2024年10月16日水曜日

山形9 庄内藩と鶴ケ岡城、藤沢周平

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄の城跡と町をみたあと最上峡をJR代行バスで通って、余目から再び電車に乗り鶴岡に来た。

庄内は酒田と鶴岡の二つの市があり、北前船でにぎわった日本海の港町・酒田に対し、鶴岡は城下町であったから、もっと山が近い場所かと思った。しかし見渡す限り田んぼが広がる庄内平野の真ん中で、とても城を作るに適したところではない。

14:52
鶴岡駅
羽越本線の特急停車駅。
山形市に次ぐ県内第2の都市ながら駅の開業は1919年(大正8年)と内陸部(奥羽本線)と比べ割と遅い。
二階部分は、市内に多く残る明治時代の洋館をイメージして2014年にリニューアルされたもの。
14:52
駅前広場は広くない
鶴岡市は人口11万だが、面積が広い。2005年、温海町、朝日町、羽黒町などを吸収合併し、日本海側では新潟県に接し、内陸側では出羽三山も含み、東北でも一番大きい。市町村別でも全国10位である。(ベスト3はいずれも山岳地帯まで合併した高山、浜松、日光)

まず、庄内藩の鶴ケ岡城に行きたい。
駅から2キロくらい。
バスは調べるのが面倒だから、タクシーか徒歩だが、途中で何かを発見、感ずることを期待して歩くことにした。町の大きさも実感したいし。

歩く途中、商店街がない。
駅のすぐ近くに古い酒屋、工場のような建物があった。
14:57
JA全農山形・鶴岡倉庫
まだ細々と使われているようだが、移転、売却、再開発されるのでは?

15:05
突然農地があった。
大きな植木鉢にブドウの苗木が何十本も植わっていて、農事試験場のよう。
南に隣接する山形大学農学部の付属農園であろう。
15:07
その山形大学の敷地に入ってみる。
校舎に入る元気はなく素通り。

昨年行った岩手大学農学部、弘前大学などと比べると面白いものはない。
山形大学は戦前の山形高校、山形師範学校(以上山形市)、米沢工業専門学校、山形県立農林専門学校(鶴岡)が母体となったから、信州大学と同じタコ足キャンパスである。
15:11
南門(裏口?)から大学を出た。
駅を北端とする鶴岡市街
ずんずんと住宅街を南に歩く。
15:14
山形県立致道館中学校
ふつう小、中学校は市立で、高校から県立になるが、この旧藩校の名を冠した中学はふつうでない。
帰宅後調べたら、ここは中高一貫校で、2024年4月に開校したばかり。
女子高の鶴岡北高校と男子校の鶴岡南高校が合併し(少子化か?)、ここは北高の敷地。1897年(明治30年) 山形県西田川郡鶴岡高等女学校として創立、その校舎を使った中学校キャンパス。そして鶴ケ岡城のお堀に隣接する南高校が致道館高校のキャンパスとなった。

15:15
鶴岡市立荘内病院。521床。
1913年、東・西田川郡組合立荘内病院として開院。
1924年の鶴岡町の市制施行に伴い市立病院となった。
なお、庄は莊(荘)に対する俗字とされるが、江戸時代以降の文書では庄内が圧倒的に多く、荘内の使用は少ない。荘内銀行はもちろん庄内の銀行である(鶴岡に本店)。

15:17
荘内病院のはす向かい、日本キリスト教団鶴岡教会。
日本キリスト教団は、日本にある約1650教会・伝道所を傘下に置くプロテスタント系のキリスト教会の集まり。鶴岡市には荘内教会もある。
明治時代、信者に士族が多かったからか、城下町では古い教会がよくある。

徒歩28分で鶴ケ岡城の北東隅についた。
北に隣接して致道館高校があり、女子生徒がテニスの練習をしていた。
ここは先に述べたように鶴岡南高校のキャンパスで、明治21年(1888)西田川郡中学として創立した。1920年に鶴岡中学と改称、戦後に鶴岡一高、鶴岡高校、鶴岡南校と名を変えた。
卒業生に丸谷才一、藤沢周平、石原莞爾、大川周明、大井篤(海軍参謀、戦後に著作あり)などがいる。柏戸も在籍していた。テレビ中継で「山形県東田川郡櫛引町出身、伊勢ノ海部屋」という呼び出しが耳に残っている。

高校の前は道路を挟んで堀。
15:20
三の丸から見る二の丸の堀である。
東北地方の他の城と同様に、石垣はあまりなく大部分が土塁である。
15:22
輪郭式の平城である。
市名はツルオカ、本丸二の丸跡の公園も鶴岡(つるおか)公園という。
しかしお城は鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)と言う。
15:22
橋を渡ると二の丸

ここに最初に城を築いたのは、鎌倉時代に地頭として封じられ土着した武藤大宝寺氏である。戦国時代にこの大宝寺城は焼かれ、大宝寺氏は本拠を西方の海に近い山城・尾浦城に移した。その後、上杉が庄内を掌握したときは尾浦城を支配の本拠とし、大宝寺城を支城とした。先にここは城を作るような場所ではないと書いたが、おそらく土豪の館として出発したからであろう。

