2024年6月19日水曜日

香川5 埋蔵文化センター、銅鐸、律令制の国司

夜行バスで香川県に来た。

6月11日、朝、バスが高松に着いたあと、軽く高松城址を見てから電車に乗って讃岐国分寺を訪ね、そこから国府跡まで歩いた。

そのあと急いで電車に乗って丸亀に行くはずだったが、駅へ向かう途中に偶然、(事前に近くにあることは知っていたが)、香川県埋蔵文化財センターに出くわした。

素通りするのも何なので急いで覗いてみようと思った。

11:29
開法寺池。
池の向こうに見えるのがセンターの建物
坂を上がり正面玄関にまわった。
11:32
香川県埋蔵文化財センター。
ふだん、ダンスのパーティ会場、練習会場としてあちこちの自治体の「文化センター」を借りているため、うっかりそう書いてきたが、「文化財センター」であり、すべて書き直した。
11:33
1階が展示室になっていて入場無料。
香川に来て午前中だけで3つ目の資料館だが、ここも誰もいない。
国府跡の近くに立地しているが、香川県全体の遺跡の調査、研究を行っており、展示も旧石器時代から始まる。

急いで回るが銅鐸の前で足を止めた。
弥生時代の出土品に近い材質(銅77%)、大きさ、形の複製品。

銅鐸は何の目的で作られたか分からず、祭祀用だったのではないか、と子供のころ読んだ記憶があるが、「鐸」は古代中国大陸において用いられた柄付きの青銅器の楽器という。手で持って鳴らしたらしい(下げて鳴らしたのは「鐘」という)。

形が「鐸」に似ているから銅鐸と呼ばれるが、古代日本ではそれがだんだん大型化し、鳴らすという目的から離れ、「用途不明」となってしまった。それでも打たれた痕跡などから鳴らされたものもあったらしい(梵鐘のように胴体の表面を叩くのでなく、西洋のベルのように内側に舌をさげ、それを内壁にこすらせて鳴らしたらしい)。

鳴らしてよいと書いてあるので、紐を振ると無人の展示室に大きな音が響いた。 

・・
古墳時代から飛鳥時代に入ると、のちの令制国が定められた。
成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)といわれ(大化の改新と大宝律令成立のあいだ)、この時いくつかの地域が分割された。すなわち、
常陸国(常陸、陸奥)
凡河内国(河内、摂津)
丹波(丹波、但馬)
吉備(備前、備中、備後)
筑紫(筑前、筑後)
火国(肥前、肥後)
豊国(豊前、豊後)
越前から加賀が、河内から和泉が分離するのはもっと後である。

また、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造され、このとき上毛野国・下毛野国(しもつけのくに)・木国(紀伊)・粟国(阿波)の国名が今と同じ漢字2文字に統一された。
讃岐平野というのは瀬戸内海に面し、先進の北九州と畿内の間にあるから、早くから開けた。飛鳥時代は仏教が広まり、奈良時代初頭には讃岐に29か寺あり、畿外諸国では極めて多かった。

讃岐の国は、平安時代の延喜式(律令制の細則を定めたもの)では、
都からの距離で近国、中国、遠国と分けられたとき、その中国である(中国地方の語源か?)。
また、面積・人口などの国力(農業生産力)により諸国を大国(武蔵、越前、播磨、肥後など13か国)、上国(尾張、信濃など35か国)、中国(長門、若狭、土佐など11か国)、下国(げこく、和泉、伊賀、伊豆、隠岐など9か国)の四等級に分けたときの、上国に入る。

この律令国の等級区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
菅原道真(845~903)は886年から890年の4年間、国司讃岐守)に任じられ、この地に住んだ。菅家文草の「開法寺は府衙の西に在り」という文章が国府跡の推定に役立ったという。
国司というと一人と思う人がいるが、本来は何人もいる職である。
4等級あって、一番偉いのは長官の「守(かみ)」、それを助ける次官の「介(すけ)」、その下の判官は「掾(じょう)」、さらに主典「目(さかん)」たちが中央から派遣された。ここまでが国司。
さらに史生、国博士、国医師、その下に現地採用の国雑人がいて、国府には総勢500人ほどいたという。

