷。茂永は妻を殺害した後に自殺した。
当時ニュースで現場が映され、一度だけ行った富岡八幡の境内をあちこち想像したことを思い出す。
神社らしくないスキャンダルを思いながら歩くと、神社らしくない洋風建物があった。
17:44
社務所と婚儀殿
境内には21代が住んでいた洋館があったらしいが殺害された後、2018年取り壊されたという。横綱力士碑の裏に空き地があったが、どの場所かは知らない。
まだ20分くらいしか経っていないが私の見物らしく早々に退出した。
最後に境内図を見ようと探した。
17:46
境内案内は電光掲示のタッチパネルになっていた。
20年ぶりだったから、次は20年後だろうか。
もう来ないかもしれないな。
20240327 富岡八幡宮、伊能忠敬、佐川急便と一宮神輿
20240324 門前仲町の門前は深川不動ではなく永代寺
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