2024年4月30日火曜日

千駄木菜園では1年で40種の野菜をつくる

先日、昨年1年間で作った野菜が37種、自然と庭の端に出てくる食用芳香多年草は8種、果樹4種、過去に作った野菜は8種、あわせると58種と書いた。

一株だけのものもあるが、それにしても多すぎると、信用していない人もいると思うので、内訳を書く。

2024₋04₋25 畝1番
左から1.春菊、2.ホウレンソウ、奥が3.エシャレット、4.ニンニク

ホウレンソウはトウが立ち花が咲いて、4/27に抜根した。

この畝の左では 5.冬キャベツ8株が終わり、6.茎ブロッコリー2株が終わりかけている。

この畝では夏には
7.落花生、8.モロヘイヤ、9.空心菜、10.オクラを育てた。しかしモロヘイヤ、空心菜は特にうまいというわけでもなく、妻も必要としなかったのでほとんど食べなかった。
畝2番
手前から11.玉ねぎ(発芽玉ねぎの芯から)、12.サニーレタス、13.玉レタス、11.玉ねぎ(昨年収穫の小玉から)。
その前の春秋は、14.パプリカ、15.シシトウ、16.枝豆。
パプリカ、シシトウは自家採種した種をまいた。
畝3番
いまサニーレタスの一部と、シシトウ、パプリカ、落花生の苗ポットがある。
手前は17.雑ネギ。
この畝全体に、秋から先月まで18.白菜を16株を育てていた。
その前の夏は19.ナス(購入苗、実生)、長ナス、20.ピーマン、21.甘長唐辛子があった。
畝4番
22.ジャガイモ
左は種芋(メークイン)、右は長野から食用でもらってきた芋。
種芋のほうが育ちがいいのは偶然か?
ジャガイモの前は23.大根(宮重総太り)を11月末から3月初めまで24本収穫した。
夏は枝豆、24.トウモロコシを育てた。
この畝は二毛作ならぬ三毛作であった。
多品目栽培の秘訣は、
(1)苗を別に作ったりして栽培期間を短縮する三毛作、
(2)座布団程度の隙間も使ったり、サツマイモの蔓をネットに這わせたりする土地の高度利用、そして
(3)2株くらいでも植えてみる少量生産である。

4番畝のとなりの塀際に長野の田んぼから持ってきたP1. セリが生えている。
畝5番
手前から25.ノラボウ菜2株、26.そら豆8株、27.スナップエンドウ、玉ねぎ(実生)
これらの前は畝全体で28.サツマイモ(紅はるか、シルクスイーツ)を育てた。

畝5番 (反対方向から撮影)
玉ねぎは3年目にして初めてまともにとれそう。
スナップエンドウは「つるなし」にしたら背丈が短く収量も少ない。

畝6番 西側
手前(右)から下仁田ネギ、育成中トウモロコシ苗。
防虫ネットかぶっているのは29.春夏キャベツ16株を育成中。
この畝の夏、秋はサツマイモと30.人参だった。
畝6番 東側
ノラボウ菜(一株ずつ、あちこち隙間に植えている)、ニンニク(ここは2本のみ)、春夏キャベツ、塀のそばはP2.フキ。
畝6番 春夏キャベツ

5番と桜切り株の間にある7番畝では、31.三太郎大根17本と、32.カブを育てた。
2024₋04₋22 
三太郎大根 
緑はノラボウ菜と大根のトウ。

三太郎はトウ立ちが遅いが、さすがに4月中旬にはトウが立ち、4月22日残っていた10本を収穫、4本を土に埋め、6本を洗って写真に撮った。宮重と違いずんぐりしている。 
大きなものは1.8キロ。(板の幅は18センチ)。

畝7番では三太郎の前はサツマイモと33.トマト、34.ミニトマト育てた。

7番の南は柿、その木陰にP2.フキとP3.コゴミ
7番畝の東
35.イチゴ、玉レタス、桃
玉レタスは、種を蒔いたら苗がいっぱいでき、ここにも植えたものの、多分食べられないから廃棄すると思う。

東脇
手前からイチゴ、玉レタス、スナップエンドウ、イチジク、奥に夏ミカン、P4.三つ葉。
この場所は夏に36.キウリ、37.サトイモ(芋1つを半分に割り2株のみ)を育てた。
庭の西南の隅、1番畝の南端。
右は茎ブロッコリー、その向こうの家の土台のところにP5.ニラ。

自転車置き場に行く途中にP6. ウルイ、P7.バジル(これは多年草Perennialではないが)
自転車置き場のほうで38.小松菜、39.野沢菜を作ったが白菜・大根の消費に追われ、食べなかった。塀のそばには40.山芋を育てている
西脇にはP8.ミョウガが生えている。
P9.シソはあちこちに種がこぼれ庭中、雑草のように生えている。

