2025年10月27日月曜日

平塚の塚、園芸試験場跡、中原街道の終点

 10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。

上野東京ラインや湘南新宿ラインで平塚行きという電車に乗ることがあるが、平塚はほとんど知識がない。七夕が有名だと聞いてもどんなものか知らない。
初めて降りる駅は今どきのふつうの賑やかな、おしゃれな駅ビルだった。
11:49
平塚駅の北口
駅ビルはラスカ平塚という。

平塚は1932年、横浜、川崎、横須賀に次いで4番目に市制を施行した。湘南地域および相模川より西では初めて市となった。現在人口は県下6番目の25万7千人。藤沢44万、横須賀37万人より少ないが、湘南の中心都市である。
11:49 駅前地図
平塚市は相模の国一の大河、相模川(馬入川)西岸にある。
江戸幕府は東海道に橋をかけさせなかったから、馬入の渡しがあり、大雨の後などは「水待ち」という足止めがあった。
当然宿場ができた。
平塚宿は江戸から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢と来て7つ目の16里(62.4キロ)。東の藤沢宿からは3里半(13.8キロ)だが西の大磯宿までは27町(2.9キロ)しかない。相模川がなければ大磯まで歩いてしまったであろう。
(ちなみに、当時は1日30~40キロ歩き、江戸を出ると1泊目は戸塚か藤沢、2泊目は平塚か大磯に泊ったが、平塚は休憩の人が多かったようだ。平塚に泊る人は上方から下ってきた人が多かったか)

藤沢と大磯の間に宿場を作る場合、宿間の間隔を考えれば藤沢側の相模川東岸のほうが合理的だが、相模川はよく氾濫し、東側は湿地帯で、宿場を作れるほどの村がなかったからという。

駅前地図を見て西のほうに「平塚の塚緑地」というのがある。
ちょっと離れているのでレンタサイクルを借りることにした。
平塚市まちづくり財団が1回200円で貸している。グーグル地図では駅からすぐ西の線路際にあるようだったが、入口がずっと離れた場所のため探すのに時間がかかった。駅直結の駐輪場と一体となっていた。

北に向かって走り始めてすぐ、東海道に出た。藤沢と違って近い。
広い歩道を西に向かっていくと塚のようなものがあった。
12:09
平塚宿の江戸見附
藤沢宿京見附で述べたように、ここから西が平塚の宿場町だったということだ。つまり平塚宿は今の駅前からだいぶ西にあった。
見附は一里塚のように街道の両側に設置され、明治時代の写真では土台部は石垣、上に竹矢来を組まれていたようだが、それが再現されていた。
そばの説明板を読めばすぐ東に加宿平塚新宿というものがあったそうだ。

宿場というのは一般人を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが建ち並び、それで利益を上げた。しかし、地子(じし。農村の年貢に相当)免除などの特典もあったが、公用のための人馬、問屋場、本陣、脇本陣などを常備する義務を負った。1601年に開かれた平塚宿では利用者の増加によって、1651年、東の八幡村が助郷さらには加宿となり、平塚宿に加えられた。
ここと相模川の間に平塚八幡があり、そのあたりだろうか。
つまり、東海道線の平塚駅は加宿平塚新宿の前にできたということだ。平塚宿と今のJR駅の離れている理由が分かった。

なおも自転車で旧東海道を西に走る。相変わらず歩道まで広い。しかし他の街道筋ならわずかばかり残るような古い建物が一つもない。
途中で右(北)の住宅街に入った。その道も広い。
何の知識もなく平塚に行ったら、道路の広さを一番感じるだろう。

他に類を見ない道路の広さは1945年7月16日深夜の平塚大空襲が関係する。
戦前、平塚には海軍火薬廠(現在の横浜ゴム周辺)のほか、横須賀海軍工廠造機部(現在の平塚競輪場あたり)、第二海軍航空廠補給部(JT平塚工場のあと、アークスクエア湘南平塚)、日本国際航空工業(のちの日産車体、相模川西岸)などがあった。
投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われ、死者は300~363人だったが、当時の市域10,419戸中の8,263戸が全焼、消失した。

