2024年10月8日火曜日

山形7 代行バスから見る最上峡、俳句とおしん

山形県に日帰りで来て、米沢から奥羽線の各駅停車に乗って北上し、山形、新庄の城下町を見た。

次の鶴岡に行くには新庄から陸羽西線に乗るのだが、最上川の狭い谷に自動車専用の広い道路を作るため、その工事で列車は2022年から運休になり、その沿線は代行バスが走っている。
しかし、これから作る自動車道路だけの為に、唯一の公共交通手段だった鉄道を2年以上も運休させてしまうというのは、本末転倒という気がしないでもない。それだけ鉄道利用者が少ないということか。
12:54
鉄道の代行バスだから陸羽西線の各駅に停まる。
新庄を出ると、升形、羽前前波、津谷、古口、高屋、清川、狩川、南野、余目(終点)である。 しかし13:00発のバスは「急行」で古口だけとまり、余目までいく。
13:00
鉄道と同じように、新庄駅を時間正確に出発。

55席の大型観光バスに乗客は8人。
右側の窓側に座った。今回の旅行は例によってほとんど何も準備しなかったが、最上川がバス(国道)の右側を流れることだけは前もって調べておいた。

バスは新庄駅を出て南西に向かい、国道47号線(鶴岡街道)に入る。
しばらく行くと最上川にぶつかり鉄橋を渡り、左岸(南側)に出た。
この橋は本合海(もとあいかい)大橋と言い、最上川がヘアピンカーブしている箇所で、元禄2年(1689)、芭蕉はここで乗船し、庄内まで下った。
13:18
本合海大橋を渡ると最上川がすぐ右に見える。
ここから庄内平野まで、ずっと川に沿った一本道である。

今回山形に来た一番の目的は、最上川を見ることだった。
この川は山形県そのもの、と言っていいと思う。
13:18
球磨川、富士川とともに日本三大急流として知られるが、それよりも流域の広さに魅力がある。
最上川流域は、山形県の面積、人口ともに約 8 割をしめ、全 35 市町村のうち 33(13 市 17 町 3 村)が関わる。まさに山形県の母なる川である。

最上川流域(オレンジ色)

全国的に見ても長さ229 kmは、一つの都府県のみを流域とする河川としては日本一である。流域面積は7,040 km2で、以下のように9位。

日本の川の流域面積ベスト10
1位 利根川 16,840km2 渡良瀬、鬼怒、霞ケ浦
2位 石狩川 14,330km2
3位 信濃川 11,900km2
4位 北上川 10,150km2 
5位 木曽川 9,100km2 長良川、揖斐川
6位 十勝川  9,010km2
7位 淀川     8,240km2 琵琶湖、滋賀、三重
8位 阿賀野川 7,710km2 猪苗代、山間部が多い
9位 最上川 7,040km2 
10位 天塩川 5,590km2 

しかし、例えば、渡良瀬川、鬼怒川、霞ケ浦は利根川流域と思うだろうか。
3位信濃川も長野県内では犀川、千曲川に分かれ、一本の川と認識されていない。5位木曽川流域などは長良川、揖斐川流域も含まれ、世間が思う木曽川の流域はずっと狭い。
7位、8位の淀川、阿賀野川なども琵琶湖、猪苗代あたりの住民は自分の川が淀川、阿賀野川の上流という意識はない。
その点、最上川は下流から上流まで、流域のほとんどが最上川なのである。 

河口に立って上流を思うとき、最上川の人文、地理の豊かさは木曽川の比ではない。
13:18
最上川に沿って国道47号も大きく右にカーブした。
そのため少し先の道路に落石防止の屋根がついているのが見える。
手前の木の枝に枯草が引っかかっているのは、7月の山形豪雨の名残か。
13:19
相変わらず左は山だが、このあたりは右の対岸に鮭川村からの鮭川が合流し、わずかばかりの平地がある。
13:19
今回、出発前に山形県の地図を見ていて一つ最上川で誤解していたことに気が付いた。
長年、最上川は、米沢から南陽、上ノ山、山形、東根を通る奥羽本線と国道13号線の山形県の大動脈に沿って北上していると思っていた。
ところが、この川は米沢から西北の長井盆地、山間部に入ってしまう。そして寒河江から東に転じ山形の大盆地、天童の北に出てくる。だから山形市民などは最上川と聞いても身近には感じないわけだ。