以上列挙した。
ナス(千両2号)と長ナスは併せて1種、九条ネギ、下仁田ネギ、雑ネギも併せて1種としたが、大根の宮重と三太郎、キャベツの冬大玉と春夏早生は時期も違うので別に数えた。そうすると今、数えると37でなく40種、放置芳香多年草は9種だった。

果樹はイチジク、柿、甘夏、温州ミカン。
育成中がモモ、せとか、不知火。

その他に、過去育てた経験は
ブロッコリー、聖護院大根、パパイア、黒豆、インゲン豆、ひたし豆、モロッコ豆、カボチャ、ペピーノ、パレルモ、谷中ショウガ、ニガウリの12種だが、満足にとれなかったものが多い。

妻には一切野菜を買って来させないようにしたい。
彼女が買ってくるのは、ゴボウ、レンコン、アスパラガス、もやし、カボチャ、キノコ類、くらいだろうか。帰省した時にもらってくるキノコ類以外、私は必要としないのだが、彼女は食べたいらしい。

リンゴ、ブドウ、ナシなどは頂くので、果物で買うのはバナナくらい。

ジャガイモ、玉ねぎ、人参、サトイモも、千駄木での生産量が消費分に追いつかないから買ってくる。玉ねぎは今年2畝近く作ったから、これが年間消費のどのくらい賄えるか楽しみである。

自給自足のためには、大豆、米が欲しいが、1年分作るには土地がない。
かといって田舎に土地を借りるのは、通うのが面倒だし体力的にもきつい。千駄木での箱庭農業で満足している。


2024年4月22日月曜日

東京拘置所と小菅御殿。建築遺産・旧管理棟は道路から見えるか

4月15日、綾瀬駅から古隅田川の親水緑道を西に歩いた。
綾瀬川を水戸橋で渡り、民家の間を抜けるとすぐ、小菅拘置所の巨大な建物が現れた。
2024₋04₋15 10:40
一帯は極めて人工的で(世俗的なにおいがせず)、公園はあるけれども平日のせいか誰もおらず、造園業者が掃除と植込みの手入れをしていた。拘置所の敷地内であれば収容者がするだろうか。
拘置所の東は綾瀬川との間に公務員宿舎(合同宿舎小菅住宅)のマンションが並んでいる。
2010年竣工、4棟あって1220戸という。
セブンイレブンもあるが、すこし他と雰囲気が違うのは気のせいか。

拘置所の中は入れないが、一周してみようと外縁に沿って西に歩く。
広い外縁道路には何もないと思っていたら、拘置所南門の向かいに古い小さな店があった。
10:43
池田屋 差入店
となりは「弁護士村上昭夫」の看板。
カフェ・ダイニング「アイアイ」もある。

「差し入れ店」と看板にわざわざ謳っているのは、持ち込める品物に制限があって、この店は当局の監修のもとに商品をそろえているのだろうか? 向こうのセブンイレブンの品ではダメなのだろうか?

いったい、どんなものがあるのだろう? しかし興味本位で覗くのは憚れるな、と思った瞬間、若者が二人、店から出てきた。かわいい顔にピアスをして、10代だろうか。
先輩だか仲間に会いに来て彼の話でもしているのか、楽しそうに笑いながら道路を渡り面会用である南門に入っていった。
病院の面会と違って、ひどく明るいのが意外だった。
10:44
若者二人は普通に中へ入っていった。
守衛室などなく思ったより開放的。
しかし大学敷地などなら入って行けても、面白半分で入るのは気が引けた。

今、写真を見て注意書きを初めて読めば、(当然のことながら)面会、差し入れ、出所お迎え以外の入場は禁止されている。しかし(行こうと思えば)窓口までは行けそうである。
危険物持ち込み禁止は分かるが、ゼッケン、ハチマキ、ワッペンをつけたものの入場もダメという。ごみのポイ捨て禁止まで書かれていた。

小菅拘置所と書いたが、正式には東京拘置所である。

拘置所と刑務所の違いは、おおざっぱに言えば、前者が裁判前の、刑が確定していないものを収容するのに対し、後者は刑が確定した受刑者を収容する。かつては両方ひっくるめて監獄と言ったが今は刑事施設という。拘置所は全国に8か所あって支所を入れると98か所ある。

ちなみに死刑囚は有罪が確定しているが刑務所ではなく拘置所に入れられる。全国に7か所あり(仙台、札幌は刑務所に併設された拘置支所)、関東甲信越、静岡で確定した死刑囚はこの小菅に収容され、もちろん刑場もある。2023年12月28日時点で、収監中の死刑囚は全国で106人、そのうち、ここには坂口弘、木嶋佳苗はじめ50人収容されているはず。

