2024年3月17日日曜日

神楽坂、筑土八幡の田村虎蔵と赤城神社

 3月11日、月曜、暇なので神楽坂に行ってみた。

今までは食事会など何か用事があったから時間正確に、電車で最寄りのJR飯田橋駅に行った。しかし今回は暇つぶしだから駅まで行って電車に乗る気はしない。家のすぐそばを文京区コミニティバス「Bーぐる」が1時間に3本通る。逆方向の駒込巣鴨の近くを周るから遠回りだけど時間は正確で100円で飯田橋までいく。のんびり座って景色を見ながら後楽園を過ぎハローワーク飯田橋の横で降りた。
11:21
飯田橋駅前交差点
千代田区、新宿区、文京区の境界点である。
駅前なのに横断歩道がない。しょうがないから歩道橋の階段を上がっていく。
上がったおかげで、いろんなものが見える。
11:22
神田川と目白通り
左が新宿区、右が文京区。
神田川は上流の印刷博物館のあたりまで、ほぼ東に流れていたのが、大曲で南に曲がってここに来る。そしてこの交差点で再び東に曲がり、水道橋方面に向かう。
横断歩道がないのは、道路が広いだけでなく川もあるため、歩行者は青信号のうちに渡り切れないからかもしれない。
11:23
左:文京区、向こう:千代田区、手前:新宿区
首都高も神田川に沿って曲がっている

ここは五差路で、外堀通りと目白通りが交差するところに大久保通りがぶつかる。写真右の道は目白通りで九段下に行く。地下は南北線、有楽町線、東西線、大江戸線が5本の道に沿って走っていて交通の要衝である。
このあたりは一般住宅がない。

大久保通りの坂道を神楽坂上に向かって上がっていく。
地図を見れば道路の向こうに寒泉精舎跡があるが知識がないので見に行かない。
11:27
東京新宿メディカルセンター
場所的に何か歴史ある病院かと思ったが、1952年設立の東京厚生年金病院である。
このあたりは津久戸町だが、昔はこの先の八幡と同じ文字の筑土町だったか。
病院は大きな交差点の角にある。
ここも五差路。
11:31
筑土八幡町交差点
ここはあまり有名でなく交通量も大してないが、道がやけに広い。
持ってきた地図は文京区コミニティーバスの路線図だったのだが、ぎりぎりこのあたりまで載っている。しかしこの文京区のほうから来る道路は描いてない。不自然なほど両側に大きなビルがないこともあり異常に広く見える。帰宅後調べたら新しい道だった。
工事中の都道・牛込小石川線 撮影2014、国土地理院
(右は後楽園と東京ドーム)

五差路に面して石段があった。
町名にもなっている筑土(つくど)八幡である。
11:32
神社には田村虎蔵先生顕彰碑もあるらしい。
旧居跡が近くにあるようだ。
11:33
境内に上がると田村の代表曲「まーさかり、かついで金太郎」の歌碑。
鳥取県に生まれ(1873- 1943)で東京音楽学校を出て多くの唱歌を作曲したと書いてある。
ん? 同じ唱歌の作曲家、岡野貞一(1878₋1941)も確か鳥取生まれで東京音楽学校である。調べたらなんと同じ鳥取市の鳥取高等小学校だった。
岡野が信州中野出身の高野辰之と組んで「故郷」「おぼろ月夜」「もみじ」など多くの名曲を作った(「故郷を作った男」猪瀬直樹)のに対し、田村と信州出身者との関係はどうだろう? そのうち調べたい。

田村は「浦島太郎」(むかしむかし浦島がー助けた亀に連れられて~)、「一寸法師」(指に足りない一寸法師、小さい体に大きな望み~)も作曲した。そういえば曲調が似ている。
大和田健樹作詞の鉄道唱歌は、第3集(東北編)を作曲している。
11:34
境内はそれほど広くないが周りにビルがないから空が広い。
筑土八幡は八幡社だから本社の宇佐八幡と同じく応神天皇とその母・神功皇后を祭神とする。宇佐八幡のある筑紫の土をここまでもってきてその上に建てたから筑土八幡というらしい。平安時代の創建というが、当時は日比谷の入り江から船で簡単に来れたのかもしれない。