昔々、生活が村のまわりだけだった時は、川など固有名詞がなく、裏の川とか大川とか清水の川、鮭の川などと呼んでいただろう。しかし大きな川を区別しなくてはならなくなったときは上流の地名をつけたに違いない。(下流に行くにしたがって川は合わさるから、下流の地名を着ければみな同じ名前になってしまう)
だから最上川というのは庄内の人々が最上郡から来る川として名付け、その名が最上郡、村山郡にも広まったのだろう。
13:21
最上郡は8世紀の初めには陸奥国に属した。712年に置賜郡とともに出羽の国になったことは少し前のブログに書いた。その後、最上郡から村山郡が分かれた。このときは今と逆で北が村山郡だったが、太閤検地のときに入れ替えて今と同じになったらしい。そんなこともあり、江戸時代に紅花で有名な最上地方と言えば、最上郡、村山郡両方を指したようだ。
たとえば最上徳内(旧姓高宮)は今の最上郡でなく、村山郡楯岡村(現村山市)の出身である。

いま最上郡は新庄市を中心とする山ばかりの郡で、最上川に沿って下流に行くと逆に山が迫ってくるという地勢である。村山地方が52万人(全県の50%)を数えるのに対し、最上地方は6万6千人(6.4%)に過ぎない。
13:22
鉄橋が見えた。
最上川の北を通っていた陸羽西線が橋を渡り、川と道路を越えて、それの南側(山側)に来る。
このJR路線は全線に「奥の細道最上川ライン」という愛称がある。
13:23
川の中に石が見える。
最上川流域は明治以後、欧米の技術を使って灌漑事業が進んだ。
とくに戦後は米沢平野、泉田川(新庄盆地)、諏訪堰、村山北部、といくつもの国営農業水利事業が行われ、水量が減った。
奥の細道の芭蕉、いかだで下ったおしんの時代はもっと流量が多かったに違いない。

このあと対岸に見えた平地が消え、両側に山が迫る。いよいよ最上峡である。
最上郡戸沢村の古口地区から庄内町の清川地区の区間で、全長15kmに亘る。よく聞く最上峡はもっと上流かと思っていたが、山形の盆地群をゆったり流れてきた下流にある。これは伊那盆地の下流に天竜峡があるのに似ている。上流に大盆地がある山間部というのは、流量と流速を高める条件なのであろう。

やがて右側に最上峡観光船乗り場の看板があるあたりで、バスは反対方向の左に曲がった。
すなわち、国道47号すなわち最上川から離れた。狭い道路を少しゆくと突き当りが古口駅。急行の代行バス唯一の停車駅である。
戸沢村の役場と郵便局がある駅だが、代行輸送が始まる前の鉄道が動いていた2021年で1日の利用者数が16人だった。片道で一人として数えるから実質8人ということだ。

急行(バス)停車駅という沿線一番の駅でこれでは、道路工事が終わって運休期間が終わっても、廃線になるのではないか? 

最上峡というほとんど平地がない地形を考えれは、住民もあまりいないのだろう。山形県で3つしかない村の一つだし。(ちなみに大蔵村も鮭川村もすべて最上郡のこの周辺にある)。

古口駅から再び国道すなわち最上川に戻ると南から合流する川がある。
13:31
角川(ツノガワ、手前)と最上川
遊覧船が川を上っていく。

最上川船下りは、ここ古口に本社を置く最上峡芭蕉ライン観光株式会社が行っている。

コースは3つあり、
1.定期航路(古口港 - 草薙港 12km、所要時間約1時間、2800円)
2.白糸の滝航路(草薙港 - 草薙港 520m、所要時間約30分、要予約)
3.本合海航路(本合海港 - 古口港 8.5km、所要時間約50分、要予約)
である。

周遊の2をのぞいて基本は下りである。昔と違ってエンジンがついていても乗客を乗せて最上川をさかのぼるのは苦しいからだろう。
1,2は両側が山の最上峡、3は片側が平地だが、芭蕉と同じ場所で乗船して下るという意義がある。

この観光船は、旅行新聞社(株)主催「第8回プロが選ぶ水上観光船30選」(2024)で東京湾クルーズ、京都保津峡下りなどを抑えて、4年連続の1位を受賞している。
13:34
いつのまにか陸羽西線(奥の細道最上川ライン)が国道と最上川の間に入ってきた。
電信柱の枯れ草に洪水の跡が見える。
長期運休中のレールは泥に埋まり、さぞかし錆びていることだろう。
13:34
電信柱だけでなく、樹木にも枯れた草。
道路のガードレールも水没したようだ。

