2024年6月18日火曜日

香川4 讃岐平野のビュートと関ノ池、開法寺池

夜行バスで香川県に来た。

朝、バスが高松に着いたあと、軽く高松城址を歩き、電車に乗って讃岐国分寺を訪ねた。

2024₋06₋11 
高松駅前の香川県全体図

国分寺は讃岐平野の真ん中にある。この平野は瀬戸内海に面し、先進の北九州と畿内の間にあるから、吉備とともに早くから開けた。
しかし、雨が少ないからため池が多いと、学校で習った。
その数は全国3位(そんな統計があるとは知らなかった)、密度では6.5ヶ所/平方キロメートルで全国1位という。それを見たかった。

律令時代の先進地・讃岐の国府跡も見たかった。
国府と国分寺はどこでも近くにあり、遺跡は讃岐でも予讃線で一駅先にある。

ため池、農村を見るため、列車に乗らず、歩くことにした。
国分寺から歩いて3分、最初のため池に出る。
10:45
関ノ池。
向こう(南)は峰が原という山。

ため池は農地より高いところになければいけない。
関ノ池の東(左)が低くなっていて水を供給しているようだ。

池のほとりに古そうな石碑が立っていて、何かと近寄ってみれば
「香川県青年センター」と大書して、右を差す指の形がお地蔵さんのように浮き彫りされていた。これはユーモアなのか、真面目なのか。

この池はいつできたのだろう?
有名な満濃池は国分寺創建より古い大宝年間(701~704年)に築造され、空海が修復したことで有名。ここもそれくらい古いのかな、と調べたら1597年にそれ以前の沼をもとに築造したとあるが、聖武天皇の時代に掘られたとも言われる。
10:47
国分駅や国分寺のある北を振り向けば、これも円錐型の山。
こちらの名前は分からない。

端岡駅のホームで見た、おむすび山3兄弟狭箱山、伽藍山、六ツ目山(御厩富士、讃岐七富士の一つ))もそうだが、讃岐平野には、飯野山(讃岐富士)で代表されるような円錐形の低い山があちこちにある。

こういう地形はあまり見ず、東日本にない。

山の基盤は花崗岩で、新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内火山活動の溶岩などが湖を埋めた後に土地が隆起したとされている。その後、長期にわたる浸食作用で、硬質の讃岐岩(サヌカイト)質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって台地状の地形となったのが、屋島である。(メサという。mesaは台地)。

さらに侵食が進み、頂上も削れ始めたのが、讃岐富士のような円錐峰である。(ビュートという。butteは残丘)。すなわち麓付近は花崗岩、中腹から上は硬い火山岩であるサヌカイトで、山頂付近ではそのサヌカイトが風化した赤い粘土が堆積しているという。

若いころアメリカに留学したとき、1994年、コロラドの先住民の遺跡が台地の中腹に残るメサ・ヴェルデや、モニュメントバレーに旅行し、多くのメサとビュートを見た。
かの地と讃岐で形が違うのは、モニュメントバレーが火山岩でなく堆積岩であることと、コロラド川が関係するも雨が少なく風が強いなどの気候条件の違いや、キャップロックの大きさ、性質の違いによるものか。
讃岐平野
左上が讃岐富士の飯野山

円錐形の山は、火山の噴火口から噴石が真上に打ち上げられ、落ちるときにばらつくことで中央から離れるにしたがって集積密度が下がり、その形になると思っていた。これが浸食となると、同じような形になるとは簡単に想像できない。

つまり、噴石の落下なら遠くでも確率的にゼロではないから、裾野が広く、円錐の母線(斜面線)が曲線となり、一方、浸食なら頂上からの石の崩落が斜面との摩擦によって遠くに行かず、ピラミッドのように、母線は直線になるのではないか、と思ったのである。

