2024年6月17日月曜日

香川3 讃岐国分寺、遺跡と八十番札所

夜行バスで香川県に来た。

この県は四国4県で一番人口密度が高く、見どころもコンパクトにまとまっている。これが、軽々しくも初めての(最後の?)四国の行き先に選んだ理由である。

朝、バスが高松に着いたあと、高松城址を歩き、駅に戻ってJR予讃線9:25発に乗り込む。

初めて乗る四国の電車は、ガラガラの各駅停車で、高松から3つ目の無人駅、端岡で特急の通過待ち。
2本待ちで11分も停車したが、もう少しダイヤを工夫できなかったものか。
とも思ったが、四国らしい?と思えばこれも一興。
2024₋06₋11 9:38
停車が長いので無人のホームに降りて南の山を見る。
狭箱山(左、万灯山)と伽藍山(右)。
讃岐平野には、飯野山(讃岐富士)で代表されるような円錐形の低い山があちこちにある。
この2つの山の向こうには六ツ目山(御厩富士、讃岐七富士の一つ)があるはず。3つの山でおむすび山3兄弟という。

やがて列車は動き、高松から4つ目、端岡の次の国分(こくぶ)に到着。
降りたのは私とおばあさん一人。
彼女は大きな荷物をもち跨線橋を難儀して上がっていたので、声をかけると慣れているから大丈夫と言われた。荷物の苗木はブルーベリーだという。
9:55
国分駅も無人。
ここに国分寺がある。
讃岐国分寺の伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。(他に指定されているのは、遠江と常陸のみ)

国の特別史跡というのはたいそうなもので、全国で32都道府県に合計63件しかない。姫路城とか三内丸山遺跡、埼玉古墳群、登呂遺跡、安土城、高松塚古墳など。
四国ではここだけで、東京は江戸城、浜離宮、小石川後楽園の3件。学術上価値があり歴史的に重要なものという基準で選ばれているから、割と地味なものもある。

駅前を線路と平行に県道33号が通っているが、北に並行する旧道を歩く。
9:57
旧道を歩くと昨年の和歌山、大和街道を思い出した。
かつての南海道はこのあたりを通っていたか?
9:58
国分寺は北に台地上の山塊(五色台)を背にしているようだ。
律令時代、諸国に国府、国分寺を置いたとき、どういう場所を選んだのか、当時の先進地はどういう地形だったのか、興味があって来た。
10:00
駅から5分もかからず国分寺跡に到着。

ここは瀬戸内海国立公園内にある五色台の南の麓なので、五色台の地図も隣にある。
五色台観光マップ
瀬戸内海を望む低い山塊には、キャンプ場や宿泊施設、四国霊場81番82番札所の寺社などがあり、遊歩道も整備されている。この国分寺もハイキングコースに入っている。
10:02
国分寺伽藍配置図
現在、跡地にその名も「国分寺」という真言宗の寺(四国霊場80番札所)がある。

聖武天皇が都に東大寺、諸国に官営の僧寺と尼寺の建立を命じたのは、天平13年(741)。
これはみんな学校で習った。
しかしその後、鎌倉、室町、江戸時代を経て現在、それら国分寺はどうなったか、ほとんどの人は知らない。

当然、平安末期の律令制の崩壊とともに国府、国分寺、国分尼寺は衰退し、国府は消滅した。しかし国分寺は、実は多くの令制国で、(国家の財政支援がなくなった後は)宗派を変えて同じような場所で細々と(多くは国分寺という名で)存続した。

例えば、武蔵国分寺は、中央線国分寺駅の南西に今もある。多くの都民は「国分寺」を同じ沿線の高円寺や吉祥寺と同じように、寺ではなく駅名として認識しているが、れっきとした真言宗豊山派の寺院で、周囲は奈良時代の国分寺伽藍跡が公園として整備されている。

多くの国分寺は境内が縮小され、跡地は市街地などになったが、讃岐国分寺は後継寺院の境内地として最も遺構が良く残っているとして、常陸国分寺、遠江国分寺とともに国の特別史跡になった。