JR陸羽西線の愛称には「奥の細道」、観光船には「芭蕉」という名前がついているからには、最上川と芭蕉について無視するわけにもいかない。
山形県観光マップ「奥の細道」出羽路編

最上峡芭蕉ライン観光(株)の船頭さんはおそらく次の句を紹介するに違いない。
 ・五月雨を集めて早し最上川
芭蕉が新庄の南、大石田に泊ったとき作ったのは「集めて涼し」という句だった。しかし本合海で乗船し、この最上峡を通ったとき、その水量に圧倒的され、「集めて早し」となったらしい。

後世の与謝蕪村(1716₋1784)は芭蕉(1644ー1694)を尊敬すること篤く、実際に「奥の細道」をたどり、最上川の句を作っている。有名な
 ・さみだれや大河を前に家二軒
である。
絵師らしく絵画的である。わずか17文字で読み手に二次元(三次元?)の情報を与えるというのは素晴らしい。
蕪村の句は好きで、
 春の海 終日のたりのたり哉
 易水にねぶか流るる寒さかな
 菜の花や月は東に日は西に
 寒月や門なき寺の天高し
 帰る雁田ごとの月の曇る夜に
も情景が浮かぶ。

一茶(1763- 1828)は1789年、27歳の時に東北地方への俳句修行の長旅に出ている。芭蕉、蕪村のことは意識していた。
 ・蝉鳴くや空にひっつく最上川
の句がのこっている。一茶は芭蕉、蕪村が風景だけを詠んでいるのに対し、自分の心情、感想を読み込むという近代的な俳人の魁であったが、この句に関しては良さがよく分からない。

正岡子規(1867- 1902)は蕪村と芭蕉の最上川の句を評して蕪村のほうが優れているとした。それまで芭蕉のほうが圧倒的に有名だったから、この評価は人々に衝撃を与えたという。

子規は見たものを(技巧に走らず)そのまま詠むという写生主義を唱えたから、この評価はうなづける。彼もまた芭蕉の足跡を訪ねる旅に出て、
 ・ずんずんと夏をながすや最上川 
を残した。
さすがである。蕪村が絵画的に大河を表したのに対し、さらに水量を具体的な運動として表現している。

恐らくほかの川でこうした有名人が競作?するようなことはないであろう。
山形に行くと決めた時、そんな最上川をどうしても見たかった。
13:38
また遊覧船が見える。
写真では上っているのか下っているのか不明。

江戸時代、山形県内陸から庄内に出るのは最上川の船だった。いま戸沢村役場のある古口集落には新庄藩の船番所が置かれ、舟運が隆盛を極めた。大水がでて船が使えないときは脇街道として板敷峠越えがあったが険しく、時間もかかり、あまり利用されなかった。
明治10年、最上川左岸に今の国道47号のもととなる磐根新道が開削され、ようやく陸路も通じた。

朝ドラ「おしん」(1983)は1年間の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録した。有名な場面に、数え7歳で材木問屋に米一俵と引き換えに売られてしまい、雪の最上川をいかだで下るシーンがある。あれは左沢(あてらざわ)の材木問屋だからここではなくて寒河江の西の最上川である。
そのあと、今度は8歳で酒田の米問屋・加賀屋に奉公する。このときは最上峡に陸路はあったがおしんは船だったかどうか。磐根新道はまだ狭かった。冬季は雪で閉ざされ、やはり船しかなかった。

ちなみに、おしんの人気は山形で数々の便乗商品を生んだ。「おしんまんじゅう」「おしん酒」などの土産物はわかるが、最上峡舟下り「芭蕉ライン」も「おしんライン」に改名されたという。とすると、やはりおしんは船で酒田に出たのだろう。
13:39
対岸に滝と赤い鳥居が見えた。白糸の滝である。
その少し下流に観光船の終点、草薙港がある。

13:44
草薙を過ぎて最上峡も終わりに近い。
対岸は一面ソバの畑。

13:45
橋のように見えるのは、さみだれ大堰。
庄内平野への灌漑を目的に建設された可動堰である。
ふたたび落石除けの庇の下を通った。
ここで最上郡(戸沢村大字古口)から東田川郡(庄内町大字清川)に入る。

郡が変わるとともに最上峡は終わる。

(続く)

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