しかし、讃岐の山々をみているうちに、砂時計の砂が上空から落ちるのと、頂上部から落ちるとの違いしかないと思えば、分からなくもない。

さて、関ノ池の東の堤防道、つまり畔を南に歩く。
10:49
水面に網が見えて、養殖でもしているのかな、と思ったら白いものが多数浮いている。
ゴルフボールだった。
見れば対岸にゴルフ練習場がある。網があれば風で吹き寄せられ、拾い集めるのが楽だ。

四国にもゴルフ練習場があるのか、と思ったが、五色台の南西のプリン型の独立峰は城山(きやま)と言って、古代、瀬戸内海の重要な防衛拠点であったが、いま頂上に高松カントリークラブがある。

関ノ池の南に高速道路のように広い国道11号線が通っていた。
まだ新しい。たぶん、国分駅の北の道が旧国道で、バイパスができて県道33号になったのではなかろうか? 埼玉県大宮の国道16号がバイパスができてから県道2号となったように。

国道11号をわたり、農村を歩く。
10:56
水田の転作か、玉ねぎを作っていた。
ちょうど千駄木でも玉ねぎを抜いて乾燥させているところだ。
晴れた日に収穫し、続けて乾燥させないと保存できないのだが、畝の間に水がたまり、水はけが悪そうだった。玉ねぎは淡路島が有名で、雨の少ない瀬戸内の讃岐平野は適地のはずだが、さすがに水田は良くないだろう。
10:57
特に古い家があるわけでもなく平凡な道が続く。
誰もいない。

古代の南海道は地域区分でもあり、道路でもある。都から紀伊を通り淡路から鳴門に上陸、讃岐を通って伊予、土佐に向かった。
その官道は讃岐国分寺と讃岐国府の付近を通ったはずで、この道もその跡かもしれない。
10:58
左側に府中山内瓦窯跡という案内標識があったが、行かず。
国分寺などの造営のときに瓦を焼いたという。

生活道路は、線路をくぐり、北を平行に走る県道33号に合流した。
丸亀街道と呼ばれるが、広い、灼熱の道である。
しかし歩かないと国府跡に行かない。
11:07
香川アスコンという道路建設会社の横を過ぎる。
ため池とおむすび山を見ながら讃岐平野をのどかに歩くという目論見は大きく崩れた。

11:19
香川県で最長という綾川を渡る。

広い県道から左(西)に入る。
11:24
南のほう、トウモロコシ畑の向こうに国府跡の柱が見えた。
11:25
讃岐国府跡。南から。
国府跡から西に歩く。
11:27
関東とはどこか違う田園風景。飛鳥地方を思い出す。

11:28
向こうに見えるは鼓岡神社と城山(きやま)の一部。
1156年、保元の乱で後白河天皇に敗れた崇徳上皇が讃岐に流され、最後の6年間を過ごした行在所と伝えられている。保元の乱は朝廷、摂関家の内紛だったが、双方武家の力を借りたため、以後武家の存在感が増した。特に勝った天皇側の平清盛、源義朝が台頭し、平治の乱(1159)につながる。

のちに怨霊になって平清盛らを悩ませたと言われる崇徳上皇の墓所(白峰陵)は、四国唯一の天皇陵としてこの東の五色台の四国霊場第81番札所・白峯寺のそばにある。

その鼓岡神社のすぐ下を通りながら、電車の時間が11:45なので、立ち寄りは割愛した。
11:29
田んぼから鼓岡神社前の道路に上がったら蓮の生えたため池があった(開法寺池)。
水がなく土が出ていると思ったら、赤い藻が広がっていた。
池は江戸時代に構築されたとされるが、国府のすぐそばの谷であり、奈良時代から利用されていたらしい。
池の向こうに香川県埋蔵文化財センターがあった。

その施設は国分寺と国府跡に行くことを決めてから、時間があったら立ちよるつもりだった。しかし歩きに思ったより時間がかかり、トウモロコシ畑の国府跡からまっすぐ讃岐府中駅に向かうことに変更した。
しかし、目の前にセンターの建物が現れると、急いで覗くだけ覗いてみようかな、と思う。

(続く)

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