2024年4月18日木曜日

綾瀬駅と国ざかいの古隅田川、水戸街道

4月15日、あまりに暇なので外に出た。
月曜は博物館・美術館などが定休日のところが多いので、用事はないが綾瀬にやってきた。千駄木から千代田線で4つ目、わずか12分だが今まで来たことがなかった。

2024₋04₋15 9:41
綾瀬駅前
駅前というか線路高架と平行な道路の向こうにイトーヨーカ堂があり、隣に32階のタワーマンションが建設中、さらにタクシー乗り場もある駅前広場ができるらしい。イトーヨーカ堂には100円ショップのCanDoや家電量販店ノジマが入っている。高架下には東急ストアはじめ色んな商店がある。

千代田線の始発駅でありながら、北千住の隣で山手線西日暮里まで3駅だから都心に近い。その割に家賃は安そうで、飲食店多く、買い物便利で、非常に住みやすいと思う。

綾瀬は北千住と同じく足立区である。
しかし駅の南は葛飾区小菅。
千代田線(常磐線各駅停車)高架の南側
「小菅4丁目11番」の表示

駅前の地図で足立区と葛飾区の境を確認しておく。
足立区と葛飾区(下の黒い部分)
わざわざ色分けしているのは来訪者が入り組んだ区境に迷わないよう強調しているのだろうか。
9:46
区の境は古隅田川の親水水路になっている。
東から南へそして北へ西へ。
川は標高差がないと蛇行する。

古隅田川は2つある。一つは埼玉の東岩槻駅の東から春日部市を東に流れ、古利根川に合流する。もう一つは葛飾区亀有3丁目で中川と分かれ、この綾瀬駅南をとおって小菅3丁目で綾瀬川左岸に合流する。同じ名前ということは両者は昔はつながっていたのだろう。

綾瀬駅の南で蛇行、暗渠となっている古隅田川が両区の境ということは、武蔵国足立郡と上総国葛飾郡(江戸初期1686年に西部を武蔵に編入)の境ということ。国郡の境とは、今や曲がった道という痕跡しかない小さな川も、律令時代は容易に渡れぬ大河だったに違いない。

以前からこのブログで何度も書いているが、隅田川だけでなく、荒川、利根川、綾瀬川、どれも「古」「元」がつく川が全く別の場所に存在する。いかに河川が自由気ままに(江戸期の河川改修の結果もあって)流路を変えつつ流れていたことが分かる。

例えば 20231224 関宿4 博物館と治水、利根川の移動


イトーヨーカ堂の前を西に歩き、向かいの東急ストアに(買うものはないが)入ってみる。久しぶりの大型スーパーは、月曜午前中で空いていたが、新鮮豊富な商品に町の活気を感じた。

駅の西側で綾瀬川通りが線路と直行している。

綾瀬川通りから常磐線をみる
左:足立区。右:葛飾区
この通りは区境にもなっているし、通りの名前からして昔はここを綾瀬川が流れていたのかな?と帰宅後調べたら違った。この道路は足立区が名付けた47路線の愛称の一つのようである。綾瀬川に付かず離れずその東を埼玉県八潮までいく。

古隅田川親水遊歩道に行くため綾瀬川通りを南下する。
9:56
「気軽るにどうぞ 男性のかたも 美容院」
送り仮名のほか、右上から左下に書くべきところを左上から書いているのが突っ込める。
美容院を写したら向こうに寺のような豪邸が見えたので寄り道して住宅街に入っていく。

9:58
角をまわり正門にいくと吉田という表札。
このあたり、河川跡のような道路。
綾瀬川通りよりもこの道こそ、かつて綾瀬川が流れていたような気もするが、綾瀬川は江戸時代、直線的に開削され、さらに荒川放水路開削に伴い、並行して新綾瀬川もできたから、流路が定まった後は水田地帯の水路でもあったのだろう。
10:03
またしても豪邸。蔵がある。
表札はここも吉田さん。
先ほどの豪邸とはまた違った風趣がある。
ちょうどデイサービスの車が来て、品の良い老婦人の車いすを孫夫婦のような二人が押して出てこられ車に乗せていた。
塀の向こうは植木に満ちていて家が見えない。
夏ミカンのような木が見えた。
この二軒について表札のフルネームをメモし、旧家なら小菅村、伊藤谷村あたりの村長さんから政治家あるいは実業家の家系かもしれない、と帰宅後、調べたら電話帳にしか出ていなかった。そして綾瀬は吉田姓が多いことが分かった(6位、25軒)。古くからの農家であろう。(ちなみにすぐ隣の葛飾区小菅の吉田さんは2位、16軒。吉田姓は全国で11位である)

すぐ南に公園があった。
10:06
足立区立伊藤谷公園
かつて伊藤谷村という村があったが、明治22年、同じ足立郡の五兵衛新田・弥五郎新田・次郎左衛門新田などと合併し綾瀬村が成立。東京府南足立郡綾瀬村大字伊藤谷となった。昭和7年に足立区が成立、綾瀬村が消失したあと足立区伊藤谷(本町、東町ほか)となったが、1965年の住居表示により、伊藤谷という地名は消え、足立区綾瀬、西綾瀬などになった。