戦後始まり、日本七夕三大祭り(仙台、平塚のほかは安城または愛知一宮)の一つとなった平塚七夕も、焼け野原からの復興祭りが始まりと言われる。

そうこうするうちに、今回一番の目的地、平塚の塚についた。
12:16
平塚の塚緑地
日曜だが誰もいなかった。

ふつう地名には歴史がある。
歴史もない小さな字が合併でも生き残り大きな地名になることもあるが、平塚は違う。

桓武平氏の祖といわれる高見王の娘、すなわち高望王の妹、平真砂子が857年、都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったという。土地の人々は平氏の高貴な娘の塚、また風化して平らになった塚として平塚と呼んだという。江戸時代の文書にも現れている。
12:17
たしかに平らな塚である。
立派な玉垣のような柵で囲んでおかないと、油断するとただの地面になってしまう。

この公園の東隣にお寺があった。
12:19
日蓮大聖人ご一泊・要法寺

寺の縁起を読めば、ここは隣の平塚の塚も含め、北条泰時の次男で、この地の地頭をしていた北条泰知の屋敷だった。彼は日蓮に深く帰依していて、弘安5年(1282)9月16日に日蓮がここに一泊し法華経の「四句要法」の一説を説法したのに感動し、この屋敷地を献上、要法寺としたという。
(しかし、承久の乱を平定したあと第3代執権となり御成敗式目を制定した北条泰時は、弘安年間よりずっと前の人で、親子というのはあり得ない。北条泰知という人物も他では出てこず、あくまでも寺伝である。)
ちなみに、弘安5年9月というのは、60歳の日蓮が病気のため身延山を下り、療養のため常陸にむかったときで、平塚、鎌倉を経て、途中、武蔵の荏原郡池上郷の池上宗仲邸まで来たとき、動けなくなり10月に亡くなった。そこがのちの池上本門寺となった。

平塚の塚、要法寺を後にして、自転車を走らす。
北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。
広い歩道を東に向かった。
左手に崇善小学校がある。ここも広い。戦前は軍の施設だったのだろうか。
小学校の角を北に曲がる。
右手に緑地が見えた。
12:28
左:平塚郵便局、右:八幡山公園
八幡山公園には家康も参拝したという平塚八幡宮のほか、海軍火薬廠時代の洋館(旧横浜ゴム記念館を移設)、平和慰霊塔などもあるらしいが、立ち寄らなかった。

平塚駅からきた人と思われる平塚ベルマーレのユニフォームを着た応援団の人がいっぱい北に向かって歩いている。(2000年からチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚1市から神奈川県7市3町へ変更・広域化した)

この交差点から北は、東も西も工場や学校、市役所、博物館などである。
左に公園があり、目的地の平塚市総合公園かと思ったら浅間緑地。地図を見たらまだ北方のほうに比べ物にならないくらい広大な緑地があった。
左手、海軍火薬廠跡地に建つ広い横浜ゴムの工場をすぎると、ようやく総合公園。
12:36
総合公園(右)前の松並木
これは戦前のものか、しかし空襲があったからな。
12:38
平塚市総合公園
とにかく広い。ほんの入り口だけしか行かなかった。
幸い、そこに平塚に来た目的の記念碑があった。
農林省園芸試験場は、農事試験場園芸部として明治33年静岡県興津町(静岡市清水区)に開かれた。大正時代に園芸試験場として独立、
戦後は園芸産業振興の必要性から昭和22年海軍火薬廠のあったこの地に移転した。1977年つくば市に移転するまで、職員二百余名が、野菜・花きと果樹の研究に従事、780名の研修生を送り出したという。

ところで1年前にネットでネクタリンの苗を買った。品種はヒラツカレッドという。
2025₋10₋23
千駄木菜園のヒラツカレッド
ハダニにやられ葉が白っぽい。

この品種は1961年、平塚で「興津」と「NJN17」を交配し、1964年初結実、66年一次選抜、71年から「モモ平塚68号」として各地で試験され、1981年にヒラツカレッドとして登録、公表された。

