2026年8月26日水曜日

佐久の五稜郭・龍岡城と大給氏

8月15日、信州の実家に日帰り帰省する途中、佐久に寄った。

五稜郭・龍岡城を見るのが目的だった。

佐久平で降りて小海線に乗り換え、のどかなワンマンカーに乗って最寄り駅につく。

8:28
龍岡城駅
佐久平に戻る列車は9:20発。
それまで52分あるが、駅から城までは1.6キロ、23分。往復46分。計算上は6分しか滞在できない。その列車を逃すと次は11:47までない。
急いで歩かねばならない。
6分のために、私はしばしばこのような遠出をする。
8:36
何の変哲もない田舎道。
中世の山城でもないのに城下町がないというのはどういうことか?

それ以前に、五稜郭というのは連郭式、輪郭式などと同じような城の形を示す普通名詞のはずだが、函館のそれを表すような固有名詞になっているのはどういうことか?
これはひとえに佐久の五稜郭が無名であることに尽きる。
しかしなぜ無名なのか?
これは書くと長いので後回し。
8:39
龍岡城址という石碑あり
しかし道路のわきに少し石垣があるだけで相変わらず畑と住宅。
城址に着いた感じがしない。
通り過ぎてそのまま歩き、右折すると五稜郭についた。
航空写真でも中央に五角形が見える。

函館の五稜郭は1983年10月3日、札幌での学会帰りに立ち寄ったことがある。
佐久の五稜郭も昔から知っていたが、いつか行こうと思っているうちに危ない年齢になってしまった。
8:44
五稜郭の北の稜に到着。
駅から23分というところを健脚は16分。
9:00には帰路につきたいから見学時間は15分。
8:45
説明板のわきの木のテーブルが使用禁止。
苔が生えて朽ちている。
8:47
黒門から入城
堀の幅は平均7.2メートルというが、それほどあるように思えない。

龍岡城五稜郭は幕末、三河以来の譜代大名・松平(大給)乗謨(のりかた、1839-1910)が築いた。
もともと、松平乗謨は父祖の地、三河奥殿に藩庁(陣屋)を置いていた。しかし領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)はここ信濃国佐久郡にあり、佐久25か村を支配していた。藩庁の信州への移転はかねてからの念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て、文久3年(1863)佐久での陣屋の新築を許可された。(奥殿藩は城持ち大名でなく、陣屋格の大名だった)

乗謨は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでおり、新たな陣屋として星形要塞・すなわち五稜郭を設計した。元治元年(1864年)3月にここ田野口村で建設を開始。幕末の動乱の中、慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが完成した。

しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任、公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる。工事は簡略化され、堀も南西、西の2つの稜角を囲む200メートルは未完のまま明治維新となった。全国に知られることなく、「幻の城」といってもよい。
これが龍岡城(=田野口藩陣屋)が函館五稜郭と比べ無名であり、また城下町がない理由である。
8:48
城の西側、黒門跡。
外壁、土塁は高くない。
入るとすぐだだっ広いグラウンド、しかし草ぼうぼう。
8:49
国の史跡なのに小学校がある。
夏休みだから子供はいない。
校舎には「ありがとう田口小学校」の幕が。
8:49
グラウンドに向かうような古い建物は「台所」という。
当初五稜郭の真ん中にあったのを移築したらしい。
明治4年の廃藩置県で兵部省は全国の城郭の破却を命じたが、この台所だけは小学校に転用されたため残された。
8:50
野球のバックネットの裏の林に何かある。

8:51
神社だった。
ここも草が生えている。
8:51
神社のわきにウサギ小屋かな? 五角形なのが良い。
止まり木があるから鳥小屋だろうか?
しかし網が破れ、中は何もいない。

そのまま通り過ぎたのだが、後で調べたら、田口小学校は2023年3月31日をもって佐久市立臼田小学校へ統合され閉校したという。壊れた鳥小屋も草だらけのグラウンドも、ありがとうの幕もこれで説明がついた。

参道を逆に歩き正面から出た。
8:52
神社は田口招魂社だった。
田野口藩の田野口村は明治9年、上中込村と合併したとき、野がとれて田口村となった。これが小学校、神社の名前になっている。
招魂社というのは、ふつう明治維新後に戦没した人の霊を祭るところだが、ここの案内板はなぜか殿さま、大給松平氏の一つ三河奥殿藩のことがメインに書いてある。大給氏は家康の4代前に安祥松平家(のちの松平宗家、徳川家)から分かれ、さらに4家に分かれた。

とにかく時間がないので素通りするように郭内から出た。
8:53
北に向いた大手門から出る。

8:53
佐久の五稜郭は函館五稜郭と比べ、一辺が半分ほど。すなわち面積が4分の1しかない。
同時期の建設だが、あちらは開港したばかりの函館奉行所を入れるため幕府が作ったもので、こちらは弱小大名が作った陣屋だから仕方がない。

もともと陣屋(藩主の住まいと政庁)の外側に堀をつくるにあたり、藩主の好みから西洋で考案された五稜形にしてみたというのが真相ではないか?

