就職した職場が埼玉県戸田市にあり、32年間埼玉に住んだ。都内に引っ越して再就職も埼玉、実家も長野だったから、神奈川県は土地勘がない。
とくに横浜から先は疎く、小田原、横須賀、鎌倉以外は最近になって大磯などに降りたものの、駅順も定かでない。
東海道線は横浜を過ぎると、保土ヶ谷、東戸塚(この2駅は横須賀線のみ停車)、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ケ崎、平塚、大磯、二宮、国府津、鴨宮、小田原である。
このうち東海道の宿場だったのは、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原である。
土地勘がないから保土ヶ谷、戸塚は何も思い浮かばず、横浜とは別の市として発展した藤沢、平塚に行ってみることにした。
地図を見ると東海道は内陸の保土ヶ谷、戸塚から南下して藤沢に来る。しかし藤沢宿すなわち歴史的中心地はJR藤沢駅から遠い。地図を見れば内陸側の小田急江ノ島線にその名もずばり、藤沢本町駅があった。
10月20日、千代田線千駄木駅を9:24に出て、代々木上原で小田急の急行藤沢行きに、大和で各駅停車に乗り換え、1時間27分で着いた。
2025₋10₋20 10:53
藤沢本町駅
東京、横浜から大分離れているのに電車は日中でも1時間に6本ほどあった。この点、埼玉より便利だ。
藤沢市についてはほとんど知識がない。地図を見たら駅のそばを旧東海道が通り伊勢山橋がある。箱根駅伝(3区、戸塚―平塚)で聞く地名だ。
昭和2年(1927)に遊園地が設置されたという。1951年には藤沢市第1号の公園となり、1957年には周辺4.3ヘクタールを含め、伊勢山緑地として保全されている。
西南戦争以降の戦没者慰霊碑が4つ立っているらしい。(関東大震災以降に集められた?)
しかし時間がないので行かない。
10:55
伊勢山橋を渡った向こうに浄土宗真源寺。
とくに有名でもないようだ。
10:57
東海道・藤沢宿京見附跡
地図でこう書いてあったが、説明板だけであった。
見附というのは、江戸城外堀に設置された赤坂見附や四谷見附などで分かるように、見張りをする場所という意味だが、宿場町でも両端に設置された。街道の江戸側は江戸見附、京都側は京見附、上方見附などと呼ばれた。
ということはこの西への下り坂の手前(東)側に宿場町があったということだ。
地図ではすぐ近くに湘南高校があった。
名前からして平塚とか茅ケ崎など海のほうにあるかと思っていたが、ここにあった。
いってみた。
11:07
湘南高校
私立高校と比べると開放的である。
正門から入るとすぐに「甲子園優勝」の記念説明板があった。
1949年、創部4年目、初出場で全国優勝してしまった。世間はまだ野球どころでない戦後間もないころとしても、奇跡、快挙と言ってよい。(東大も六大学リーグで1946年2位になった)。湘南高校は1951年、54年の選抜にも出場したが、こちらは1回戦で惜敗した。
11:09
校舎は新しい。
湘南高校は、大正10年(1921)、神奈川県下6番目の旧制中学校として県立湘南中学校が開校した。
一中(1897、のち横浜一中、現・希望ヶ丘)
二中(1900、小田原)
三中(1902、厚木)
四中(1907、横須賀)
横浜二中(1914、横浜翠嵐)
7番目以降は横浜三中(1923、緑ヶ丘)、川崎中学(1927)と続く。
湘南出身ですぐ浮かぶのは鏑木美奈子さんと吉野諒三氏。もっと居らっしゃると思うが、他人の出身高校などはほとんど忘れてしまった。
正門から入って右側奥に湘南高校歴史館があった。
もちろん日曜だから開いていない。
こういうものがあるのは、よほど卒業生が母校を誇りに思っているのだろう。
6番目の旧制中学であったのに神奈川県一番になったのは、湘南地方には戦前から高級官僚や文化人、海軍士官が多く居住していて一高、海軍兵学校入学者が多く、それが戦後も続いたからだ。
古さでは負けない名門、旧四中の横須賀高校との違いは面白い。
横須賀は、下士官や工員層が多く、また湘南地方が東京、横浜と交流できたのに対し、横須賀は軍港都市で閉鎖的であった。校風もリベラルに対し、規律・保守的だったことが進学実績の差になったとも考えられる。
その湘南高校も1981年の学区細分化により、進学実績は落ちていき、県が2005年に学区を撤廃しても、栄光学園、聖光学園に流れた生徒層は戻ってきていない。