伊藤谷公園自体はごく普通の公園だが、東のほうを見ると古隅田川の親水公園らしきものが見えた。
足立区から再び葛飾区に入る。
川に沿った遊歩道は屈曲部で公園になっていて白鷺公園という。
10:09
武蔵、上総の国境となった大河も今や町中の小川である。
かつては関東平野の大量の水を集め千住付近で西から来る入間川と合流し、付近はデルタ状に分流していたらしい。(現)隅田川東岸の寺島などの地名は中洲の名残りという。その後、利根川東遷はじめ、度重なる河川改修、流路変更で水量が減り、細流になってしまった。しかし、安政江戸地震(1855)で、この少し上流、亀有あたりで液状化が起きたらしいことは、大河だった証といえる。
10:10
左は段ボール箱や包装製品を製造するレンゴー

なおも古隅田川緑道を下流に歩く。
10:14
桜が枝を張りだし、数日前はさぞかし花が美しかっただろう。
川もきれいで大きな鯉がいる。
白鷺も来るのかな?
10:15
花びらのじゅうたんの向こうにレンガの橋が見えた。
綾瀬川通りの陸前橋である。
このあたり、千住で奥州街道から分かれた水戸街道が通っていた。
橋の名は水戸街道の別名、陸前浜街道から取ったものか。

古隅田川緑道から綾瀬川通りに出ると、交番と、その向こうに下水処理場が見えた。
緑道から離れて行ってみる。
10:17
横の通りが旧水戸街道のようだ。
10:18
警視庁亀有警察署小菅交番
小さいけれど名前がなんとなく立派。
10:19
東京都下水道局小菅処理場と小菅東スポーツ公園
ここは広大な下水処理場の北西の端で、主要施設は、西の綾瀬川を越え、荒川のほうだ。
「立小便禁止」とあるのは、そういう人が多いということか。
もっと人がいないところですればいいのに。
下水処理場の上はテニスコートや公園になっている。
もちろんトイレもある。
10:20
公園の入口まで長い。
トイレまで遠いというより、トイレを使うことすら考えないのだろう。
10:22
長いスロープをのぼり、ようやく公園入口に到着。
この日は記録的な暑さで、3枚着ていたからここで下着まで脱いでブラウス1枚となった。
10:23
ここは上水道への浄水場ではなく、下水処理場であるが、しっかり外部から守られている。
有刺鉄線のフェンスは、公園側から施設のほうに曲がっている。
公園からの侵入者を防ぐには反対方向に曲げたほうが良いような気もするが、鉄線が公園側にはみ出すのを避けるのか。

公園には入らずそのまま元来た道を古隅田川遊歩道に戻る。
10:29
鵜森橋の向こうに首都高
鵜森橋は、吉田邸2軒と伊藤谷公園のあった通りである。

遊歩道の床と手すりは木材風コンクリート製かと思ったら、本物の木材だった。
10:31
遊歩道は葛飾区の南岸から足立区の北岸に変わる。
このあたりの住宅は毎朝起きれば縁側から水路が見え、季節を感じられるだろう。
都心にも近くて住みやすそうだ。
10:33
狭い石の上に亀が2匹。
10:34
こちらにも仲良く2匹いる。
親子だろうか、きょうだいだろうか。しかし卵生では家族というものがない。
では雄と雌か? しかし性的な感じもしない。
仲間、友達だろうか? 
でもどうして仲間と分かるのだろう? 
鏡もないから自分と似ているかどうかも分からないのに。

古隅田川は綾瀬川の堤防の下にもぐるように消え、遊歩道もなくなった。
堤防に上がってみる。
10:36
綾瀬川と首都高
この川は北からまっすぐ来て、明治時代に荒川放水路が作られたとき、ぶつかった。しかし合流せず(川が消滅せず)、その東に沿って並行して下流の中川まで行く。なぜ合流しないのか分からない。
明治11年
陸前浜街道、伊藤谷村、小菅村、弥五郎新田などの文字が読める。

綾瀬川は江戸時代から人工的な直線の川で、北から来て途中で隅田川に水路を通じ、そこから南東に方向を変え、中川まで行った。明治の荒川放水路はこの直線の綾瀬川に沿っている。
10:37
綾瀬川と水戸橋。
橋の名は水戸街道(佐倉道)からとったものだろう。
この街道はもう少し下流側(南)を通っていてそこに初代水戸橋がかかっていたらしい。

水戸橋を西にわたると、そこは綾瀬川(首都高)、広大な荒川、小菅拘置所に囲まれた陸の孤島のようなところで人が少ないのか、静かであった。
10:38
大きなケヤキが2本、若葉を出していた。
アパートの壁面の色などがケヤキに合っていた。意識的ならアパートの価値を高めている。
右のマンションは民間のソライエ葛飾小菅であるが、その裏は公務員宿舎と小菅拘置所である。

今回の散策の目的は、古隅田川ではなく、実は小菅拘置所のまわりを歩くことであった。
(続く)

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