刑務所の網走とか府中とかと比べ、拘置所の小菅になんとなく暗いイメージが浮かぶのは死刑と関係するからだろうか。

さて、敷地の南縁を西に歩いていく。
フェンスの前にレンガが置かれていた。
何かの記念碑である。
10:45
説明を読めば、明治5年に銀座、築地が火災で焼け野原になり、再建にはレンガ造りにすることが決定、その年の12月には川崎八右衛門が政府の要請をうけここにレンガ工場を建設した。明治11年に内務省が施設、敷地を買い上げ、同時に監獄を建て、小菅監獄とした。西南の役で敗れたものを賊として収容し、レンガ製造に当たらせた。ここで養成された優秀なレンガ技能囚人が全国の監獄に移送され各地で囚人レンガが作られるようになった。
桜田門外に今もある法務省本館をはじめ、銀座、丸の内、霞が関の多くの煉瓦はここで焼かれたという。

しかし、説明板に無造作に貼られた写真ははげている。
レンガの置き方は正面とか真ん中とか考えず、そこらの石ころを積み上げたかのように無造作に置かれ、通行人が自由に持って行ったり、代わりにコンクリートブロックを不法投棄できるような記念碑である。
レンガの左の何かを囲んでいたであろう枠の中は雑草が生えていて、過去のストリートビューを見れば花壇だったようだ。

さて、レンガ製造所は明治の話だが、江戸時代、ここは関東郡代伊奈忠治の下屋敷として歴史が始まった。敷地10万8千坪は、東大本郷キャンパスとなる加賀藩上屋敷に匹敵する。

忠治は、関東郡代・伊奈忠次の二男。
父の忠次は、武蔵小室(現・北足立郡伊奈町)に陣屋を構え、私が90年代に7年住み、2013年から9年間通った伊奈町の町名にもなった。その子忠治は幕府勘定方に出仕し、赤山(現・川口市)に7千石の陣屋を構えていたが、兄が急死しため代官頭の職をつぎ、関八州の治水、河川付け替えに活躍した、荒川開削、江戸川開削、利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。親子2代で町名を残したことになる。

彼は内匠(たくみ)新田(現・足立区花畑)からここ小菅までの新綾瀬川も開削した。
そして江戸に近く、綾瀬川、隅田川、江戸川、利根川など関東各地に船で行ける小菅の地は屋敷をおくに最適であったであろう。

この伊奈氏下屋敷には吉宗の時代に鷹狩りの際の休憩所として小菅御殿が建設された。
しかし1792年に伊奈忠尊が失脚し、御殿は壊された。(忠尊の墓は千駄木の近所、駒込吉祥寺にあるらしいが確認していない)

折しも松平定信の寛政の改革の時期で、貧民救済や災害に備えた籾の貯蔵と管理をする江戸町会所(えどまちかいしょ)が設置され、1832年、火災の心配がなく水運がつかえるこの地、3万坪に62棟の籾倉が建てられた。

明治維新のあと、籾倉は新政府に引き継がれるが、明治政府はこの地に武蔵国内の旧幕府領・旗本領を管轄する小菅県の県庁を置いた。小菅県が廃止、東京府に変わると日本初の煉瓦工場が建設されることになる。
10:46
小菅御殿跡の説明板
説明板の向こうに巨大な拘置所の建物が見えた。
1997年に改築工事が始まり、2003年中央管理棟と南収容棟が、2006年に北収容棟完成した。地上12階、地下2階、高さ50 m。収容定員3010名。

建設前は4.5メートルの塀があり中が見えなかったったらしい。
いまでも収容等の窓側は廊下とし、房の鉄格子は外部から見えないようになっている。
同時に房から外の家々は見えず、空しか見えないようになっている。
今の東京拘置所
上から見ると新棟も放射形状がはっきりわかる。
屋上のヘリポートは遠方からの護送、収監の目的もあったが、緊急避難用らしい。

1989₋11₋03撮影、国土地理院
以前は、放射状の監獄は管理棟の南北に二つ、東のほうにも櫛型に並んでいた。
よく見ると、すべて収容棟の端には旭日旗を半分にしたような放射状のものがある。収容者を監視しながら何かをさせていたのだろうが、野菜つくりでなければ日光浴だろうか。

これらを統合高層化したことで空き地ができ、綾瀬川沿いにあった運動場を北方に移し、そこに公務員住宅を作ったことが分かる。西南にあったテニスコートは駐車場?になった。
ちなみに、いま古隅田川遊歩道の延長線上にある水戸橋は、もっと南のほうにかかっていた。
10:46
塀がないから内部が見える。
(実際は網目状のフェンスがある)
正面に旧管理棟が小さく見えた。

