東大薬学部は学部定員が80人(1994年、70人から増員された)、東大で最も小さい学部である。
薬剤師養成ではなく、医薬の創製と生産を念頭に置いた生命科学研究を看板に掲げている。
しかし創薬の研究現場は、理学部、農学部、工学部出身者も多く、薬学部出身者は主に旧帝大に限られ、薬学部がなくなっても製薬会社は困らない。
実際、欧米では創薬研究に特化した学部はない。
創薬における薬学部の存在意義が問われるところである。
昔は違った。
明治6年(1873)、文部省医務局長與専斎が、人命及び国家経済にかかわる粗悪薬品の輸入防止対策として、ミュルレルらに諮り、東大医学部の前身である第一大学区医学校に予科2年本科3年の製薬学科(全寮制)が新設、開校されたときは、大いに存在価値があった。
しかしその後、入学者が少なく、何回も存続が危ぶまれた。
製薬学本科は明治16年に一人の学士をだしたあと空白状態、過渡期的な別科も明治18年生徒募集を停止した。
明治19年の学制改革に際しては、製薬学科は廃止されそうになったが、丹羽藤吉郎助教授の努力で、医科大学薬学科(3年制)として存続、翌20年留学帰りの下山、丹波両教授と3講座制をしく。
しかし、その後も振るわず、第103話で紹介した慶松勝左衛門の入学した明治31年は彼一人だけで、翌年、翌翌年は入学者ゼロである。
丁度そのころの薬学雑誌、仙台地区通信を読んでいたら、徒然草みたいな記事があった。
薬学雑誌1898(明治31)年度516頁
「ある医学士たる軍医曰く。
帝国大学の各分科大学においては、一講座を一名にて受け持つことは云ふまでもなく、更に講座を分け分担して各々その精通を教授することさえあり。
例えば衛生には緒方博士、坪井博士あり。
薬物には高橋博士と未来の森島(留学中)あり。
解剖および組織には田口博士と小金井博士あり。
生理には大澤博士と大澤学士(留学中)あり。
その他内科、外科にても各講座を分担せらる。
しかるに薬学科を見れば一名にて数科を担当す。実に薬学連は諸科に精通なること弁慶の如し、と談笑せられたりと云ふ」
この医学士は、弁慶など出して、半分面白がり、半分馬鹿にしている。
さらに続いて517頁にもうひとつ。
「当地電灯会社就職のある工学士曰く。
大学の各分科大学には皆講座ありて、何学講座と勅令に明記しあり。
ひとり薬学科には三講座とのみありて、何学の講座やら明瞭ならず。
しかれども、薬学科規則をみれば十数以上の科程あり。
我輩は少しも三講座の理由は解せない。
君、説明したまい、と云ひけるに老練の薬学家も大いに閉口して、君は常に難問を発して我輩を困らせる。今後はもはや斯くのごとき問ひは「講三」で御「座」る、と語られし由し」。
いろいろ分かっている老練の薬学家、うまいこと話をまとめたものだ。
当時は入学者がいないだけではなく、医薬分業問題で医師たちと対立し、医科大学内で薬学科の独立が危ぶまれていた頃である。
帝大の薬学始祖3講座は、生薬学(下山順一郎)、衛生裁判化学(丹波敬三)、薬化学(長井長義)と思っている人もいるが、こうしてみると各教授、講座は薬学全科目を分担し、講座名も生薬、薬化などと特定するものではなかったことが分かる。
さて、2017年現在、もちろん学部学生定員80人は埋まるどころか、駒場からの進学振り分けの最低点が理系で最も高い学部、学科の一つになっている。
講座数も3つから大いに増えた。兼任、寄付講座などもあるから、単純に比較できないが、正規教授18、准教授・講師18、助教(特任含めて)41だから、6倍に増えたとみてよいだろう。
しかし小人数のわりに学問領域が広いことは層の薄さ、解体の危機をはらむ。
さらに私立薬科大を中心に6年制になった薬学部が、のきなみ研究を大幅縮小あるいは放棄、薬剤師養成の予備校化したことは、日本の薬学の方向を決めた。
徹底的に知識を教え、処方箋通りに間違えずに調剤する薬剤師の養成が薬学部である。
その流れに逆らって孤高、特徴を出そうとする東大は、明治31年以来の苦戦を強いられるだろう。
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