このネクタリンが生まれた場所を見るのが今回の平塚訪問2番目の目的だった。

しかし、園芸試験場が移転して50年近く。海軍の施設などを試験場が転用し、さらにその一部が公園事務所や売店にでもなっていれば最高だったが、親子連れやサッカーファンが歩いている公園にそんなものはなさそうだった。

総合公園を出ると、向かいの道路を挟んだ東側は、広大な空き地になっていた。
まさか海軍の敷地がそのままになっているわけじゃないだろうな。
12:43
総合公園の東の道路(県道606号)
調べたら、もとは海軍の敷地で、戦後1946年に第一製薬が工場をたてたようだ。2007年に第一製薬が三共と合併した後は第一三共ケミカルファーマの平塚工場として2017年まで操業、その年に閉鎖されたようだ。8年もたつのに更地のままである。
地図を見れば総合公園の北方、平塚市新町、四ノ宮にも第一三共ファーマの工場がある。

自転車で総合公園に沿って北にいくと、また門があった。
12:44
野球場入り口
ナイター設備もあるようだ。
その西には湘南ベルマーレの本拠地、レモンガススタジアムがあった。
このように、海軍火薬廠、のち園芸試験場は非常に広かった。

さて、ネクタリン平塚レッドのふるさとのほか、平塚ではもう一つ見たいものがあった。
中原街道の語源となった中原御殿の跡地である。
中原街道は大山街道(現・玉川通り、国道246)と東海道のあいだにある。桜田通りから五反田をへて、都道2号で昭和大学病院、洗足池を通り、丸子橋で多摩川をわたり、県道2号となり武蔵小杉を過ぎ、日吉、綱島など東横線の東側を南下していく。いまもかなり重要な幹線道路であり、車で綱島の叔母のところに行くとき何回か通った。
この街道は中世以前からあり、鎌倉時代に本格的に整備され、日蓮も利用した。
1590年、家康が関東に入るときも五街道整備前であるから、この道を通ったとされる。

東海道が整備された江戸時代は東海道の脇街道となり、途中の小杉、下川井、中原に御殿が作られ、家康の駿府往還や鷹狩などにも利用された。その中原が平塚にあり、平塚で東海道に合流した。
12:54
中原御殿跡地
現在は平塚市立中原小学校になっている。
住所は平塚市御殿二丁目である。
約7000坪、周囲には幅10メートルの堀がめぐらされていた。
造営から60余年後の1657年、明暦の大火のあと、解体された。

いっぽう、付随して御殿の周囲に作られた127ヘクタールにも及ぶ中原御林は、その後も厳重に保護され、その木材は江戸城修復や、東海道線平塚駅の駅舎建造などに使われた。御林は全部で16か所あり、今の平塚市総合公園もそっくり入る。明治になって官有地となり、海軍火薬廠などになった。

(ちなみに北区滝野川にあった海軍下瀬火薬製造所は明治33年に開庁したが、明治38年設立の日本火薬製造株式会社平塚工場が大正8年に海軍火薬廠になると、その製造部第5工場となり、昭和4年(1929)に爆薬部が舞鶴に移転すると、滝野川も閉鎖、移転した)

雨が降りそうな天気の中、平塚サイクリングはやめ、駅に向かった
途中、どこかで聞いたことがある平塚江南高校があったが寄らず。
大学2年のときの学園祭で古典ギター部が教室を会場として演奏会をした。そのとき他大学から来ている女子部員の友人が聴きに来て、その子が平塚江南だったか平塚在住だったか。女子部員に彼女の名前も電話番号も聞いたが、連絡しなかったのか連絡しても断られたのか記憶にない。
13:10
自転車を無事返却。
来るときは中央改札、北口からぐるっと回ってきたが、駐輪場から見ればすぐそばに駅の西口があった。
13:12
平塚駅西口改札は駅ビルなどの商業施設もなく、あまり人がいない。

ホームは島型2面4本あることから、終点、始発の駅になれる。
駅メロは「たなばたさま」。
1941年発表の文部省唱歌である。この年、太平洋戦争が始まり、4年後に平塚は焦土となった。その復興過程で始まった七夕祭りからJRが採用したメロディだが、もちろん関係ない。
 
約1時間半の忙しい平塚見物だった。

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