小菅に来た理由のひとつはこの旧管理棟を見ることだった。
先日、草加西高校からの帰りに東武電車の窓から見て、近くでじっくり見たかったのである。

外から見ていたら中の官舎に住むの職員のご家族だろうか、荷台にチャイルドシートをつけた自転車の女性が、番号を押すカギを開けて入っていかれた。

外周道路からは、電車の窓よりもっと見えない。
そこでグーグルマップの航空写真を載せる。
小菅刑務所管理棟
この管理棟は1999年に同潤会アパートや国立代々木体育館などとともに日本の近代建築20選に選ばれた。(2003年に80件追加され100件となり、その後さらに追加され2023年8月で280件となっている。)

この建物は有名なのでネットにいろいろ情報がある。
設計者は蒲原重雄(1898〜1932)。東京帝大建築科卒業、司法省会計課営繕係に就職。
1923(大正12)年の関東大震災で被災した小菅刑務所の建て替えなどに関わる。小菅刑務所は翌年着工、すべて受刑者の労役により建設され、1929年竣工した。

「行刑政策の新理想である教化主義を表現せん」と、下から見ると教会のような、白鳥が飛び立つような外観となった。白鳥は、天に召される死刑囚か、刑を終えて新たに人生をやり直す出所者か、あるいは昭和7年、結核により享年34歳で天に飛び立った蒲原自身か、100年後の我々に色々感じさせる姿である。
大正時代に20代で処女作、遺作としてこの姿を生み出した蒲原は天才といえるか。
10:48
ケアホーム葛飾
ここには拘置所の官舎が3棟あったが、2019年に完成し平成医療福祉グループが運営している。

敷地の西南の角までくると拘置所の正門があった。
植え込みの中に「東京拘置所」という表札があったので来た記念に写真を撮ろうとしていたら、守衛さんが飛んできた。
撮ってはいけないという。
電車からの眺めやグーグルなら、ここよりもっとよく見えるし、正門からはほとんど何も見えないから、表札くらい撮っても問題ないような気もするが、逆らう気もないのですぐ謝ってスマホをひっこめた。
(ちなみにカルロスゴーンが10億円の保釈金をつみ作業員に変装して出所したときの、サンケイニュースの映像がユーチューブに残っていて、カメラマンは南門の近くからフェンス越しに望遠レンズで撮影したようだ)

さて、守衛さんに注意されその場を離れたが、道路の向こうは荒川の堤防になっていて、上がれば電車からと同じような写真が撮れるだろうと上がってみた。
10:52
東武線の鉄橋と北千住
荒川下流方面にスカイツリーが見える。

拘置所のほうを振り向けば幸か不幸か首都高で見えなかった。
10:52
堤防から正門を見ていると、ちょうど拘置所から車が出てきた。守衛さんは車に気づくと守衛所から飛び出し、走ってゲートを開けた。職務熱心であることがよく分かった。

しかし撮影に関しては、拘置所内部ならいざ知らず、公道からの外観撮影を禁止しても利点はない気がした。

代わりにグーグルマップで堤防上空からの鳥観図を載せる。
グーグル
首都高越しに守衛所が見える
左に官舎、そのむこうに旧管理棟、運動場、新収容棟が並ぶ。

堤防を下りてふたたび拘置所のまわりを歩く。
10:55
旧小菅御殿の石灯篭
ほんとはこれも撮影してはいけないのだろう。
10:55
拘置所のまわりは伊奈氏下屋敷の時代からか、水堀になっていて、このあたりは親水公園になっている。
10:56
小菅御殿古図のパネル
御殿は1万8千坪の伊奈屋敷の西のほう一万坪に作られたようだ。

10:57
小菅銭座跡のパネル
銀貨の銀座は有名だし、金貨を鋳造した金座も今の日銀のあたりにあったことも知られている。しかし寛永通宝などの銭貨が作られた銭座(ぜにざ)はあまり知られていない。
銭座は全国各地にあり、江戸でも深川や亀戸などにあった。
小菅の銭座は幕末の安政6年、南の今の西小菅小学校あたりに作られた。

10:58
古隅田川流路と裏門堰
古隅田川はかつては武蔵(足立郡)と下総(葛飾)をわける国境の大河だったが、河川改修の結果水量を失い、近年は雑排水の流路だった。しかし下水道の整備により浄化が進み、いまは鯉も亀も見られる親水遊歩道になっている。中川から綾瀬川までの古隅田川と、綾瀬川と荒川を結ぶ裏門堰が、遊歩道になった。
11:00
官舎の間から旧管理棟の正面がみえる。
高くそびえる塔は敷地内を監視するためだろうか。
同時に時計を二つ付けるという大胆な設計で長い首と目のようになり、白鳥を連想させるのである。
11:02
外周の西北隅
もともと水郷地帯だから伊奈氏のころから濠はあったのだろう。
明治以降も、脱走を防ぐことはできなくとも、外界と隔離するには十分な濠である。
11:05
旧管理棟が一番よく見える場所だが横からの姿
この濠(堰)は葛飾区小菅と足立区西綾瀬一丁目を分けている。