昔の校舎をほんの少しでも残しておけばよかったのに、コンクリートで新しい。
銅像があった。創立以来戦後の学制改革まで27年間の長きにわたって校長を務めた赤木愛太郎だろうか。
湘南高校というと、かつて県立高校として同じく全国的に有名だった浦和高校との交流がある。
1956年に始まり、2002年まで定期戦が行われた。1970年代の浦高出身の荻本和彦氏から京浜東北線で延々と電車に乗っていった、と聞いたことがある。東京から東海道線に乗っても2時間くらいかかったらしい。
そんなことを思っているとクラブ活動を終えたのか女子生徒が二人、道具を運んできた。賢そうな顔をしていた。1950年に男女共学となり、現在男女比は7:3などではなく、1:1である。そういえば宮崎緑、黒田あゆみ(NHK)、柔道の山下夫人、三浦瑠麗も湘南だった。
11:11
ラグビー部だろうか。グラウンドを雑巾がけのような格好で重い古タイヤを押していた。いかにも体が鍛えられそうな苦行である。
スポーツをやらないものから見れば、ずいぶんエネルギーの無駄遣いに見える。なにか発電装置とトレーニング装置が合体したものが作れないだろうか。
しかし道中、写真を撮るようなものはなかった。
11:27
JR藤沢駅到着。
標準20分のところを16分で歩いた。
藤沢は1940年10月に市制施行だから、市の格としてはまずまずである。
藤沢駅はJR、小田急、江ノ電が集まり、市域の周縁部には横浜地下鉄、相鉄、湘南モノレールも来ていて、人口44万人は、横浜・川崎・相模原の政令指定都市に次ぎ県内4位。
地図を見れば片瀬・鵠沼・辻堂海岸、江の島も藤沢市である。
地図をなおも見ていると東隣の大船駅(鎌倉市)方面の東海道線沿い、鎌倉市との境付近に湘南アイパークがあった。
こんなところにあったのか。これも湘南という名から茅ケ崎、平塚のほうかと思っていた。
かつては武田薬品の工場であり、2006年まで医薬品を製造していた。武田では90年代から手狭になった大阪十三の中央研究所とつくばの研究所を統合する構想があった。当時は最後の創業家社長の武田國男氏のもと、世界売上高10億ドル以上のブロックバスターが4つも育ち、黄金時代であったが、それらの特許がきれる2010年前後に次の大型医薬品を作らねばならないという危機感があった。
新研究所の立地に対し、茨木市・彩都への誘致をめざす大阪府と神奈川県が200億円規模の助成を用意して誘致合戦を行った。そして湘南工場跡地に決定し、2009年着工、2011年竣工、約1200人の研究者が移動した。
ところが、武田社長の後を2003年についだ長谷川閑史社長が連れてきたクリストフ・ウェバーが2014年社長に就任、国際化を加速させた(2025年現在取締役17人中14人が外国人)。2011年のナイコメッドに次ぎ、2019年ほぼ武田と同規模のシャイアーを買収、世界8位のメガファーマになったのはいいとしても、研究開発の領域を絞り、さらにボストン郊外ケンブリッジの同社研究所など海外に研究の軸足をうつし、また新薬は自社で作るより海外のものをベンチャー企業ごと買う、あるいは有望品目を海外から導入するようになるなど、研究開発の方針が大きく変わった。
こうして最先端の我が国最高だった湘南研究所は無用の長物となり、2017年には建物や研究機器を社外の研究者やバイオベンチャーに開放する「湘南ヘルスイノベーションパーク」の構想を発表。そして武田の100%出資によるアクセリードドラッグディスカバリーパートナーズに創薬研究事業の一部を移し、1000人以上いた武田の研究者はリストラによって2018年3月には522人にまで減少した。あれから7年経った今は何人いるか知らない。
2008年にダイヤモンド社から訳本「新薬誕生」を上梓してから製薬企業の研究開発組織に関する講演を何回かして、当時はかなり詳しかった。しかし2013年に業界から離れて12年、この間に、同年代の友人が退職しただけでなく、製薬業界の研究開発は激変した。元いた田辺三菱製薬などは親会社の三菱ケミカルが投資ファアンド・ベインキャピタルに売却し、研究所は事実上消滅、リストラを経て知人の何人かは湘南アイパークにいるはずだが、会社名は知らない。
グーグル航空写真で場所と威容は見たものの、行ってみようという気にはならず、わずか40分の藤沢滞在を終えた。
11:34の下り東海道線で平塚に向かった。
(続く)










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