(律令制では各組織でも4等級あり(四等官)、例えば省では、卿、輔、丞、録。また寮では頭、助、允、属、といった)

だから国司というのは本来組織の名前で、長官という人間を言うのは誤用である。長官(カミ)を言うなら「国主」というべきで、これが国司になってしまったのだろうか?
讃岐国府は、南と東が綾川、西が城山(きやま)で囲まれた一辺500~600メートル、30ヘクタールに作られた。西に傾いた南北の主軸は馬さし往還で、瀬戸内海の国府津に向かっていた。東からは南海道が入っていた。南海道は私が国分寺から関ノ池の南をここまで歩いてきた道に近い。
城山を背景に埋蔵文化センター、開法寺池、鼓岡神社が上空からみえる。
国府跡の白い標柱も小さく右下に写っている。

城山の向こうは海である。663年、唐・新羅連合軍に白村江で敗れたあと、瀬戸内海を通って畿内まで攻め込まれるのではないかと大和政権は恐れた。城山にはその防備の為に山城が築かれた。
11:40
讃岐国府の立地環境。
周辺は、国府設置前の飛鳥時代にも、多くの古墳群や城山城があり、古くから開けていた土地だった。海までも遠くなく、綾川があるから船も使えた。

ここで時計を見ると、もう電車は間に合わないことが分かった。
11:43
センターの外に出ると竪穴式住居があった。
いつの時代を復元したものか分からないが、律令時代でも農民の家はこんな感じだっただろう。
ちなみに律令制では50戸ほどを合わせて里(のちに郷)と言い、複数の里を合わせて郡、古代の讃岐には11の郡があった。
11:46
「きやま橋」で綾川を南にわたる。
何もない農村部の橋なのに丹塗りというは国府跡を意識している。
11:51
讃岐府中駅に到着。
丸亀方面行きの電車が11:45の次は12:45までない。

埋蔵文化財センターに寄ったため、丸亀でうどんを食べる予定が狂った。スケジュールが押してきたので、この空き時間で何か食べて遅れを挽回しようと思った。
しかし埋蔵文化センターから駅前まで商店、飲食店とも一軒もなかった。
というか、国分駅から讃岐国分寺、関ノ池、国府跡までずっとなかった気がする。人もいなかったし。

仕方がないので、自転車置き場のベンチに座り、バスの中で食べようと持ってきたが残っていたどら焼きとコンビニパンを食べる。この日の高松は28.4度、日中歩きながらスポーツドリンクを飲み過ぎてあまり腹は減っていなかった。

ぼーっとして、ふと目の前の駅前地図看板をみたら、すぐそばに新宮古墳というものがあるらしい。行ってみた。
12:12
新宮古墳
巨岩で石室を作っている。
12:14
古墳の前から北を見ると綾川のつくる綾北平野と瀬戸内海の島々が見えた。
現代、我々は家を建てるとなると風景よりも通勤距離とか予算とかいろいろ考えなくてはいけないが、ここは当時、何も考えずに一番好きな場所を選んだのだろう。

12:15
古墳のすぐそばは集落の墓地だった。
墓石の表は、関東によくある「○○家之墓」ではなく、個人名が多かった。また、家としての墓でも「先祖代々之墓」ではなく「南無阿弥陀佛」と彫ってあった。
12:23
することもないので駅に戻って来た。
周りに店はないし、電車も来ないのが分かっているのだから、当然のことながら誰もいない。
今調べたら、讃岐府中駅の1日利用者は平均279人(2021年)。往復乗るので実質140人程度。ちょうど通勤電車1両辺りの乗車定員と同じ。
戦後の1952年に開業し、1987年の国鉄民営化以前は、普通電車もほとんど止まらない仮停車場扱いだったという。
ここは古墳・奈良時代のほうが賑やかだったのではないか?
12:26
改札どころか駅舎もなく、階段を上がればホームである。
12:29
本も何も持ってこなかったので、何もせずぼーっとしていた。
今までの人生は、こういう場面ではたいてい何か読んでいたな、と思う。
平日の昼間、定年退職したことを実感する。

電車が来たので乗り込む。
12:49
ボックス席と長椅子席。四国はこういう形が多いのかな?
12:59
14分で坂出駅到着。
讃岐富士(飯野山)がみえたが、時間がないので降りない。

(続く)

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