近代建築遺産の旧管理棟をみていると、イチニサンシゴーロクシチハチ、を繰り返す掛け声が聞こえた。月曜日の11時、一帯は静かだから余計よく聞こえた。

収容定員3000人というのだから、全員が一度に運動することはできない。時間割などあるのかな? さきほど南門から入った若者二人が面会した人はいま何をしているのだろう。差し入れされた食べ物は自由に食べていいのかな? まだ有罪と決まったわけじゃないから緩いのかもしれない。

綾瀬駅に戻るべく、綾瀬川を渡った。橋の名は伊藤谷橋であった。
かつて伊藤谷村という村があったが、明治22年に大字となり、1965年の住居表示により、伊藤谷という地名は消え、今は1時間前に訪ねた伊藤谷公園とこの橋などにその名が残る。



前のブログ

2024年4月19日金曜日

はるか、はるみ、清見と迷って「せとか」を買う

千駄木に引っ越して11年、野菜を作り始めて10年。

毎年のように庭木を伐採し作付面積を広げ、年間30種類以上の野菜を作っている。
(昨年は37種、自然と庭の端に出てくるニラ、セリ、ミョウガ、フキなどは8種、果樹4種、過去に作った野菜は8種、あわせると58種)
量も大根は30本、白菜、キャベツも16株くらい作るから自分では食べきれず、かといって差し上げる人もいない。大分無駄にしてしまった。
無駄になるのは、交際範囲が狭くてあげる人がいないこともあるが、虫に食われたり、葉の間に土が入ったり、成長しすぎたりして、スーパーの野菜と比べると美しくなく、差し上げるのに躊躇することによる。

その点、果物は人に上げやすい。
夏ミカン、温州ミカンは喜ばれた。
今季、温州ミカンは217個、夏ミカンは56個収穫した。

3本目の柑橘、不知火は2022年2月に苗を植えて3年目の今年、木は小さいが初めて花が咲きそう。
東京は冬に晴れの日が多く、桜の開花も西日本より早いことから、意外と柑橘類の栽培に適しているのではないか?
そこで4本目の柑橘類を植えたくなってきた。

今は新芽の出ているころだから植え付けに良い時期とは思えず、ホームセンターに苗はあるだろうか。

もちろん、文京区のオリンピック白山店やコーナンドイト後楽園店にはあるはずがなく、大宮の島忠ホームズ、さいたま新都心のビバホーム、東十条のケーヨーデイツー、王子のコーナンにもないことが分かっている。昨年、島忠、足立小台店で少し苗を見たので、自転車で延々北方にむかい隅田川を越え、行ってみた。

予想外に柑橘の苗がいっぱいあった。
2024₋04₋17
はるか 2178円(税込み)
せとか、はるみ 2068円
清見 1958円
早生温州、すだち、甘夏、伊予柑、ポンカン、レモン 1738円

ほとんどが1本ずつで売れたら品切れになるから、これらが常にあるとは限らないし、冬には他の品種もあったのかもしれない。

伊奈町で買ったイチジクや不知火が1000円以下だったことを思うと高い。しかし電車賃はそれ以上だし、ランチで2000円出すこともある。何より夢を買うことを思えばこれほど安いものはない。

さて、予想外に種類があってどれを買おうか迷う。
先日、清見を初めて食べて美味しかった。
「温州ミカン」(宮川早生)と外国産の「トロビタオレンジ」を交配させたもので、日本で育成・公表された最初のタンゴール(ミカンとオレンジの交配種の総称)である。清見タンゴール、清見オレンジとも呼ばれる。

柑橘類はリンゴなどと違い、たいてい受粉木が別になくとも1本植えれば実が生る。
しかし念のためスマホで清見を調べた。

この日、売り場でネットをみるまでずっと「清美」だと思っていた。はるか、はるみもあるし。
若いころ1,2度食事した小平清美ちゃんを思い出し、清美を買おうと手を伸ばした。

しかしその前に「せとか」の苗があった。
8年前の2016年11月に上尾のセキチューで「せとか」と温州ミカンが並んでいたとき、安いほうの温州ミカンを買ったことを思い出した。そのときは都心でまともなミカンが取れるとは思わず、遊び半分だったから安いほうにした。
しかし温州ミカンは予想以上に良い仕事をしている。内袋(じょうのう膜)は堅いが味は良い。人にあげると喜んでもらえる。消毒もせず肥料も上げず、小さい木なのに200個以上も実をつけた。
ただ、あのとき「せとか」を買っていたら千駄木菜園の果樹栽培はまた違ったものになったかもしれないと思う。

