2021年7月9日金曜日

松陰神社は長州閥の聖地。桂太郎墓、広沢公神道碑

 6月30日、恵泉女学園に用事があった。

地図を見たら東のほうに松陰神社がある。昔から気になっていたが行ったことがない。早く家を出て恵泉の最寄り駅、経堂の2つ手前、梅ケ丘で降りた。

改札を出ると学生がいっぱい歩いていく。
松陰神社の横に国士舘大学があったことを思い出し、彼らの後をついていった。
2021‐06‐30 10:59
坂を上った国士舘の体育・武道棟の東に区立若林公園。
松陰神社はこの公園に隣接している。

11:01
若林公園の敷地内だろうか? 神社との間に公爵桂太郎之墓。
公園は昭和37年開設というから、墓ができた大正二年、一帯は松陰神社同様、長州毛利家の所有であったのだろうか。

桂太郎は児玉源太郎、川上操六らとともに陸軍三羽烏と称されたが、早死にした天才川上、日露戦争の前線で活躍した児玉と比べ、桂は政治家として生きた。日露戦役の時は総理大臣だった。
1900年には拓殖大学の前身・台湾協会学校を創立(別ブログ)、1910年韓国併合時の総理大臣でもある。

別ブログ


桂太郎の墓の隣に塀で囲まれた巨石が立っていた。
鳥居もある。
石碑は最初なんだか分からなかったが、縦に二文字ずつ読めば、
故参議贈正三位廣澤公神道碑
討幕運動では木戸(桂小五郎)の代理人、同僚として奔走した広沢真臣の墓のようだ。

鳥居があるが神道碑は神道と関係ない。
中国で墓前に建てられた故人の事績を顕彰するもの。神道とは墓の南東方のこととも墓穴に通ずる道ともいわれる。明治維新のあと大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美、木戸孝允の神道碑が明治天皇の命により建立された。(勅撰碑)

広沢は明治2年、維新の功臣として大久保利通、木戸孝允と同じ永世禄1,800石を賜ったが、明治4年39歳で暗殺された。そのめめ明治10年、11年まで生きた木戸、大久保と比べると教科書に載るようなことがない。
しかし広沢家は明治12年には華族に列せられた。華族令以前に華族となったのは、大久保、木戸家と広沢家だけである。

11:02 松陰神社
ここはもともと毛利家の別邸があった。
江戸屋敷からは遠く、鷹狩にでも使われたのだろうか。

明治維新のあと、京都の公家、地方の大名家は東京に屋敷をもった。初めは不平士族の反乱を防ぐためにも藩主は東京にいてほしかったこともあろう。文京区だけでも前田、阿部、浅野、細川、土井、酒井、大給、太田、松平、藤堂、松浦など屋敷を構えた。五反田にあった島津の本邸は今清泉女学院になっている。しかし毛利公は東京に住まなかった。
地形は北側が崖で目黒川の支流が流れている。

11:03
六月松陰先生の言葉
当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ
安政六年十月二十五日 在江戸伝馬町獄三十歳

と貼ってあった。
お品書きを書く料理人、死亡診断書を書く医師は文字を練習すべきだと何かで読んだことを思い出した。ありがたみが違う。

松陰は安政の大獄に連座し、伝馬町牢獄で刑死、小塚原の回向院に葬られた。
罪人の処刑場の墓とは忍びない。4年後の文久3年(1863)、安政大獄関係者が赦免され改葬も許されたため、高杉晋作など門人によって当地に改葬され、明治15年(1882)墓の側に神社が創建された。

そうか、今日は6月の晦日。夏越しの祓(なごしのはらえ)。茅の輪くぐりの日。
くぐり方の作法があるみたいだが、くぐらず。例によって本殿にもお参りせず。
輪は当日だけではなく、土日を3回含む2週間置かれるようだ。

11:06
本殿の右に松下村塾の復元模型があった。
藩校明倫館が士分のものしか入れなかったのに対し、玉木文之進が起こしたこの塾は足軽や百姓まで受け入れ、のちに明倫館の塾頭を務めた甥の吉田松陰が引き継いだ。
家が百姓、父の代でようやく足軽になった伊藤博文は、敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったまま聴講した。

塾の四天王とされた久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、高杉晋作は維新前に死んでしまったが、生き延びた伊藤、山県らは明治政府の中心となり、松陰神社は国家の中心にいた長州の人々によって整備された。
11:07
萩の本家・松下村塾は現存し、ほかにも玉川学園などに復元模造は多数存在する。

松陰像は参道西側にもある。
一度は幕府と組んで長州を攻めた薩摩と違い、長州は(恭順派が主流になっても)討幕の火は消えなかった。理にさとい薩摩、思想に固まった長州というイメージ。

11:10
お祓いをしてもらう初穂料は5000円以上から3万円以上。
茅の輪をくぐっていた女性が申込用紙を書いていた。
何をお願いするのだろう?

11:10
明治41年に奉納された32基の石灯篭。
その名前をみれば毛利、吉川、小早川の藩主縁故者、伊藤、山県ら生存者と品川弥二郎、山田顕義ら門下生の子孫、また桂、乃木、寺内ら陸軍長州閥のそうそうたる面々。

ほかにも明治百年祭の記念碑の裏は岸信介と書いてあったし、ここは戦後も長州閥の匂いが強い神社である。
松陰墓所に向かう左に昭和女子大の「恩師の墓」と「同窓の墓」があった。

右に曲がると正面に松陰先生墓がある。
5つあるのは松陰の遺骨を回向院から移したとき、同じく刑死、回向院に葬られた頼三樹三郎と小林(良典)民部の骨も一緒に改葬、さらに後日、藩政改革、攘夷倒幕運動に活躍するも早世した来原良蔵、福原乙之進を改葬したから。
ほかにも維新の烈士の墓、慰霊碑が立っている。

墓前に徳川家奉納の石灯篭があった。
はて、松陰先生を殺した安政の大獄、大老井伊直弼と幕府は長州にとって憎らしき存在。
この徳川は誰だろう? 16代家達の宗家だろうか?

11:13
写真右下の徳川家奉納水盤には
「明治紀元戊辰冬十二月」とあった。

脇にあった説明板を見れば、松陰らの墓は禁門の変、長州征伐の際、幕府によって破壊されたらしい。長州が天下を取った明治元年、木戸孝允らによって墓は修復された。それを聞いた徳川家が謝罪の意を込めて寄進したらしい。
このとき榎本武揚は函館におり、最後の将軍慶喜は、宗家が70万石で封じられた駿府で謹慎中であった。

思ったより見どころの多い神社だった。

4年前、南千住の回向院で吉田松陰の墓を見たことがある。
すっかり忘れてしまったので自分のブログを読みなおしたら面白かった。




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