2024年10月10日木曜日

山形8 庄内町余目駅の清河八郎と月山

9月19日、山形県に日帰りで来て、米沢から奥羽線の各駅停車に乗って北上し、山形、新庄の城下町を見て、JR陸羽西線の代行バスで最上峡を通った。

両側に山が迫る最上峡が終わると同時に、最上郡から東田川郡に変わり、最上川が消え、大平原に出た。

13:59
果てしなく続く穀倉地帯。
庄内平野は(日本にしては)山が遠い大平野であるが、東の端は山峡から出てくる最上川の扇状地のように見える。扇状地は湧き水地帯より上は水田ができないものだが、さみだれ大堰のおかげか。
14:04
右手に山が見えた。方角的にたぶん鳥海山だろう。
この山を初めて見たのは1992年4月1日早朝。秋田市で開かれる日本生理学会(4/2-4)に行く途中。本来1日の昼に出発するところ、急遽(1時間前に思いつき)前日3月31日の大宮発23時ころの夜行列車に飛び乗った。ボックス席の座席がずれて平らになり居酒屋の小上がりのようになる構造で、4人分のスペースを独占して寝られた。朝目覚めて車両連結部の洗面所に行く途中、窓の外に雪をかぶった大きな山が見えた。朝日が当たり神々しいほどだった。

バスは右折し水田地帯から町中に入っていく。
14:12
余目(あまるめ)駅到着
ここは新潟から鶴岡、酒田を経て秋田に向かう羽越本線の駅で、新庄からの陸羽西線の終着駅である。代行バスは新庄とこの駅の間を結んでいる。

鶴岡行きの電車の発車まで少し時間があった。
14:13
駅の待合室に清河八郎コーナーがあった。
関連図書が自由に読める。
「維新の魁、清河八郎を大河ドラマに」という幟があったが、どうだろう?

清河八郎(1830 -1863年)は、最上峡の出口、代行バスが通って来た旧田川郡清川村(現庄内町)の庄内藩郷士・齋藤家に生まれた。斎藤家は酒造業も営み、庄屋格の家柄だった。彼は早くから学問に目覚め、江戸に出て神田お玉ヶ池にある東条一堂の塾に入門。さらに北辰一刀流の千葉周作の玄武館で剣術を学び頭角を現す。やがて自身で文武の塾を開く。

八郎は尊王攘夷思想に傾いていき、桜田門外の変(1860)のあと、山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成し、自身は盟主となる。幕府から危険人物とみられ逃亡の身となるが、京都、九州で多くの攘夷志士と知遇を得る。

そして幕政が改革され実権を握った松平春嶽に、山岡鉄舟らを通じ、浪士組の設立を提案。
浪士組は江戸の浪人をあつめ上洛する将軍家茂の警護、さらには京都での治安の維持に努めるというもので、これに春嶽が乗った。同時に大赦によって(役人を切ったという)罪を許された。
芹沢鴨や近藤、土方、沖田ら234人の浪士組が小石川伝通院に集合、京都に出発する。ところが京都についた後、八郎は「浪士組は幕府を欺いて作ったものだ、真の目的は尊王攘夷」と、浪士組を幕府でなく朝廷の下に置くことを宣言した。
(これに驚いた芹沢、近藤らは、たもとを分かち、のちに新選組を結成。当初の目的通り攘夷志士の取り締まりにあたることになる。)

一方幕府は、浪士組に江戸に戻るよう命令。戻った八郎は討幕を計画、それに先立ち横浜の外国人居留地焼き討ちで攘夷を実行しようとした。しかし、京都で完全に幕府と対立していたため狙われ、幕府の刺客に暗殺された。享年34。

これで大河の主人公になりうるか?
と思いながら駅の外に出た。
14:17
庄内町は細長い。余目駅は西の端で、東の端、清川から立矢沢川の谷が南東に細長く伸び、月山まで続いている。

芭蕉は月山(標高1984メートル)に登っているが、当時の46歳はどのくらい元気だったのだろう? 彼は清川から立矢沢川を遡ったのでなく、西の旧立川町から羽黒山南谷別院(現鶴岡市域)にいき、そこで6泊してから月山に登頂、頂上小屋で1泊して、さらに湯殿山にも寄っている。
14:18
駅前の小さなロータリーに塔が立っていて、町自慢が掲げてある。
「月山山頂の町」
「コシヒカリの祖先・亀の尾発祥の町」
2つとも、なんとなくほほえましい自慢である。

亀の尾は農事試験場で作られたのではなく、明治時代に庄内町の篤農家・阿部亀治が見つけたらしい。明治以前から庄内藩の影響もあり、熱心な農家が多かったようだ。ササニシキも亀の尾の子孫らしい。

鶴岡への電車は14:27に余目駅を出た。
14:29
庄内平野は広い。
もちろん関東平野、濃尾平野などは広いはずだが、車窓に人家がなく一面稲穂という景色が良い。
14:39
月山の方角を見るが雲がある
あの向こうに午前中通過した山形・村山地方があると思うと山形県の広さが感じられる。

ずっと遠くの山々を見ていて森敦の「月山」(1974)の一場面を思い出した。
冬に行き倒れになった旅人を雪の中から掘り起こし、先のとがった丸太を肛門から差し、火でいぶしてミイラ(即身仏)をつくる。村人以外には秘密だった小屋をのぞいた主人公は、煙の中に串刺しにされたカエルのような姿で脂がぽたぽたと落ちている様子に仰天した。(記憶だから正確でないかもしれない)
その舞台はここ庄内地方の山間の部落だったが、どこだったのだろう?

数年前、出産についての講義で人間の骨盤の穴を説明したことがあった。このとき穴に丸太を通すと首まで行くという話をしたのだが、芥川賞作品の「月山」を知っている学生はいなかった。

日本に十数体あると言われる即身仏のうち、山形県では6体が公開されており、観光案内所にはパンフレットもあった。

・・・・
電車の中で朝からあちこちでもらった地図やパンフレットを整理した。
余目駅でも清河八郎記念館のパンフレットをもらった。
そういえば、清河八郎の墓は文京区にあり、以前伝通院の墓域を目的なく歩いていて偶然見たことがある。手塚治虫「陽だまりの樹」でも出てきた。

年を取ってくると過去にたまたま見たものが、10年、20年経ち、思いがけないところでつながってきたりする。自分の頭の中だけのことながら、加齢の数少ない楽しみの一つだ。

(まだ続く)

20200608 伝通院。於大の方から堺屋太一まで
20200606 三百坂と陽だまりの樹


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