10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。
上野東京ラインや湘南新宿ラインで平塚行きという電車に乗ることがあるが、平塚はほとんど知識がない。七夕が有名だと聞いてもどんなものか知らない。
初めて降りる駅は今どきのふつうの賑やかな、おしゃれな駅ビルだった。
11:49
平塚駅の北口
駅ビルはラスカ平塚という。
平塚は1932年、横浜、川崎、横須賀に次いで4番目に市制を施行した。湘南地域および相模川より西では初めて市となった。現在人口は県下6番目の25万7千人。藤沢44万、横須賀37万人より少ないが、湘南の中心都市である。
11:49 駅前地図
平塚市は相模の国一の大河、相模川(馬入川)西岸にある。
江戸幕府は東海道に橋をかけさせなかったから、馬入の渡しがあり、大雨の後などは「水待ち」という足止めがあった。
当然宿場ができた。
平塚宿は江戸から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢と来て7つ目の16里(62.4キロ)。東の藤沢宿からは3里半(13.8キロ)だが西の大磯宿までは27町(2.9キロ)しかない。相模川がなければ大磯まで歩いてしまったであろう。
(ちなみに、当時は1日30~40キロ歩き、江戸を出ると1泊目は戸塚か藤沢、2泊目は平塚か大磯に泊ったが、平塚は休憩の人が多かったようだ。平塚に泊る人は上方から下ってきた人が多かったか)
藤沢と大磯の間に宿場を作る場合、宿間の間隔を考えれば藤沢側の相模川東岸のほうが合理的だが、相模川はよく氾濫し、東側は湿地帯で、宿場を作れるほどの村がなかったからという。
駅前地図を見て西のほうに「平塚の塚緑地」というのがある。
ちょっと離れているのでレンタサイクルを借りることにした。
平塚市まちづくり財団が1回200円で貸している。グーグル地図では駅からすぐ西の線路際にあるようだったが、入口がずっと離れた場所のため探すのに時間がかかった。駅直結の駐輪場と一体となっていた。
北に向かって走り始めてすぐ、東海道に出た。藤沢と違って近い。
広い歩道を西に向かっていくと塚のようなものがあった。
12:09
平塚宿の江戸見附
藤沢宿京見附で述べたように、ここから西が平塚の宿場町だったということだ。つまり平塚宿は今の駅前からだいぶ西にあった。
見附は一里塚のように街道の両側に設置され、明治時代の写真では土台部は石垣、上に竹矢来を組まれていたようだが、それが再現されていた。
そばの説明板を読めばすぐ東に加宿平塚新宿というものがあったそうだ。
宿場というのは一般人を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが建ち並び、それで利益を上げた。しかし、地子(じし。農村の年貢に相当)免除などの特典もあったが、公用のための人馬、問屋場、本陣、脇本陣などを常備する義務を負った。1601年に開かれた平塚宿では利用者の増加によって、1651年、東の八幡村が助郷さらには加宿となり、平塚宿に加えられた。
ここと相模川の間に平塚八幡があり、そのあたりだろうか。
つまり、東海道線の平塚駅は加宿平塚新宿の前にできたということだ。平塚宿と今のJR駅の離れている理由が分かった。
なおも自転車で旧東海道を西に走る。相変わらず歩道まで広い。しかし他の街道筋ならわずかばかり残るような古い建物が一つもない。
途中で右(北)の住宅街に入った。その道も広い。
何の知識もなく平塚に行ったら、道路の広さを一番感じるだろう。
他に類を見ない道路の広さは1945年7月16日深夜の平塚大空襲が関係する。
戦前、平塚には海軍火薬廠(現在の横浜ゴム周辺)のほか、横須賀海軍工廠造機部(現在の平塚競輪場あたり)、第二海軍航空廠補給部(JT平塚工場のあと、アークスクエア湘南平塚)、日本国際航空工業(のちの日産車体、相模川西岸)などがあった。
投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われ、死者は300~363人だったが、当時の市域10,419戸中の8,263戸が全焼、消失した。
戦後始まり、日本七夕三大祭り(仙台、平塚のほかは安城または愛知一宮)の一つとなった平塚七夕も、焼け野原からの復興祭りが始まりと言われる。
そうこうするうちに、今回一番の目的地、平塚の塚についた。
12:16
平塚の塚緑地
日曜だが誰もいなかった。
ふつう地名には歴史がある。
歴史もない小さな字が合併でも生き残り大きな地名になることもあるが、平塚は違う。
桓武平氏の祖といわれる高見王の娘、すなわち高望王の妹、平真砂子が857年、都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったという。土地の人々は平氏の高貴な娘の塚、また風化して平らになった塚として平塚と呼んだという。江戸時代の文書にも現れている。
12:19
日蓮大聖人ご一泊・要法寺
寺の縁起を読めば、ここは隣の平塚の塚も含め、北条泰時の次男で、この地の地頭をしていた北条泰知の屋敷だった。彼は日蓮に深く帰依していて、弘安5年(1282)9月16日に日蓮がここに一泊し法華経の「四句要法」の一説を説法したのに感動し、この屋敷地を献上、要法寺としたという。
(しかし、承久の乱を平定したあと第3代執権となり御成敗式目を制定した北条泰時は、弘安年間よりずっと前の人で、親子というのはあり得ない。北条泰知という人物も他では出てこず、歴史的事実というより、寺伝である。)
ちなみに、弘安5年9月というのは、60歳の日蓮が病気のため身延山を下り、療養のため常陸にむかったときで、平塚、鎌倉を経て、途中、武蔵の荏原郡池上郷の池上宗仲邸まで来たとき、動けなくなり10月に亡くなった。そこがのちの池上本門寺となった。
平塚の塚、要法寺を後にして、自転車を走らす。
北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。
快適に歩道を走りながら、2番目の目的地、園芸試験場跡地の平塚市総合公園に向かった。
(続く)








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