2024年9月16日月曜日

院展と東京都美術館、谷中の日本美術院

お隣の伊藤さんに院展の招待券を頂いた。

院展は日本美術院の展覧会である。
日本美術院は谷中と縁が深い。
創立者の岡倉天心、初期メンバーの横山大観、菱田春草らは谷中に住み、日本美術院の事務所は、谷中六阿弥陀道の現岡倉天心記念公園の天心邸に置かれた。(明治40年の地図には南隣)。
大正2年、天心がなくなり、事務所は大観らが中心になって大正3年、三崎坂うえ、谷中瑞輪寺の参道西側に移転、今もそこにある。
だから、日本美術院は、この千駄木菜園のブログ、散歩編「お出かけ・ご近所」カテゴリーに何度も出てきた。

(谷中というのは、東京美術学校に対抗した明治美術会(中村不折、浅井忠、荻原碌山ら)の後身、太平洋美術会のゆかりの地でもあり、事務局は戦前に谷中真島町、今は西日暮里・富士見坂にある)

さて、谷中三崎町に移転した大正3年(1914)、大観らが中心になって日本美術院を再興し(このとき洋画部、彫刻部もできたが、その後日本画だけになった)、その年、日本橋三越で展覧会を開いた。これが再興第1回院展で、今年が再興第109回である。
2024₋09₋15
会場は東京都美術館。
ここはロビー、レストランなどは展覧会入場者でなくても利用できる。西洋美術館などもそうだが、なぜかこちらのほうが入りやすい。無料で休憩できるベンチ、椅子も多く、学生時代から上野公園を散歩するときはふらりと立ち寄ったりした。
11:50
入り口は地下。
地下にすることで外光が入るフロアが1つ増え、建物全体の高さを抑えられる。
1926年実業家佐藤慶太郎からの寄付を受け、日本初の公立美術館として開館したが、老朽化のため、1975年前川国男設計で新しく建て直した。
企画展は入口の東側、また、普通の展覧会は西側の公募棟で開かれる。公募棟は地下1階(ロビー階)から地上2階まで、公募展示室が4つずつ、全部で12ある。

メインの公募展示室は公募団体と学校教育機関に貸し出し、地下2/3階のギャラリーA、B、Cは。3人以上で展覧会の「企画案」を持っている個人グループに貸し出すという。
年間260もの展覧会が開かれ、「公募展のふるさと」といわれるらしい。
11:51
ロビー階・公募展示室のホワイエ
2012年に改修したというが、この景色は1980年ころと変わらない。

11:50に待ち合わせであったが、少し早く着いたらしい妻がカフェで座れたとラインに入ったので急ぐ。レストランミューズは行列ができていたが、ここ(カフェ・アート)は2,3人待って座れたという。院展の最終日前日というより3連休の中日のせいか、どこも混雑している。客の回転はレストランのほうより速いから、こちらで正解。
11:58
カレー 950円
配膳下膳と水はセルフ。
ここは精養軒が運営している。窓の外には奏楽堂が見える。

あっという間に食べ終わり、館内を少し見た。
レストランの行列はさらに長くなっていた。

院展は公募式・日本画の展覧会である。
公募だから誰でも応募でき、審査され入選すれば展示してもらえる。

院展は初めてだが、日本画は好きである。
大観、春草、前田青邨、下村観山、鏑木清方、東山魁夷、平山郁夫など、好きな絵はみな日本画である。
日本画は墨、岩絵の具、和紙、絹を使うというのが条件らしいが、写真のような写実を追わず、陰影がなく、表現が簡潔というのが、いかにも和食、数寄屋建築にも通じる、さっぱりとした味になっている。