五稜郭は見晴らしの良い各稜に砲台を置けば広角に撃て、稜の間にくる攻め手には挟む辺から十字砲火を浴びせられる。18世紀半ばにフランスのルイ・ド・コルモンテーニュが考案したとされるが、1650年ころ作られた赤穂城も各辺がギザギザになっているから、それ以前からこういう築城思想はあったのだろう。

赤穂城は十字砲火が可能な銃砲戦を意識した設計だが、まだ二の丸、三の丸をもち安土桃山時代からの城郭の形である。しかし函館にしろ佐久にしろ、五稜郭は全く違い、装飾的な櫓などもなく完全に実戦だけを意識している。

ところが平原にある函館はまだしも、佐久のは谷であり、すぐ南北に山がある。すでに幕末は雄藩を中心にこぞって大砲を買い入れていた。射程1キロ程度なら100発百中で陣屋に砲弾を落とせる。敵を阻む外壁も低い。戦国、関ヶ原の火縄銃の時代なら威力のある要塞だったが、龍岡城はできたときから堅固な城ではなかった。
聡明な乗謨ならその程度のことは承知であったと思われるが、あえて五稜郭にしたのは、やはり住居と政庁という陣屋(役所)を盗賊などから守るために水堀を作るにあたり、どうせなら洋学で知ったこの形にしたかったというのが真相か。
8:55
昭和9年に龍岡城跡は国の史跡に指定された。その時文部省が設置したと思われる一枚板の木彫りの説明板が屋根付きで立っていた(写真左)。
右は明治維新後に大給恒(おぎゅうゆずる)と改名した乗謨の胸像。

乗謨は大政奉還後、将軍慶喜に「諸大名を含む議会を開き、幕府を含む諸藩の軍備を解体し、全国守備の兵とし、将軍家は総指揮官になり給うべきなり」と言上したが、幕閣内は薩長などの西南雄藩への強硬論が大勢を占め、その意見が聞き入られなかった。

彼は戊辰戦争が始まると老中を辞任し幕府との決別を表明するため松平から大給姓に変え、信州に引っ込んだ。すぐ新政府に恭順することを示したが、乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられた。やがて謹慎を解かれ西軍として北越戦争に出兵した。その時の戦死者が田口招魂社の最初の4柱になっている。

やがて大給乗謨は恒(ゆずる)と改名し明治政府に仕えた。
大給恒は佐賀藩士(1823- 1902)の佐野常民とともに、西南戦争における両軍の傷病者を救護しようとした「博愛社」の副総裁となっている。明治20年に博愛社は日本赤十字社と改称した。
(ちなみに佐野常民と同時代人で、よく間違えるが、開成の前身・共立学校を創立したのは加賀藩士の佐野鼎(1829-1877)である。)

大給恒は、明治17年(1884年)の華族令で子爵(これは旧大名家当主だから普通)に列せられ、明治40年に伯爵に昇った。

大手門を出た目の前に新しい資料館があった。
無料のようだ。
駅に急ぐ前にパンフレットだけでも貰おうと入った。
8:57
入ってすぐのロビー中央に龍岡城の模型
しかし小学校の模型のようにも見える。

後ろに年表らしきものがあり、大給松平氏か竜岡城のことと思ったら、明治8年に城内に設立された田口小学校の歴史だった。
8:58
小学校は1875年から2023年まで148年間ずっと五稜郭の中にあった。

国の史跡・龍岡城は2017年4月、続日本100名城(129番)に選定された。このときすでに田口小学校が2022年度末で閉校することが決まっていて、閉校後に小学校の全施設を解体撤去し、竣工時の龍岡城を復元する整備計画があったらしいが、いまだ進んでないように見える。
8:59
職員の年配の男性に声をかけられた。
どこから来られたかね、と聞かれ東京だと答えると、それはそれは、と歓迎された。
時間がないのでじっくり見られないんです、というと
「それは大変だ、あー、先生、先生、お客さん」と奥に声をかけられた。
するとモップをもった老人が展示の間から出てこられた。なんとなく田口小学校を退職した先生のような気がした。
掃除中の彼は「よくいらっしゃいました」と言いながら、急いで動画視聴コーナーの椅子を片付けようとしていたが、「時間がないのでパネルだけ見させてもらいます」と言って説明を断った。
8:59
なかなか充実した展示内容である。

書き忘れたが、大給氏というのは千駄木の家の近くに大給坂があるから以前から馴染みがある。
9:00
いま大給坂に名前を残す大給家は、三河の西尾藩(本家、6万石)当主の子孫で、明治後千駄木に住んだ。5万石以上は伯爵だが子爵だった。大給松平家は家康の4代前に分かれたと書いたが、その系統は、西尾藩のほかに豊後の府内藩(2万石)、美濃の岩村藩(3万石)、三河の奥殿藩(のち佐久の田野口藩1万6千石)と譜代大名を4家も出した。
9:03
ばたばたと騒がせて恐縮しながら資料館を辞去した。

帰り際、奥の事務室のほうから女性が出てこられた。あまり客が来ないと思われるのに職員が3人もおられた。
資料館でもらったパンフレット
五稜郭の中に政庁があり、五稜の堀の外に家老屋敷、家中住宅、尚友館(藩校?)、米蔵などがあり、その外側が四角く柵で囲まれていた。江戸時代初めなら当然外堀であるところが、犬猫がどこでも自由にくぐれる柵矢来であるのが佐久らしかった。

その北側は新海明神下屋敷道が通って向かいに蕃松院が書いてある。
その道を西に行くと田野口村入口の土塁、乗馬制止杭があり、この跡こそ来たとき最初に見た「龍岡城址」という石碑の場所だろう。前に載せたグーグル地図でも龍岡城枡形跡と書いてある。
9:05
新海明神下屋敷道
駅からまっすぐ上がってきた道である。江戸時代からの道だとは知らなかった。
あと15分で出る列車に遅れたら2時間半待たねばならない。
目の前の蕃松院は、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃の墓があるというが、見る暇はない。


駅への道は緩い下り坂、健脚だからゆうゆう列車に間に合った。
少し先には千曲川の上流があったはずだがさすがに見に行く時間はなかった。
列車に乗ってから、ふと、あの資料館は9時開館だったのではなかろうか、と考えた。


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