いまの讃岐国分寺本堂は奈良時代の旧講堂跡に、また現仁王門は旧中門跡にそのまま再建されている。

とはいえ、いまの境内地の外、すなわち西北側の公園として整備されている部分は芝生で覆われ何もない。
10:03
国分寺の西の境界となった築地塀とその内側の回廊部が復元されている。
講堂の西側にあった掘立柱建物跡
10:05
僧房跡 南西から。
旧講堂の北に僧たちの生活する建物があった。
礎石などの配置から、中央に食堂など共同のスペースがあり、東西両側に24部屋あったと考えられている。
10:09
僧房跡 北西側から
平屋の建物の入口に貼り紙があって、自由に入っていいという。
ドアはカギがかかっておらず、入って自分で照明をつけた。
10:12
奈良時代の礎石が発掘された状態で、そのまま覆屋を建ててある。
規模は違うが、1985年に西安へ行った時の兵馬俑坑を思い出した。
奥(東)のほうでは、礎石の上に僧房を一部復元してあった。
10:13
僧房、講堂の東に鐘楼跡の礎石がある。

10:15
敷地の北東に、縮尺10分の1で国分寺を復元してあった。
金堂と中門を結ぶ回廊が敷地の南西の隅に偏り、講堂、僧房もその北にある。つまり国分寺の伽藍は築地塀の中で西半分しか使っていない。東半分は野菜でも作っていたのだろうか?
10:16

東の出口から国分寺跡公園を出て民家の間を通り、資料館に向かった。
10:19
国分寺跡資料館
10:20
入場料は200円だが、65歳以上は無料。
誰もおらず、大きな声を出すと奥から人がいらして、パンフレットと絵葉書セットをくださった。
10:22
こういう資料館はじっくり見る人間ではないので、いつもどおり2,3分で出てしまった。

再び国分寺跡に戻り、敷地の南側にまわる。
10:30
宝林寺
現国分寺の東隣り、もちろん旧国分寺敷地内である。
讃岐国分寺と同じく仁和寺を本山とする真言宗御室派。
この寺と国分寺の関係については知らない。

そのまま歩くと讃岐国分寺の境内に自然と入った。
10:32
写真の本堂は、かつての講堂の場所に、鎌倉時代に建てられた。

10:35
大師堂
四国霊場八十番札所だから、お遍路さんが立ち寄る。
年配のご夫婦とあいさつすると、彼らは愛媛の八幡浜から来られたという。
もうすでに八十八か所まわったそうで、「今年はオリンピックの年だから逆回りで88番から回り始めました」という。すごいですね、というと「いやあ、車だから」と駐車場のほうに向かわれた。うるう年の逆打ちは3倍のご利益があるという。
昭和に建てられた鉄筋コンクリート製の塔は、北の僧房跡からも見える。
10:39
大日如来堂
かつての大師堂、江戸時代のもの。
10:39
ふと林の中に、四国八十八か所の如来や観音の石像が立ち並んでいる。
仁王門のほうに行くと一番から順に並んでいた。
丁寧に案内板がある。
10:42
「 写し霊場 
四国八十八か所巡り →打ち始め
一巡すれば四国巡拝と同じご利益があります 」

10:42
仁王門
国分寺は裏から入って表から出た。

以上、讃岐国分寺では、律令時代の国分寺遺跡と今の八十番札所という、まったく時代も意味も、対象者も違う二つのものをみた。

最後の写し霊場が印象に残ったが、これは八十八のどの札所寺にもあるのだろうか?
これなら2,3分あれば一巡できるだろう。
念仏を唱えさえすれば悪人でも極楽に行ける(浄土真宗)のと同様、苦労して四国を歩き回らなくても同じご利益が得られるとは、ずいぶんお手軽になったものだ。厳しい修行ののち解脱する(現世利益ではない)、という古い仏教とは全く違うものになっている。
私は神社仏閣でお参りなどしないし、ご利益にも興味がない。

実際に八十八か所を訪ねれば、ご利益などなくとも、食事や風景を楽しめるだろう。しかし写し霊場はなんだろう。おそらく毎日のように88の仏を拝めば、悩む心が落ち着くのだろう。

(続く)

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