2024年9月18日水曜日

上野公園12 無料の動物園、根津神社例祭

9月15日、3連休の中日、院展の招待券を頂いたので東京都美術館に来た。

見終わって外に出ると、隣の上野動物園からの放送が聞こえた。今日からシルバーウィーク中は60歳以上の入場が無料という。行ってみた。
13:38
ふだんは600円、65歳以上は300円。
入場券はいらないので並ぶ必要もなく、改札口で免許証を見せるだけで入れた。

よく考えると子供が3人もいて上野動物園は一度も入らなかった。
1987年10月妻が1歳の長女を連れて友人とここで会うとき、私は大学に用事があって、園正門のところで別れたことがある。
(多摩動物園は独身のとき猫田君と彼の彼女との3人で行った。また、留学中の1993年、シンシナチ動物園は家族で2回行った。須坂動物園もいったな)

動物園は子どもとして連れられて、子どもを連れて、孫を連れて、と一生で3回来るという話があるが、孫を連れてこられるかな? 千駄木から歩いてきたいな。

と、書いたら、思い出した。
昭和38年3月、小学校入学直前の春休み、祖父母に連れられ東京見物で上京、上野動物園に連れて来てもらった。しかしこのときは寒くて動物たちは室内にいたのか、ライオンや虎は見られなかった気がする。西郷さんや動物園のモノレールの写真はあるが、動物の写真がない。

さて、
園内は動物よりショップや人が目立つ。
13:41
アジアゾウの場所
姿がまったく見えず。
人間のように暑くて外に出てこないのだろうか?
この日は9月中日というのに東京で34.4度。

ほとんどのエリア、ブースに動物が見えない。
涼しいところにこもっているのだろうか?

外国人が多い。日本人も上野は日本で一番大きな動物園だと思っている。
しかしこれではがっかりするだろう。

人だかりがするので行ってみるとクマがいた。
13:46
ツキノワグマ
最近各地で出没のニュースがあるから、むしろ私はトラやゾウよりも、実際の姿、大きさなど興味深く見られた。
上野動物園は明治15年(1882)に開園。博物館の付属施設だったらしい。
その後宮内省の所管となり、1924年東京都に下賜された。

よく見ると五重塔がマップに乗っている。
東照宮と同じく寛永寺付属だと思っていたのだが、昭和33年(1958)に寛永寺から東京都に寄付されたらしい。動物園入場者はぐるっと周りを歩くことができる。

しかしそちらにはいかず、ホッキョクグマの施設(やはりいなかった)から、西園におりるイソップ橋へ出た。
13:55
動物がいない動物園に入って、ここが一番良かった。
若いころから何百回と歩いた不忍池を北東斜め上から見る初めての景色。
この場所からの精養軒も新鮮。

イソップ橋を下りると、橋の下をくぐるように行列ができていた。
パンダの森への観覧ルートになっている。
パンダはいま4頭いて、高齢のリーリー、シンシンは9月29日に中国に返還されるらしい。

パンダは1950年代からソ連や北朝鮮に、西側へは1972年からアメリカ、日本などに贈られた。1983年まで24頭が友好の証として贈与されてきた。
しかし、いまは高額なレンタル料で貸与され、本体も、生まれた子供も中国に返さなくてはならない。
これは中国がパンダを外交の武器とするため、その貴重性、有難味を保つためかと思ったが、少し違うようだ。

1984年、パンダの贈与が出来なくなったのは、ワシントン条約でパンダの商業目的の取引が禁止されためである。その後レンタルなら可能ということになったのだが、今度は野生個体を捕獲してレンタルするのが始まり、そこで1997年からは、野生個体を捕獲するのではなく中国の動物園や保護センターで生まれた個体のみが国外にレンタルされるようになった。そして高額なレンタル料は、保護活動費のみに使うようWWFによって監視されている。
つまり、レンタルはあくまで野生パンダの保護にあったのだが、結果的に中国外交の大きな武器になっている。

日本のパンダは1972年のカンカン、ランランが始まりで、芸大の動物園側の校舎の壁に「熱烈歓迎~」とパンダ到着を望む横断幕が張られた写真を、高校1年の時、新聞だか雑誌だかで見た覚えがある。

パンダはかつては福岡、神戸にもいたようだが、いまは和歌山アドベンチャーワールド(4頭)と上野だけである。

この暑い中、並んでいるのは大変だな、と思いながら素通りする。
14:00
ハシビロコウ
テレビでよく見るが、実物は初めて見た。ほんとに動かない。
魚を取るのに動くと逃げられるから、こういう生態になったらしい。
長時間じっとしていることは、親から学んだのか、それとも遺伝子に刷り込まれた本能なのか?
魚がいないところでも、また動物園でも動かないから後者のような気がする。

ハシビロは見た目でわかるがコウは何か?
漢字は嘴広鸛。鸛はコウノトリである。

アフリカの動物たちという一角に来た。
14:02
ようやくキリンがいた。隣はサイ。

大人になっても一番見たいライオンはここにもいない。どうも上野にはおらず、東京都は多摩で飼っているらしい。
男の子は動物園で一番見たい動物だろうから、日本で一番有名な動物園にライオンがいないとは、意外だった。

動物はほとんどおらず、暑くて、人ばかり。
園内飲食店はどこも行列。一度園内に入ったら上野駅周辺の飲食店まで行くわけにもいかず、「お腹が空いた~」と子供に言われたら、じっと並ぶしかない。
動物はおらず、疲れるばかりで、親は大変だ。

