10月14日、鶯谷・新世紀に行くのに日暮里駅南口から根岸を通った。
何回も歩いているのだが、ブログする前だったから写真を撮っていなかった。
2019-10-14 子規庵
撮影者背中側に中村不折旧宅、書道博物館がある。
ダンスパーティで日暮里に来た2001年ころ以来、何回か前を通っているがいつも閉まっていて(閉館16時)、入ったのは2015年11月3日。
日暮里ファーストプレイスでの競技会、27組中最下位のあと訪問。
中は撮影禁止だったから写真はない。
2019-10-14 子規庵裏口
右に見える小屋で記念品が売られていた。
子規の居た頃は線路も狭く家も低かったから上野の山が借景となっただろう。
この辺り一帯は前田侯爵(13代斉泰)の下屋敷だった。
加賀前田藩の下屋敷ではなく明治以降の前田家の別邸。
むかし、子規庵の建物は前田家の長屋を移築したと聞いて、本郷からもってきたのだろうかと不思議に思ったが、この地図を見れば、もともとこの地にあったもののようだ。
その使用人用二軒長屋(子規庵)は、子規の死後、震災も経て老朽化したため、昭和元年に解体。瓦や梁などそのまま使って再建、しかし空襲で焼失。
昭和25年、弟子の寒川鼠骨らが、戦前の形にそっくり復元再建した。
子規庵を出て線路方面を見る。ラブホテル街である。
右に行くと子規庵、左は尾久橋通りに出る。
左手前からくる道がうぐいす横丁
2019-10-14 笹の雪。 体育の日。
2017年5月27日に息子のおごりで食事した。
この日はそのまま鶯谷の駅前を過ぎて新世紀に行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・しかし根岸の名所といえば、羽二重団子。
日を改め
10月20日、新装なった本店に団子を食いに来る。
「王子街道」「右いも坂みち」の石柱、奥の句碑などは昔のまま。
昔の店を撮っておけばよかった。
この年7月に千駄木の家をみつけ手付金350万円を払った。地元民になったようで嬉しくてしばしば谷根千に来た頃である。その日は田端・千駄木から谷中墓地を歩いて、鴎外・漱石のように「王道」芋坂を下りて来店した。
運よく、案内された席は池もある中庭の前だった。
テーブルには根岸の昔を描いたランチョンシートが敷いてあった気がする。
当時は携帯をもっていなかったから写真がない。
しかしずいぶん狭くなった。
マンションに建て替え、かつての1階は団子の工場のほか、アトラス日暮里マスターコートの豪華なエントランス、住民の駐車場、駐輪場になってしまった。
好きなところに座っていいと言われても、昔を知る者にとっては座りたい場所がない。
立ち食いソバやのような、壁に向かった席に。
前回と同じものを注文。
税込み616円は消費税以上に上がったか。
持ち帰り二本セットと同じ値段でお茶が出るのが嬉しい。
以前の店で食べるのはとても魅力的だったが、しかし今の店内ではどうだろう?
羽二重団子は日暮里駅、西日暮里駅構内はじめ他にも出店している。
わざわざ本店を訪れる人と違い、彼らには明治の文豪たちに愛されたという老舗の付加価値は関係ないだろう。
パティシエの作る豪華なケーキのある時代に、スーパーの団子より高いのに売れ続けるというのは、なかなかのものだ。人間の味覚はそう変わらないということか。
以前の中庭にあったものを少しばかり狭いところに並べてあるが。
刀は、上野戦争のとき芋坂から逃げてきた彰義隊兵士が藤ノ木茶屋(羽二重団子)に置いて行ったもの。
この家まで日暮里村、すぐ南東の家から下谷区上根岸だった。
しかし、明治22年の市制町村制施行までは、一体が根岸だった。
上野の山の根っこ、音無川の岸ということだろうか。
風光明媚な土地だったらしく文化人が好んで住んだ。
羽二重団子6代目澤野庄五郎氏が昔の根岸について地図を残している。
笹の雪は、音無川のほうにあったが、昭和2年、尾久橋通り、尾竹橋通りが通るため現在地に移転した。
地図の番号は澤野氏による説明用だが、いまネットで見つからない。
前田侯爵、諏訪子爵、牧野子爵、日露戦争で活躍した瓜生外吉大将、鴎外が北千住から移った住まいのほか、旧岡野(このはな園)、伊香保などもみえる。
2015-09-22 根岸小学校の裏あたり
2015-09-22
屋敷地はもっと広かったと思われる。
・・・・・・・・・・・・
さて2019年、羽二重団子を食べたあと、向かいの善性寺に寄った。
2019-10-20
山門へのアプローチが橋のようになっていて、見れば将軍橋とよめる。
音無川(石神井川用水)にかかっていた橋である。
反対側には石橋にした年号明治39年が彫ってある。
するとここが音無川かと思ったが、川は道のこちら側で、昭和7年に暗渠としたとき善性寺がもらいうけ、山門前に敷いたらしい。
将軍橋というのは、六代将軍家宣の生母長昌院が葬られ、また家宣の同母弟、松平清武(舘林藩主)がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから。
日蓮宗の名刹、善性寺は大寺で、敷地は尾久橋通りまである。写真右のマンションは通りの向こうにあるが、道路ができるまでは向こうまで寺の敷地だった。
大黒天の持っている板のようなものは何だろう?
小判、いや、特大の大判だろうか、
確かに重そうだが、黄金なら持てないだろう、
いや大黒天は人間じゃないから、
などと思って振り返ると、黒のスーツを着た小柄な年配の男性が車から降りて歩いてこられた。
会釈すると立ち止まられ、これは京都からもらってきたんです、と説明された。
そのあと、善性寺の説明をしてくださった。
先々代?の住職、日謙上人は偉くて、立正大学の学長になられたとか、日蓮宗の信者だった双葉山が現役時代に身延山で日謙上人の車いすを押していとき、双葉山の右目が悪いことを見破った話などをされた。
あれが双葉山のお墓ですよ、
と教えてくださったあと、左奥のお住まい?に歩いて行かれた。
墓石には龝吉家としか書いてなく何の案内板もない。
半信半疑で帰宅後調べたら
双葉山の本名は龝吉定次(あきよしさだじ)といった。
別ブログ
鶯谷駅:かつての山の手もラブホテル街
笹乃雪と公弁法親王、御隠殿あと
御隠殿坂、芋坂、正緑荘
千駄木菜園 総目次
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