7月12日、巻石通りから荒木坂を上がり会津松平家の跡地をすぎ、
切支丹屋敷をみて、深光寺に曲亭馬琴の墓を訪ねた。別ブログ
20200713 巻石通り、金剛寺の場所、れんげ山霊園の不思議
20200714 第六天町の谷を挟んだ徳川慶喜邸と会津松平邸
20200715 切支丹坂と蛙坂、パークハウス小日向の遺骨
20200716 滝沢馬琴と深光寺のミョウガ
2020-07-12
ちょうど深光寺入り口、拓殖大東門あたりは、茗荷谷のど真ん中である。
国土地理院HPから
すなわち、茗荷谷は小日向台と小石川台の間にあって横を向いたY字型をしているが、その中心にあたる。
15:13
ちなみに拓大のスクールカラーのオレンジ色は紅葉色らしい。
ここ茗荷谷が紅葉の名所だったから、という。すると高台は紅陵である。
後で書くが、戦後大学名が不適切ということで一時紅陵大学と称した。
ちなみに拓大紅陵は木更津紅陵高校だったからここの紅葉は関係ない。
ミョウガの植わった茗荷谷中心、拓殖大学東門から北に行けば茗荷坂から春日通にでるが、南の小日向台に上がる。
15:14
左は蛙坂の貞静学園短大の裏にあたるが、写真左に見えるはグランヴィ小日向という老人ホーム。
ここに昭和初期、台湾総督府が台湾からの留学生のためにつくった寄宿舎、清華寮があった。(拓殖大学と関係あったかもしれない)
戦後、総督府は消滅し、清華寮の所有権が宙に浮いた。総督府は日本政府の出先機関であるから国有地のはずだが、台湾、北京も所有権を主張した。そのうち財団法人進徳奨学会が2006年に登記したが国が争う。その間、廃墟に中国人、台湾人を中心とした不法居住者が住み、九龍城砦と呼ばれた。2007年に火災が発生、建物は焼失、そのまま放置された。
話は知っていたが、見に来る機会がなかった。ようやく来たらすっかりきれいになり跡形もない。もっと早く来るべきだった。(調べたら2013年5月から解体始まった)
リハビリ型老人ホームは2019年10月開設という。
右はインペリアハイツアミダ、1973年築。
ここは清華坂とする。
15:16
このあたり地形が面白い。
清華坂の北西は急な崖になっている。今はフェンスがあるが、かつては川か池の縁にあるような欄干があったようだ。コンクリート製の支柱だけ等間隔に残っている。
(清華坂の写真が分かりやすい)
谷の向こうは拓殖大学
下を覗けばいかにも茗荷栽培に適している。
崖を右(北)にみて、西に歩くとちょっとした広場に出た。
15:18
旧住所でいえば、左が小日向茗荷谷町、右が小日向台一丁目だった。
拓殖大や深光寺を含む茗荷谷は小石川ではなく小日向であった。
左の道をまっすぐ南に行けば、小日向台小学校や新渡戸稲造邸跡の東を通り、服部坂に通じる。
住宅の間を北に曲がると拓殖大学の裏に出た。
15:19
拓殖大学 C館
こうしてみると学生数は多そうだ。八王子(外国語学部、国際学部、工学部)と茗荷谷(商学部、政経学部)の5学部で定員2100人。
2018年、4学年で、9250人。大学院312人。
八王子があるからここは思ったより多くない。
拓殖大の周りは小日向らしい住宅街
15:21
北にあるいて宅地を抜けると、貞静学園高校、中学にぶつかった。1930年創立だが、昔の地図を見るとここには日本女学校がある。
昭和7年(1932)
日本女学校、拓殖大学はあるが、跡見(1933移転)はなく大塚兵器庫が広い。
ビーグルがとおる広い道に出ると、お寺みたいな建物があった。
15:25
拓殖大学 F館(国際教育会館)
主に「別科 日本語教育課程」や授業が行われているらしい。