せとかもその場でスマホを見て調べた。
タンゴールの清見とアンコールオレンジを掛け合せたものにやはりタンゴールである「マーコット」を交配し、育成された品種という。1984年に長崎県口之津の農研機構(旧農林水産省果樹試験場)で作られたという。
ん?
口之津の果樹試験場といえば、教養、薬学の同級生、久留米大付属出身の田中淳二君の父上が勤務していたところで、50年近く前、彼のアパートで田舎から送られてきた不格好な柑橘を何個か頂いたことを思い出す。

そうか、「せとか」は清見をもとにして作られたか。
後から作られたということは、清見より優れているのだろうか?

清見は戦後すぐの1949年に最初のタンゴールとして誕生したが、1974年から12県で耐病性など試験され、79年に「清見」と命名、「タンゴール農林1号」として登録された。

清見は雄性不稔のため(自身の雄性配偶子を作れない)、他の柑橘から受粉せねばならない。かつ柑橘の多くは1個のタネから複数発芽する多胚性だが、清見は単胚性で一つの種から一本しか芽が出ない。つまり品種改良で雑種を作りやすい。
その結果、清見は多くのブランド柑橘の親となった。

「不知火」-「清見」×「ポンカン」
「陽香」(キラキラネームだとハルカだがヨウコウ)-「清見」×「中野3号ポンカン」
(不知火と比較して、果実の形が扁平、果皮が濃橙色、果面が滑らか)
「はるみ」-「清見」×「ポンカンF-2432」
「せとか」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」
「麗紅」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」
(せとかと同じ交配組み合わせでいくつか選抜されたものの一つ)

ちなみに島忠で一番値段が高かった「はるか」は果樹試験場でなく、福岡県糸島郡の農家が自宅の庭で「日向夏」の自然交雑実生から育てた。1986年に初めて結実し、1996年に品種登録された。遺伝子解析でヒュウガナツが種子親、ナツミカンが花粉親と判明した。

さて何を買うか。
「はるか」は夏ミカン的だから駄目、「はるみ」は「せとか」に似ているが隔年結果性が強いらしく栽培が難しそう。

そこで清見とせとかに絞った。
迷った挙句、あとから登場して清見より糖度も高く小売値も高い「せとか」にした。
せとかという女性は知らないけれども。

しかし、せとかの苗を家まで大事に持ってきたはいいが、まじめな話、植える場所がない。
2024₋04₋17
子どもたちがいたころの自転車置き場。
小松菜を植えていたが、一度摘んだだけで放置し花が咲いた。
この場所に植えようか。
しかし木が大きくなると水道の検針の人が困るな。
温州ミカン
この隣に植えると野菜畑がつぶれる。
夏ミカンとイチジク
イチジクを移植してせとかを植えるか?
しかしイチジクの根は長く移植できるかどうか。
左の桃、右の不知火、柿
この間に植えるか。
イチゴの栽培台になっている桜の切り株のところがちょうど良いが今は植えられない。
不知火の隣に仮植えして、イチゴが終わったら桜の切り株を掘り出し、そこに移動させるか。

とりあえずノラボウ菜を抜いて、そこに仮植えした。
問題は桜の切り株が今年、自力で取り除けるかどうか?
せとかの苗が大きくなってしまうと移植も大変だから、何としても今年の夏前に桜株を除きたい。人間、真剣にやればたいていのことはできるだろう。(一昨年、昨年は掘り出せなかったけれども)。

切り株が朽ち果て掘り出してから苗を買ってくればいいようなものだが、この年齢になるといつ死ぬか分からない。果樹は苗を植えてから4,5年はかかる。
温州ミカンは4年目の2020年に初めて6個生り、翌年から64個、77個と増え、200個生ったのは7年目である。

1年でも早く植えたい。
そういう年齢になった。
長野の父は75歳で畑の巨峰を伐採しピオーネを植えたが、その半年後にがんが発覚した。


前のブログ

2024年4月18日木曜日

綾瀬駅と国ざかいの古隅田川、水戸街道

4月15日、あまりに暇なので外に出た。
月曜は博物館・美術館などが定休日のところが多いので、用事はないが綾瀬にやってきた。千駄木から千代田線で4つ目、わずか12分だが今まで来たことがなかった。

2024₋04₋15 9:41
綾瀬駅前
駅前というか線路高架と平行な道路の向こうにイトーヨーカ堂があり、隣に32階のタワーマンションが建設中、さらにタクシー乗り場もある駅前広場ができるらしい。イトーヨーカ堂には100円ショップのCanDoや家電量販店ノジマが入っている。高架下には東急ストアはじめ色んな商店がある。