こちらは気楽だ。
しかし、上野動物園には申し訳ないが、無料で入ったこともあり、素通りに近いほど、ずいぶんと雑に見てしまった。

当初、東京都美術館を出たら、裏の奏楽堂前から台東区のコミニティバス「めぐりん」で団子坂下まで来て帰宅する予定だった。(冬だったら美術館から歩いて2.4キロ、34分)。
しかし、動物園に入って池のほうに降りてしまった。
キリンのエリアのそばに池之端門があり、そこを出ると不忍通り。もうイソップ橋を上がって奏楽堂前まで行くのは遠いので、不忍通りから帰ることにした。

動物園を出ると、不忍通りにお神輿がいた。
このあたりは根津宮永町だったかな。

暑くて疲れた。
珈琲館があったので休もうと覗いたら満席。
今日は根津神社の祭礼で、法被を着ていた人もいた。

地下鉄1駅乗っても団子坂を上がらなくてはならない。
都バスで帰っても、バス停から狐坂を上がらなくてはならない。
文京区コミニティバスに乗れば、坂を上がって家のそばまで行ってくれるので、もう少し歩くことにした。
14:21
赤札堂の交差点から不忍通りが通行止めになっていた。
さすが根津神社。

せっかくここまで歩いてきたので根津神社を覗いてみることにした。
14:26
不忍通りも44年前は二階建てが多かったのに、いまや高層マンションばかり。
しかし通りから一歩中に入ると昔の家が残る。
根津神社の氏子は23町あり、今年は23の神輿の連合宮入があるようだ。
千駄木は団子坂上の北側(旧林町)は天祖神社だが、南側(千駄木二丁目東町会・西町会、上千駄木町会)と、林町の坂下、不忍通り沿い(千駄木三丁目北町会、千駄木三丁目南部町会)の4つは根津神社に属する。

天祖神社の氏子は13か町だから、ざっと倍である。
14:28
久しぶりに根津神社境内を通って、裏の日本医大か坂下のみずほ銀行前でBーぐるに乗ろうと思ったが、人の多さに通り抜ける元気がなくなった。

再び来た道を不忍通りまで戻り、みずほ銀行前からB-ぐるを待った。
その前を千駄木から来た神輿が3台過ぎた。
23台、どうやって境内に入るのだろうと思うが、見に行く元気はなく、14:51発のバスに乗った。

やっと家について、一息した。
喫茶店に入らなかったので少しぜいたくしようと冷蔵庫からハーゲンダッツを出して食べた。
暑かったが、ま、絵も見て、いい日だった。

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7 件のコメント:

  1.  フォロワーではないのに、突然のコメントで失礼します。
     お気付きのように、上野動物園は寛永寺の跡地にありますが、寛永寺創建以前は藤堂藩下屋敷でした。その屋敷で1630年に没した藤堂藩祖・藤堂高虎は屋敷内に葬られ、その墓所が今でも上野動物園内に残されています。https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/uenopark_tour/index.html

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  2. ありがとうございます。寛永寺前は藤堂の他に津軽家、堀家の下屋敷もあったようですね。藤堂は寛永寺が来る前から東照宮を屋敷内に祀っていたとか。墓所が今も動物園にあるとは知りませんでした。また行く機会があれば探してみます。公開されていなくてもだいたいの場所が分かれば、地形、敷地との関係などから面白いかと。

    それにしても、五重塔は東照宮参道側からは柵に囲まれて近づけないのだけど、ただ単純に寛永寺が公開していないだけかと思っていました。柵は動物園だったのですね。これまで柵内に誰も人を見なかったのは、たまたま私が通る時に動物園入場者が誰も近づいてなかったということですね。まあ、みんな動物のほうに行くでしょう。

    プロフィールのマークが桔梗とはAKECHIさまも歴史がお好きなようで。

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  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  4. 不躾なコメントに返信下さり、ありがとうございます。
    それで図に乗ってしまい、もう一言。(ご存知かも知れませんが)藤堂屋敷は私たちの母校に大いに関係しています。森鴎外は「雁」の中でこう書いています。
    「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。(略)腕の太さの木を竪に並べて嵌はめた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、(略)野獣のような生活をしていた。」
    ただ残念ながら、鴎外先生は2か所勘違いされています。「雁」の主人公が入学した1875年頃はまだ「大学」ではなく、「東京医学校」でした。もう一つは、医学校の場所は「下谷」ではなく「下谷和泉橋通」の(下谷側ではなく)和泉橋あたりだったのでした。その東京医学校=藤堂屋敷の場所には今三井記念病院が建っています。
     P.S.プロフィールを桔梗にしたのは、歴史が好きだから、という訳ではなく、我が家の家紋だからです。

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  5. 藤堂氏に関しては千駄木菜園でもいくつか書いています。例えば、https://tkobays.blogspot.com/2021/04/30.html
    https://tkobays.blogspot.com/2019/07/blog-post_13.html
    よろしければどうぞ。

    水色桔梗がご家紋とは由緒正しい明智氏なんですね。土岐氏の流れをくむ名族。すばらしい。家系を辿ればいろいろ面白いことが分かりそうですね。

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  6. 藤堂関係の貴ブログ拝読しました。
    不躾どころかまさしく「釈迦に説法」でしたね。反省しきりです。

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  7. いえいえ、自分の記録用にだけ書いているとはいえ、誰かが読んでくださっているのは嬉しい限りです(フォロワー3人、page viewを見るとほとんど読者はいない)。これからも何か気が付かれましたらお便りください。

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