元々は義和団の乱の賠償金で東方文化学院東京研究所(現:東大東洋文化研究所)として建設された建物である。戦後は外務省研修所も入居、東大と外務省が共同で管理運営していた。
1967年に東洋文化研究所が東大本郷キャンパスに移転、1995年に外務省研修所が相模原市へ移転、敷地が払い下げられることとなった。
とうぜん大規模マンションになるところ、建築物としての歴史的価値を訴える建築家と、マンション反対の地元住民によって保存運動が展開され、財務省は建物の保存を条件に拓殖大学に払い下げた。
15:26
設計は震災後の東大の建物を多く手掛けた内田祥三(1933年築)。
建築業界誌や文京区のガイドブックにもたびたび紹介されると、拓殖大学公式サイトにある。
門のすぐ右に守衛室があり、写真を撮っていいかと聞いたら断られた。
立ち入り禁止、門をくぐってもいけないようで、そんなに厳しくしなくても、と思った。
今大学は地元、市民に開放傾向にある。市中にファンを増やすチャンスなのに、彼は無害な老人に意味のない権威をふりかざして(職務に忠実ともいえるが)、味方を獲得し損ねた。
私が守衛だったら自慢げにこの建物について講釈するんだけどね。
15:27
向かいは跡見大学
1940年の地図を見れば、この場所は日本女学校。
1940(昭和15年)
拓殖大学、日本女学校の北、西、大塚兵器庫のところに東方文化研究所ができ、跡見、女子高等師範学校が移転してきた。
今地図を見れば東洋文化研究所はひろかった。拓大F館の北、文京大塚ハイツ、新大塚公園、さらには西の音羽中学も敷地だったようだ。
すると、保存された内田祥三設計の建物は東南の端に立っていたことになるが。
15:28
新大塚公園
若い母親と子供たちが遊んでいた。
学校が多く、いかにも教育熱心な親が多そうな地域である。
このあと、ぐるりと跡見女学校正門跡から春日通に出た。梅雨の中休み、暑かったのでコンビニでジュースを買い、地下鉄茗荷谷駅のところから茗荷坂をおりて拓殖大学のところまでもどってきた。
拓大の本館が見える坂下まで来ると、味のある木造家屋がある。
15:48
拓殖坂とする
茗荷坂下から拓殖大正門に上がっていく坂がある。日本女学校(いま貞静学園中学高校がある)の前を通り東洋文化研究所の前に出る道で、明治のころからあった。
15:49
坂上に拓大本部棟(A館)がみえた。
大事なことを書き忘れた。
むかし、拓殖大学って、変な名前だと思ったことがある。
経緯をみれば名前の通りである。
1895、日清戦争の結果、台湾が日本領となった。
1900、台湾の開発、経営を担う人材を育てるため、台湾協会学校が設立される。
1901、現在地に移転。
のち、 専門学校令による高等教育学校として、台湾協会専門学校、 東洋協会専門学校、東洋協会植民専門学校、拓殖大学(専門学校)と改称、ソウル、旅順にも分校を置いた。
1922、大学令による東洋協会大学設立認可(日本で12番目の私立大)、
1926、拓殖大学と改称
1946、台湾が日本領でなくなり、拓殖大学を紅陵大学と改名。
1952、再び名称を拓殖大学に戻す
1964、八王子に42万坪購入
歴代校長(総長)で有名どころをあげると、初代・桂太郎(台湾総督)、2代小松原英太郎(桂内閣の文部、農商務大臣)、3代後藤新平(総督府民政長官)、5代宇垣一成、12代中曽根康弘、19代森本敏(現在)など、国策大学の色彩が濃い。
1932年築の本部棟(A館)前には桂太郎の銅像があるらしい。
歩き疲れていたのと、どうせ構内には入れないと思い坂を上がらなかった。
1914年に作られたらしいが戦時中に拠出されなかったのだろうか?
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