2024年3月27日水曜日

富岡八幡宮、伊能忠敬、佐川急便と一宮神輿

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

昼休みに深川不動を見物した。
夕方、すべて競技が終わってからまだ明るかったので富岡八幡宮に来た。深川不動同様2004年以来、20年ぶり。
2024₋03₋17 17:24
西の鳥居
このあたり現在は民家があるが、かつては西の永代寺と一体の敷地だった。永代寺が廃寺となり深川不動ができてからも、深川公園として広かったが、いまは江東区富岡出張所など建物が多く不動堂との一体感がない。
どうせなら南の永代通りに面した大鳥居から入ってみる。

17:27
富岡八幡は東京10社の一つ。
もともと天皇が祭祀の折に勅使を派遣する神社を勅祭社と呼び、畿内に22社あったが、東京遷都のあと、関東であらたに12社を選び准勅祭社とした。そのうち埼玉の鷲宮神社、府中の大國魂神社を除いた10社を東京10社という。これは以前書いた。

富岡八幡は1627年創建。多くの神社が頼朝ゆかり、役行者ゆかりとか古い創建年号を誇るが、このくらいが本当らしくて良い。当時は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれた。
八幡神を崇敬する幕府の庇護を受け発展、江戸最大の八幡社となった。

鳥居を入ってすぐ左に伊能忠敬の像がある。
17:28
2001年建立だから前回見た時はできたばかりだったか。
建立と同時に世界測地系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」が横(写真左)に設置されたが見逃した。

像は低いところにあるためか、その歩いているポーズによるものか、あまり格好良くない。

1745年、名主・酒造家の二男として今の千葉県九十九里町で生まれ、17歳のとき香取郡佐原の名主で酒造家・伊能家に婿入りした。
伊能家の事業を発展させ、佐原の名主たちを監視する村方後見の役にもついていたが、長男が成年してからは、隠居したいと思うようになった。
暦学と天文学に興味を持ち、ようやく隠居を認められた寛政7年(1795)、50歳の忠敬は江戸へ出て、深川黒江町(今の門前仲町)に家を構えた。
この年、忠敬は高橋至時の弟子となった。
師匠の至時は19歳も若かったが、昔の中国の「授時暦」が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからという。のちにシーボルト事件で獄死した高橋景保の父である。

当時、高橋らがいた幕府天文方の観測所、暦局は浅草にあったが、1782年に牛込袋町(奇しくも先日行った神楽坂、日本文芸クラブ会館跡)から移ってきたものである。

忠敬は寝る間も惜しみ天体観測したり測量の勉強をした。暦をより正確なものにするには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要である。地球の大きさも緯度1度に対する距離を正確に出す必要があるため、忠敬は江戸から蝦夷までの距離を測ろうとした。1800年、幕府からの許可を得て出発する。
以後、全部で10回の測量が行われてるが、その都度、近くの富岡八幡に無事成功を祈ったということで、ここに銅像が立った。
第八次(九州)までは彼自身も歩いていき、第九次(伊豆諸島)だけは弟子に任せ、再び自ら歩いた第十次測量(江戸府内)のときは71歳になっていた。

銅像は測量棒でも持って遠くを見つめているポーズなどのほうが決まると思うが、やはりすたすた歩いている姿のほうが彼にふさわしいのかもしれない。

それにしても現代、年をとっても歩ける人は多いだろうが、国内トップクラスの勉学を続けることは相当困難で、佐原時代の業績とともに、偉人という言葉がふさわしい。

忠敬像の隣には、中が見える建物がある。
神輿庫
2基入っていたがとにかく巨大。
左が御本社一の宮神輿。高さは4メートルを優に超え、かつぎ棒を含めると4.5トン。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンドをはじめ、装飾の各所に宝石を配している。「日本一の黄金神輿」とも呼ばれ、1991年、佐川急便会長だった佐川清氏によって奉納された。
右が少し小さい二の宮神輿。重さ2トン。1997年奉納。

富岡八幡と言えば、赤坂・日枝神社の山王祭り、神田明神の神田祭りとともに江戸三大祭りの一つ、深川祭りである。8月の暑い盛り、神輿渡御に水をかけるので水かけ祭りともいう。

