2024年3月24日日曜日

門前仲町の門前は深川不動ではなく永代寺

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

午前中のラテン種目シニアの部は5組しかいなくて、大した顔ぶれじゃなく、練習の手ごたえもあったので優勝すると思ったら3位に終わった。自分と他人(審査員5人)の評価が違うことはいつものことだ。

午後はスタンダード種目だが、負けた時は会場に居たくないこともあり、昼休みに外に出た。地下鉄門前仲町のほうに歩き、深川不動にいった。
2024-03-17  12:59
成田山 深川不動堂

地下鉄東西線の門前仲町に初めて来たのは2003年。
池袋のダンスパーティでとても上手なモエギさんという方と知り合った。彼女は門前仲町駅の南のほうにある古石場文化センターでサークル練習会やパーティーを主催していた。まだ私は競技をする前で、ダンスは下手だったがはるばる埼玉から電車を4本も乗り継ぎ何回かやってきた。

その何回目だったか、2004年4月、パーティのあと初めて駅の北側にある成田山深川不動と富岡八幡を一人で見物した。両者は並んでいるから、門前仲町の「門前」はどちらの門前だろう、と考えた。
13:01
深川不動の参道の両脇には参拝客相手の店が並ぶ。
きんつば、ベビーカステラ、せんべい、仏具、揚げまんじゅう、うなぎ、

東隣りの富岡八幡の門前にはこのような商店街はない。何だか分からない人や物がご神体となる神社と比べ、はっきり人の形をした仏像のほうが拝み甲斐があるのか、参拝客も圧倒的にお不動様のほうが多い。
だから、門前仲町の門前は深川不動堂のようにみえる。

しかし、深川不動は明治以降である。昔はここに永代寺という寺があり、このあたりは隅田川の河口で中洲のような、水路に囲まれた島になっていて寺名から永代島と名付けられ、それが永代橋の名のもとになったことを以前ブログに書いた。

ブログ 

つまり、門前仲町の門前は富岡八幡と永代寺のどちらかである。
昔の地図を見てみる。
深川は江東だが、東京市15区の一つだから渋谷や新宿などと比べると古い地図が多くある。
昭和15年(1940)
深川不動、富岡八幡一帯は公園地であり、今と同じ富岡一丁目である。
都電の駅は「不動前」。西のほう、永代通りと清澄通りの交差点周辺が「門前仲町」となっている。
明治40年(1907)
東の今の富岡一丁目は、富岡門前東仲町、富岡門前町、また西のほうは富岡門前山本町、門前仲町となっている。
つまり、西の深川不動を越えても富岡門前山本町となっていて、富岡八幡の存在が大きい。深川不動はできたばかりだから地名にはなりにくい。
明治11年(1878)
今の永代通りの南側に「門前仲町」があるが、どちらの門前かこれでは分からない。

深川不動ができる前は永代寺があった。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の流れで廃寺となったが、大きな寺だった。
その頃の地図を見る。
明治4年(1871)
大栄山金剛神院永代寺がある。
しかし門前仲町という地名はなく、富岡門前町だけである、
つまり、門前は富岡八幡の門前ということだ。

永代寺は高野山真言宗の寺院で1626年に建てられたが、ほぼ同時期にできた富岡八幡の別当寺だった。別当寺というのは神社を管理する寺ということだが、神仏混交時代は宮司より僧のほうが偉かった。

念のためもう少し前、幕末の地図を見る。
嘉永5年(尾張屋版、1852)
ここにははっきりと永代寺門前町、永代寺門前仲町とある。
つまり門前仲町は本来、永代寺門前仲町で、永代寺がなくなったために富岡門前仲町になったようだ。

さて、永代寺が廃寺になってから明治29年、11あった塔頭の一つ、吉祥院(寺内にあったらしい?)が名を継ぎ、いまの参道途中、右側の小さな寺として永代寺を名乗っている。

永代寺の名は復興したが、今歩く参道はもちろん成田山深川不動のものである。
深川不動は、江戸中期の1703年、古くから信仰篤かった成田山新勝寺の本尊・不動明王像を江戸でも拝めるように、はるばる運んできて同じ真言宗の深川永代寺の境内で出張公開すなわち「出開帳」したことに始まる。出開帳はしばしば行われたという。

そして永代寺がなくなったあと、その跡地(つまり出開帳を行ったゆかりの地)に、1881年、不動明王の分霊が正式に成田から遷座され、成田山東京別院となった。
13:03
参道の突き当りは本堂だが旧本堂。
本堂は戦災で焼失したため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築したという。江東区内最古の木造建築といわれる。
前回、2004年来た時と様子が違うと思ったら、平成24年(2012)に新本堂が竣工したという。前回は本堂(旧本堂)の後ろにあった内仏殿(2002年完成)を見学したのだが、当然、入口が違っていて、旧本堂右側から靴を脱いで入る。

入ると大きな不動明王の木像があり、今もこちらが本堂のような雰囲気。
おねがい不動尊
(撮影禁止なので深川不動の公式サイトから拝借。以下同様)
熊本天草に自生していた樹齢5百年を超える楠を使用、身の丈1丈8尺、国内最大級の木造不動尊像。

不動尊の裏を通って奥に行くと左奥の新本堂では大人数の人が祈祷を受けていた。そちらに秘仏の不動明王はあるらしい。

それを横目に枯れ川の橋をわたり、政廣不動尊などいろんな仏像を見てから内仏殿に入る。
まずエレベーターで内仏殿4階に上がる。
日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」(中島千波)があった。
見学者は誰もいなかった。
3階は寺の事務所で非公開
2階に降りる。
四国八十八カ所巡拝所
平成10年に巡礼団を結成、3年かけて集めた四国八十八カ所霊場の砂を納めた部屋。
一つ一つ見れば、四国遍路をしたことになる。
みまもり不動尊
 開創320年記念事業(2022)で作られたという。

2004年と同じようにゆっくり見たかったが、午後のスタンダード種目があるため急いで降り、旧本堂から外に出た。
13:15
時計を見れば内部は10分くらいしか見なかった。
入場料を取ってもおかしくないのに、無料であれだけの美術品を見学できるのは貴重である。

左の新本堂の壁は梵字がデザインされていた。
前回来たときは内仏殿の後ろに首都高が目立った。
今でも少し見えるが、当時は新本堂がなかったから余計目についたのだろう。

午後のスタンダード種目は決勝ラウンドまで行ったが、シニアの部にもかかわらず19組中6位だった。
2004年初めてここに来たときから、もう少し真面目に取り組んでいたら、もっと高いレベルで踊っていたことだろう。




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