一度お会いしたことがある。
35年前、1984年5月、新婚旅行でニューヨークに行った。
行く前、妻はニューカレドニアだのカナダだのリゾート地を主張したが、アメリカ東海岸を選んだ。当時は海外旅行などまだまだ珍しく、新婚旅行が最初で最後と思われていた。それならワシントン、ニューヨーク、ボストンに行きたい。
海や森などどこにでもあるではないか、と説得した。
さすがに羽田出発ではなかったが、まだ1ドル250円だった。
初めての海外なのにパックツアーでなかった。
行きたいところを回るツアーがなかったのである。
もちろんネットもメールもファクスもない。
野口さんに小田嶋さんがニューヨークにいると聞き手紙を書いた。薬学ボート部の4年先輩で、古賀研の助手をへてコロンビア大中西研にポスドクとして留学されていた。
こわごわとニューヨークの地下鉄に乗り、大学を訪ねると先輩はいろんなところを見せてくれた。
大きな合成実験室は真っ暗。
光によるシス・トランス変換の最適波長をずらした各種レチナール誘導体を合成していた。これらが目に取り込まれれば紫外線や赤外線も見られるのだろうか?
オプシンのアミノ酸残基がレチナールに作用し光吸収波長をシフトさせる機構を研究しているらしかった。当時、有機化学と生理学の境界領域の研究など本当に珍しくて、世界のレベルに驚いた。
(遺伝子工学でタンパクの構造決定とアミノ酸置換が簡単にできるようになるのはもう少し後である)
レチナール誘導体はメダカのような魚に投与して行動を見るらしく、水槽がいくつもあった。
このあと教授室に案内された。
1970年代、中西香爾といえば「赤外線吸収スペクトル―定性と演習」 (東京化学同人)。当時の有機化学を勉強する者はほとんど知っていた。旅行直前にも円偏光二色性スペクトルの著書を読んでいたので、私には神様のような人だった。
田辺製薬の研究所にいると自己紹介したら、東北大時代の教え子、大橋元明さんの話をしてくださった。大橋さんは当時の私の上司。
私にむりやり連れてこられた妻にも気遣ってくれ、
「お土産は買いましたか? そう…、見つからなかったらワイフ(と呼ばれたかどうかは忘れた)に電話してみたら? 相談に乗るようにいっておくよ」
と黄色い付箋のようなものにご自宅の電話番号を書いてくださり、私のカメラにぺたっと貼り付けた。まだ日本にはなかったポストイットであった。
ホテルに帰って電話したのが、野依、大橋両先生の追悼文にある泰子夫人だった。教えられた店でお会いしたかどうか忘れたが、そこで買った花瓶敷は長野と取手の実家で長く使われている。
その後、2007年ファルマシア編集委員をしていたとき、「挑戦者からのメッセージ」というコーナーで中西先生に執筆を依頼した。
このコーナーは長老的な大先生に自由に書いてもらう。第一回から柴田承二、大塚栄子、中嶋暉躬、塩入孝之、早石修、金岡祐一、関谷剛男、仲井由宣、大村智、遠藤章、長尾拓、永井恒司、木幡陽というそうそうたる人々についで14番目であった。日本におられたらもっと早く名前が挙がったであろう。
どういう依頼、連絡をしたかメールも何も残っておらずほとんど記憶がないのだが、確かゲラの推敲のときちょうど来日されていた。お茶の水、山の上ホテルが常宿だということをその時知った。
さて1984年のニューヨークに話を戻すと、小田嶋和徳先輩は
コロンビア大から歩いてハドソン川(リバーサイドパーク)脇に立つご自宅の高級アパートを案内してくれた。夜は、それまで怖くて高いレストランばかりで食事していた我々に、地下鉄が地上に出たガード下の、ゴチャゴチャしたところでピザをご馳走して下さった。
分野が違うこともあり、その後お会いする機会がなかったが、北大時代にグルタミン酸を電気化学的に検出するセンサーを開発され、グルタミン酸作動性チャネルを研究していた私は別刷りをいただいた。
1998年?に東大助教授から名市大(教授)に移られても、筆不精で有機化学からすっかり離れてしまった私は、ますます接点がなくなってしまった。2007年ころだったかファルマシアである企画を思いつき、連絡をとろうとしたら、事故で大変な怪我をされ入院中と聞いた。それ以上の情報を知る者が知人におらずそのままになってしまった。いまどうされていらっしゃるか。
彼は教育大付属高校時代からボートを漕いでいた。
(開成との定期戦は大正9年から今も続いている。)
1977年、78年の戸田での我々の合宿にもときどき顔を出してくれた。早朝練習が終わってから皆で大学に向かうのだが、川口駅への前新田循環の揺れるバスの中で、彼は何かノートを書いていた。あとで一人一人渡されたのは、図入りの、揺れる文字で書かれた練習方法を含む詳しい個人別アドバイスであった。
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