明暦の大火(1657)のあと、深川は開発が一気にすすみ、木場や問屋の集中する有力な町に成長した。経済力で日本橋に迫る江戸第二の賑わいとなり、1698年に永代橋が架橋され、また近くに隠居した紀伊国屋文左衛門が3基の黄金の神輿を奉納し(社伝?)、祭礼は大イベントとなった。1807年(文化4年8月19日)に永代橋が崩落し死傷者・行方不明者合わせると1400人を超える大惨事となったのは、深川祭りを見物するために渡ろうとした人々である。

紀文の黄金の大神輿は明治後も存在したが、各氏子町内の神輿とともに関東大震災で焼失。
1991年の大神輿はその代わりで、佐川会長は現代の紀伊国屋文左衛門といえる。
しかし4.5トンと言えば持ち上げるだけで一人20キロとしても225人、練り歩くなら何人必要か分からない。
実際、因縁の永代橋から陸あげされ、富岡八幡の大鳥居前で行なわれた初担ぎには3000人が参加し、みごとに担ぎあげたまではよかったが、あまりに大きく重すぎたため渡御どころではなくなり、これ以降は展示だけになった。
一之宮神輿、初担ぎ(冨岡八幡公式サイトから)
大鳥居と比較すると大きさが分かる。
これだけ大きいと全員が同じ方向に動くのが難しく、それ以前に物理的に方向転換ができない。

いっぽう、1997年奉納、重さ半分の二の宮神輿は3年に一度の本祭の翌年、陰祭りに氏子各町内を渡御する。といっても担ぎ棒は丸太6本、長距離は重すぎるため、氏子町内までトラックで運び、そこで担いでリレーするらしい。
二ノ宮神輿
(八幡公式サイトから)
ちなみに本祭は八幡宮の御鳳輦が渡御し(トラックに乗せ70キロ)、翌日は各氏子町内の大人神輿53~55基が勢ぞろいして連合渡御(氏子町内一周8キロ)が行われる。朝7:30から先頭が大鳥居前をスタートし、15:30最後尾到着予定まで1日かけ、水を浴びながら練り歩く。よくニュースになるイベントである。
本祭の翌年は陰祭りで、二の宮神輿がまわり、
本祭の前年は子ども神輿30数基が永代通りの一部区間を巡る。

各氏子町内の神輿は大小合わせて120基ほどあり、こちらは毎年、各町内でまわる。

以上ネットで知った。
深川祭りのサイトは非常に多いが、知りたい情報が少なく、ここに書いたことに納得していない。実際今度見に行って調べようと思う。

ちなみに昨年2023年がコロナ後の久しぶりの水かけ本祭だったから、今年は陰祭りか。
2023連合神輿ルート

巨大な神輿が入っている神輿倉のとなり、手水舎とのあいだに「天皇陛下御野立所」という石碑がある。
明治、大正、昭和、上皇、今上と、陛下が行幸した神社は全国に多数あり、こういう石碑はあちこちにある。しかしここの昭和天皇行幸の記念碑はちょっと違う。
17:34
天皇陛下御野立所碑の横の説明板

昭和19年11月から帝都空襲が始まり、以後昭和天皇は外出できなくなった。しかし20年3月10日の大空襲をうけ陛下は被災地を視察したいと希望された。 軍は天皇の戦意が揺らぐことも心配して強く反対したが、天皇が固執し、3月18日、1時間だけ、御料車から天皇旗を外し、天皇と分からぬよう沿道の警護もなしに富岡八幡まできた。そして境内に用意された粗末な机で被災状況の説明を受けたという。

終戦の8月15日は江戸時代を通して富岡八幡の例大祭の日であるから、終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
と銅板の説明の最後に書いてあった。

戦後初の本祭りである昭和23年、深川佐賀町の神輿が早朝二重橋前に渡御し皇居を拝して深川の復興状況を奏上したのは、戦争末期の天皇行幸へのお礼もあったとされる。

そして2003年の祭礼にも巨大な二の宮神輿が東京駅の行幸通りを渡御して皇居の前で拝礼した。これは江戸開府400年を記念したものでもあったが、終戦間近の昭和天皇深川巡幸への感謝もこめたとされる。
(鳥居前から永代橋を渡る永代通りをまっすぐ行くと大手門だが、東京駅正面からの行幸通りは坂下門近くに行く)

以上、参道の右側で目を止めたものについて書いた。
富岡八幡は思ったより見るものが多い。
(続く)





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