初めて日本画展を見たのは、奇しくもここ、まったく同じロビー階の公募展示室だった。
池田さんと付き合い始めたころだから大学院の2年生、1980年9月か10月、公園内をぶらぶらしながらたまたま建物に入って無料の展覧会があったから覗いただけだった。
しかしいい絵がいっぱいあった。田植えが終わったばかりの田んぼの水が感動するくらい緑の中に光っていて、まだ覚えている。特に絵に興味があったわけでないから、作者の名前も見ず、もう一度見たいが手掛かりがない。
44年前、あれは何の展覧会だったのだろう? 院展のように150号のような大きな絵ではなかったが、レベルは高く、しかし無料だった。(院展は1000円)
妻に当時のことを聞いても、彼女はホワイエの椅子で居眠りしたことしか覚えていなかった。

ちょっとわくわく緊張しながら入っていく。
いきなり日本美術院賞(大観賞)・東京都知事賞の絵が目に入ってきた。
12:19
「井の頭(11)―樹下生生(せいせい)」樋田礼子

絵はどれも大きい。
150号(長辺が 2.27 メートル)。
日本画の全部がホテルのロビーに飾るわけでもなかろう。
描くほうも飾る(見る)ほうも大変だから、もっと小さくても良いと思うのだが。

12:30
今回私が一番気に入った作品。

ジャンルは日本画でも、例えば、逆光に立つ暗い女性とか、水中に魚と絡む人間とか、変な形の木とか、夢の中のような、つまり、絵の意味が本人しか分からないような作品は苦手である。私は、単純に、きれいだと思ったものを再現しようと描いたのだろうな、というような分かりやすい絵が好きだ。
自分の好きなものを描いて売れるに越したことはないが、人に見せるなら自己満足だけではダメだろう。
12:55
日本画であるが題材が現代風。
巨匠らの時代からみると、日本画も変わってきた。
しかしこの作品は嫌いではない。
技術や色彩感覚は、どの作者もすぐれているから、題材の選び方、表現方法が大きい気がする。

2024年、復興第109回院展は、同人33、一般(アマ、プロ、無鑑査作品も含む)が243、合計276作品が、展示された。
ここで同人というのは日本美術院のただの正規会員というわけでない。入選すると初めて「研究会員」(現在570名)となり、その後も入選や受賞などキャリアを重ねることで「院友」648名、「特待」160名、「招待」2名とステップアップし、最後に「同人」(37名)となれるらしい。

ちなみによく聞く日展は日本美術展覧会のことで、院展と同じ公募展である。1907年(明治40年)に始まった政府主催の官展の流れをくむ。かつては文展(文部省美術展覧会)、次に帝展(帝国美術展覧会)と呼ばれたが、戦後1946年民営化されてから日展となった。第1回文展から数えれば2024年で117回である。こちらは日本画だけでなく、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門がある。2006年まで東京都美術館で開催されていたが、改修工事を機に、広い六本木の国立新美術館に会場を移した。

同じく公募展の二科展は、1914年(大正3年)文部省美術展覧会(現日展)から分離独立したもので、絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門からなる。こちらも国立新美術館。

この日は、院展がロビー階(B1)の4つの展示室全部を使っていたが、1階、2階は主体展、水彩人展、全展、新院展などが開かれていた。無料の展覧会も多く、ギャラリーでも何かやっていた。しかし疲れたので、次回上野に来たときは覗いてみようと、帰宅した。

夕方、翌朝のパンとレタスがないことで買い物を頼まれ、不忍通りまで降りた。
ついでによみせ通りから入ったところにある日本美術院ゆかりの谷中八軒屋跡の写真を撮って来た。
16:51
谷中八軒屋跡
月に1回くらい日暮里駅、谷中方面に行くときの通り道。
明治31年、岡倉天心は校長だった東京美術学校を排斥され、同時に連帯退職した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと日本美術院を立ち上げた(谷中、大泉寺)。そしてここに8軒の茅葺住宅を建て、大観、観山、春草、西郷孤月、寺崎廣業、小堀鞆音、岡部覚彌、剣持忠四郎の8人と、その家族が住んだ。ここでの生活は困窮を極めたらしい。

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