千代田線の始発駅でありながら、北千住の隣で山手線西日暮里まで3駅だから都心に近い。その割に家賃は安そうで、飲食店多く、買い物便利で、非常に住みやすいと思う。

綾瀬は北千住と同じく足立区である。
しかし駅の南は葛飾区小菅。
千代田線(常磐線各駅停車)高架の南側
「小菅4丁目11番」の表示

駅前の地図で足立区と葛飾区の境を確認しておく。
足立区と葛飾区(下の黒い部分)
わざわざ色分けしているのは来訪者が入り組んだ区境に迷わないよう強調しているのだろうか。
9:46
区の境は古隅田川の親水水路になっている。
東から南へそして北へ西へ。
川は標高差がないと蛇行する。

古隅田川は2つある。一つは埼玉の東岩槻駅の東から春日部市を東に流れ、古利根川に合流する。もう一つは葛飾区亀有3丁目で中川と分かれ、この綾瀬駅南をとおって小菅3丁目で綾瀬川左岸に合流する。同じ名前ということは両者は昔はつながっていたのだろう。

綾瀬駅の南で蛇行、暗渠となっている古隅田川が両区の境ということは、武蔵国足立郡と上総国葛飾郡(江戸初期1686年に西部を武蔵に編入)の境ということ。国郡の境とは、今や曲がった道という痕跡しかない小さな川も、律令時代は容易に渡れぬ大河だったに違いない。

以前からこのブログで何度も書いているが、隅田川だけでなく、荒川、利根川、綾瀬川、どれも「古」「元」がつく川が全く別の場所に存在する。いかに河川が自由気ままに(江戸期の河川改修の結果もあって)流路を変えつつ流れていたことが分かる。

例えば 20231224 関宿4 博物館と治水、利根川の移動


イトーヨーカ堂の前を西に歩き、向かいの東急ストアに(買うものはないが)入ってみる。久しぶりの大型スーパーは、月曜午前中で空いていたが、新鮮豊富な商品に町の活気を感じた。

駅の西側で綾瀬川通りが線路と直行している。

綾瀬川通りから常磐線をみる
左:足立区。右:葛飾区
この通りは区境にもなっているし、通りの名前からして昔はここを綾瀬川が流れていたのかな?と帰宅後調べたら違った。この道路は足立区が名付けた47路線の愛称の一つのようである。綾瀬川に付かず離れずその東を埼玉県八潮までいく。

古隅田川親水遊歩道に行くため綾瀬川通りを南下する。
9:56
「気軽るにどうぞ 男性のかたも 美容院」
送り仮名のほか、右上から左下に書くべきところを左上から書いているのが突っ込める。
美容院を写したら向こうに寺のような豪邸が見えたので寄り道して住宅街に入っていく。

9:58
角をまわり正門にいくと吉田という表札。
このあたり、河川跡のような道路。
綾瀬川通りよりもこの道こそ、かつて綾瀬川が流れていたような気もするが、綾瀬川は江戸時代、直線的に開削され、さらに荒川放水路開削に伴い、並行して新綾瀬川もできたから、流路が定まった後は水田地帯の水路でもあったのだろう。
10:03
またしても豪邸。蔵がある。
表札はここも吉田さん。
先ほどの豪邸とはまた違った風趣がある。
ちょうどデイサービスの車が来て、品の良い老婦人の車いすを孫夫婦のような二人が押して出てこられ車に乗せていた。
塀の向こうは植木に満ちていて家が見えない。
夏ミカンのような木が見えた。
この二軒について表札のフルネームをメモし、旧家なら小菅村、伊藤谷村あたりの村長さんから政治家あるいは実業家の家系かもしれない、と帰宅後、調べたら電話帳にしか出ていなかった。そして綾瀬は吉田姓が多いことが分かった(6位、25軒)。古くからの農家であろう。(ちなみにすぐ隣の葛飾区小菅の吉田さんは2位、16軒。吉田姓は全国で11位である)

すぐ南に公園があった。
10:06
足立区立伊藤谷公園
かつて伊藤谷村という村があったが、明治22年、同じ足立郡の五兵衛新田・弥五郎新田・次郎左衛門新田などと合併し綾瀬村が成立。東京府南足立郡綾瀬村大字伊藤谷となった。昭和7年に足立区が成立、綾瀬村が消失したあと足立区伊藤谷(本町、東町ほか)となったが、1965年の住居表示により、伊藤谷という地名は消え、足立区綾瀬、西綾瀬などになった。