帰宅後調べたら、歩いてきた津久戸町には、江戸時代初め平川(=昔の神田川)沿い、津久戸村の田安門に近くにあった津久戸神社が移転してきたという。となると筑土が筑紫宇佐の土というより、筑土も津久戸も単なる盛り土という意味かもしれない。

筑土八幡を出て、閑静な住宅地を歩く。
目黒や世田谷と違って大きな家はないが、江戸城から歩けるという昔からの住宅地の落ち着き、静かさがある。
白銀公園にぶつかり、昔は何だったのだろうと思うが説明板などなし。
やがて前方に赤城神社の鳥居の横が見えた。
11:43
赤城神社の手前、右は東京都教育庁神楽坂庁舎、赤城生涯学習館だが、昔は赤城小学校の敷地だったらしい。1945年空襲で焼失、翌年廃校した。

赤城神社に入っていく。
11:45
赤城神社
お宮参りをしている家族があった。
父母の親(赤ちゃんの祖父母)たちもにこにこしていた。

牛込の総鎮守である。
牛込というのは戦後新宿区になる前は牛込区というのがあったくらい広い範囲だが、氏子は西は早稲田鶴巻町、弁天町など、東は(筑土八幡との関係か)西五軒町まで。
由緒は、1300年、群馬・赤城山麓の大胡の豪族であった大胡重治が牛込に移住したとき、国から赤城神社の分霊を祀ったのが始まりらしい。当時はいまの早稲田鶴巻のほうにあったが、1460年に太田道潅が今の牛込見付附近(外堀の向こう?)に遷し、さらに1555年、大胡氏の末裔、牛込氏がいまの場所に遷したという。

1683年幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守とし、ここと日枝神社、神田明神の三社の祭礼では山車、練物が江戸城の竹橋から内堀の中に入り半蔵門から出ることを許したらしい。
と、神社公式サイトにあるが、本当なら日枝神田にはずいぶん知名度で差をつけられてしまった。
11:48
神社のすぐ横はマンション「パークコート神楽坂」。境内に配慮しておとなしい外観。隈研吾のようだと思ったが、果たしてそうだった。入り口は石段下。2階に同じ高さの境内から入れる赤城カフェがある。この一体感から神社の土地を借りて建てているようにも見える。帰宅後調べたら65年後にマンションは取り壊し、緑の森に戻す計画だという。土地は昔の赤城小学校の一部かもしれない。

狛犬が変わっていた。スフィンクスのようにおかっぱ頭で胸を張っている。アニメキャラクター的だが、加賀白山犬として江戸時代に流行した。現存するものは少ないらしいが、ここも最近作ったように見える。

鳥居を出れば、すぐ神楽坂通りにぶつかる。
11:53
赤城神社の参道と神楽坂通りの交差点には、東西線の神楽坂駅がある。
飯田橋駅から一駅分も離れている。ここまで来たことはない。
いつもと逆方向に神楽坂通を飯田橋方面に歩いていく。
11:57
ニューハウスという不動産屋
いったい神楽坂で住むにはいくらかかるのか、ちょっと見た。
もう引っ越すことはないけれど。
11:57
不動産屋の壁に絵地図が貼ってあった。
神楽坂文芸地図という。
初めて歩いてきた大久保通りから神楽坂にかけては、新潮社、旺文社があり、かつては田村虎蔵の他、竹久夢二、江戸川乱歩、尾崎紅葉、泉鏡花、柳家金語楼らが住んだ。
通ってきた白銀公園は、イソップ物語を翻訳した渡部温の屋敷跡らしい。

神楽坂と言えば、その優雅な名前にふさわしく、花街としても有名だったが、一歩路地を入ると閑静な家々が並ぶ。牛込は、かつて本郷、小石川と同様、山の手の住宅街だった。彼らを相手にした商店街が神楽坂で、山の手銀座と呼ばれた。しかし市電など交通の発達で銀座、日本橋、さらには関東大震災の後に発達した新宿まで出かける人も多くなり山の手銀座の賑わいは消えた。

(続く)

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