関ヶ原の後、最上義光が庄内を含む57万石の大大名となると、庄内地方の尾浦城、大宝寺城、さらに酒田にあった東禅寺城を整備拡張した。1603年、整備が終わると酒田の浜に大亀が上がり、これを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。この時、亀ヶ崎に対応してし大宝寺城も鶴ヶ岡城と名を変え、また同時に尾浦城も大山城と改称された。

つまり鶴ケ岡城は鶴のいる岡ではなく、単に亀ケ崎の対だった。しかし平城なのになぜ岡か? たんに鶴ヶ城にすると会津若松城と一緒になるからというのはナシ。崎の対が岡だった。
15:23
本丸の堀も残っている。

1622年、最上氏がお家騒動で改易されると最上領は分割され、庄内には徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠次の孫、酒井忠勝が信州松代10万石から14万石で移封された。佐竹、南部、伊達などの監視の役目もあっただろう。忠勝は、領内3つの城のうち鶴ケ岡城を本拠とし、大改修して城下を整備した。
15:24
本丸に入るとお城というよりどこかの城下町のよう。
左は宝物殿、右の塀は荘内神社。

15:26
荘内神社
祭神は以下の酒井家4人
初代忠次、二代家次、三代忠勝、九代忠徳、と書いてある。

しかし庄内藩の初代は忠勝である。
忠次は関ヶ原の前、慶長元年(1596年)に亡くなっており、庄内とは関係ないのになぜ初代か?
酒井氏は雅楽頭酒井氏と左衛門尉酒井氏の2系統がある。忠次は左衛門尉家の当主としても初代ではない(5代目)。初代というのは家康についたときを基準としたか。

なお、総武線浅草橋駅西口に左衛門橋がある。橋の北詰に庄内藩下屋敷があったことを、以前ブログに書いた。

また、祀られている九代藩主・酒井忠徳は、悪化した藩財政を再検するため豪商・本間光丘を登用して、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至った。1783年の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。文化2年(1805)には藩校・致道館を創設した。

荘内神社は明治10年創建。
明治初期、廃城された跡に旧藩主家を祀る神社を作ることが流行した。
東北地方には特に多い気がする。鶴岡のほかに、八戸の三八城神社(南部分家)、盛岡の桜山神社(南部本家)、米沢の上杉神社、上ノ山の月岡神社(藤井松平家)、新庄の戸沢神社などだ。

荘内神社の前が藤沢周平記念館。
15:27
市立藤沢周平記念館
藤沢周平は2,3冊しか読んだことがない。人情を中心とした時代小説より、史実が順に次々と出てくる歴史小説のほうを好んで読んだからだ。しかし定年退職して時間があるから有名なものだけでも読んでみようかな。

彼は1927年、市街の南西、東田川郡黄金村大字高坂(1955年鶴岡市に編入)の農村部で生まれ、実家は農家だった。武士が出てくる作品が多いが士族だったわけではない。
15歳で国民学校高等科を卒業し、旧制鶴岡中学夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。山形師範学校に進学すると校内の同人誌で小説を書き始める。1949年に卒業した後は鶴岡近辺の教員となるが、1951年肺結核となり休職。1952年に東京、東村山の篠田病院に入院した。

1957年退院するも郷里で教職の就職先が見つからず、練馬区に下宿して業界新聞に勤めた。しかし倒産が相次ぎ、数社を転々とした。その後、結婚、業界紙の記者となり、編集長になった。清瀬、東久留米と引っ越しながら小説も書き続け、1971年、ついに 『溟い海』がオール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、1972年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入った。
ペンネーム藤沢は、高坂の西にある地名。

1997年、肝不全のため国立国際医療センターで死去、69歳。
写真などから我々よりずいぶん上の世代だと思っていたが、いつの間にか私も彼の亡くなった年に近づいた。

藤沢記念館の前を素通りして、本丸から出ようとすると橋の手前に洋風建築物があった。
15:30
大宝館
大正天皇の即位を記念して建てられた。開館から戦前にかけては、主として物産陳列場として使われ、1951年から1985年までは市立図書館となった。現在は鶴岡ゆかりの人物資料館になっている。入場無料だったが入らなかった。

ところで鶴岡ゆかりの人物とは誰だろう。
さきほど旧制鶴岡中学(鶴岡南高校)出身者について述べた。
ほかにはYKKの加藤紘一(中学途中まで鶴岡)、高山樗牛、渡辺昇一(あの東北弁は鶴岡弁だったのか)、ウド鈴木ら。
鶴岡中学出身の丸谷、石原らを含めて、こうした人々の資料が展示されるのだろうか。

私が知っている鶴岡出身者は一人だけ。
田辺製薬の研究所時代に少しだけ重なった中西啓さん。長井出身の斎藤実氏、山形の飯野正光先生、東根の小山田英人氏に次ぐ、山形県人4人目である。
彼は学習院大学理学部出身で1992年に入社、天然物化学が専門だった。分野も建物も違ったし、そのうち組織替え、人事異動があったからほとんど話す機会がなかった。鶴岡出身と聞いても、こちらに知識がなかったし、当時は歴史にも大して興味がなかったから、庄内藩や鶴岡が話題になることはなく、わずかにだだちゃ豆という、どうでもいい話をしたことだけ思い出す。
今、彼はどうしているだろう?

(まだ続く)

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