伊藤谷公園自体はごく普通の公園だが、東のほうを見ると古隅田川の親水公園らしきものが見えた。
足立区から再び葛飾区に入る。
川に沿った遊歩道は屈曲部で公園になっていて白鷺公園という。
10:09
武蔵、上総の国境となった大河も今や町中の小川である。
かつては関東平野の大量の水を集め千住付近で西から来る入間川と合流し、付近はデルタ状に分流していたらしい。(現)隅田川東岸の寺島などの地名は中洲の名残りという。その後、利根川東遷はじめ、度重なる河川改修、流路変更で水量が減り、細流になってしまった。しかし、安政江戸地震(1855)で、この少し上流、亀有あたりで液状化が起きたらしいことは、大河だった証といえる。
10:10
左は段ボール箱や包装製品を製造するレンゴー

なおも古隅田川緑道を下流に歩く。
10:14
桜が枝を張りだし、数日前はさぞかし花が美しかっただろう。
川もきれいで大きな鯉がいる。
白鷺も来るのかな?
10:15
花びらのじゅうたんの向こうにレンガの橋が見えた。
綾瀬川通りの陸前橋である。
このあたり、千住で奥州街道から分かれた水戸街道が通っていた。
橋の名は水戸街道の別名、陸前浜街道から取ったものか。

古隅田川緑道から綾瀬川通りに出ると、交番と、その向こうに下水処理場が見えた。
緑道から離れて行ってみる。
10:17
横の通りが旧水戸街道のようだ。
10:18
警視庁亀有警察署小菅交番
小さいけれど名前がなんとなく立派。
10:19
東京都下水道局小菅処理場と小菅東スポーツ公園
ここは広大な下水処理場の北西の端で、主要施設は、西の綾瀬川を越え、荒川のほうだ。
「立小便禁止」とあるのは、そういう人が多いということか。
もっと人がいないところですればいいのに。
下水処理場の上はテニスコートや公園になっている。
もちろんトイレもある。
10:20
公園の入口まで長い。
トイレまで遠いというより、トイレを使うことすら考えないのだろう。
10:22
長いスロープをのぼり、ようやく公園入口に到着。
この日は記録的な暑さで、3枚着ていたからここで下着まで脱いでブラウス1枚となった。
10:23
ここは上水道への浄水場ではなく、下水処理場であるが、しっかり外部から守られている。
有刺鉄線のフェンスは、公園側から施設のほうに曲がっている。
公園からの侵入者を防ぐには反対方向に曲げたほうが良いような気もするが、鉄線が公園側にはみ出すのを避けるのか。

公園には入らずそのまま元来た道を古隅田川遊歩道に戻る。
10:29
鵜森橋の向こうに首都高
鵜森橋は、吉田邸2軒と伊藤谷公園のあった通りである。

遊歩道の床と手すりは木材風コンクリート製かと思ったら、本物の木材だった。
10:31
遊歩道は葛飾区の南岸から足立区の北岸に変わる。
このあたりの住宅は毎朝起きれば縁側から水路が見え、季節を感じられるだろう。
都心にも近くて住みやすそうだ。
10:33
狭い石の上に亀が2匹。
10:34
こちらにも仲良く2匹いる。
親子だろうか、きょうだいだろうか。しかし卵生では家族というものがない。
では雄と雌か? しかし性的な感じもしない。
仲間、友達だろうか? 
でもどうして仲間と分かるのだろう? 
鏡もないから自分と似ているかどうかも分からないのに。

古隅田川は綾瀬川の堤防の下にもぐるように消え、遊歩道もなくなった。
堤防に上がってみる。
10:36
綾瀬川と首都高
この川は北からまっすぐ来て、明治時代に荒川放水路が作られたとき、ぶつかった。しかし合流せず(川が消滅せず)、その東に沿って並行して下流の中川まで行く。なぜ合流しないのか分からない。
明治11年
陸前浜街道、伊藤谷村、小菅村、弥五郎新田などの文字が読める。

綾瀬川は江戸時代から人工的な直線の川で、北から来て途中で隅田川に水路を通じ、そこから南東に方向を変え、中川まで行った。明治の荒川放水路はこの直線の綾瀬川に沿っている。
10:37
綾瀬川と水戸橋。
橋の名は水戸街道(佐倉道)からとったものだろう。
この街道はもう少し下流側(南)を通っていてそこに初代水戸橋がかかっていたらしい。

水戸橋を西にわたると、そこは綾瀬川(首都高)、広大な荒川、小菅拘置所に囲まれた陸の孤島のようなところで人が少ないのか、静かであった。
10:38
大きなケヤキが2本、若葉を出していた。
アパートの壁面の色などがケヤキに合っていた。意識的ならアパートの価値を高めている。
右のマンションは民間のソライエ葛飾小菅であるが、その裏は公務員宿舎と小菅拘置所である。

今回の散策の目的は、古隅田川ではなく、実は小菅拘置所のまわりを歩くことであった。
(続く)

千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで